【マギ】殿方ご免遊ばせ
「ジャーファル」
「え……」
まずわずかな痛みがあって、次に体で風を切る感覚があった。たくましい腕に掴まれたと気づいたのは、視界が回り、乱れた寝台に倒れこんでからだった。シンの顔が近くにある。太股のぼんやりとした痛みは、大柄な彼が私にのしかかっているからだ。いきなりのそれに声が出ない。この人は一体何を考えてるんだろうか? べたついた寝台の上に私を押し付けて、誰かを抱いたそこに、どうして。
「お前だけだよ、ジャーファル。信じてくれないか。さっきの噂は根も葉も無い噂だ」
金色の耳飾りが揺れる。長い黒髪が垂れ、深い影が出来る。声色だけでは彼の真意は読み取れない。
「……そんなの、知ってます。あの噂は嘘だって。でも、あなたがこの娼館で何をしてるのかも知ってます」
無理やり搾り出した声はかすかに震えていた。大きな掌に髪をすかれる。クーフィーヤがずるずると敷き布を滑ってゆく。体をつつむ、甘い腐臭に視界が揺らぐ。私こそあなただけだ。あなただけ、他に誰にも許したりしない。
「ジャーファル……」
きつく抱きしめられる。それはまるで子供みたいな、加減を知らない乱暴な抱擁だった。塩からい汗の匂いがする、私が焦がれてやまない、求めてやまない彼の匂いだ。深く吸い込み、額をこすり合わせる。彼のまなざしは真剣だ。きっとさっきの言葉は嘘じゃない。ただ、彼は王で、私はそれにふさわしい人間ではなかった。それだけだ、私は今、それを知っただけだ。
「そんな顔しないでください。いいんです、その、あなただって男ですし、それにあなたは王だ。私はちゃんとわきまえていますから」
だから、はやく帰りましょう。言いながらたくましい胸板を押し返す。シンは何も言わない。大丈夫、ちゃんと笑えているはずだ。目元をくすぐられ、からかうように唇が重なる。大丈夫、私は幸せだ。この人が全てを教えてくれた。幸せも、求められる悦びも、選ばれない悲しみも、およそ人の感情の全てを。
「ジャーファル、愛してる」
いつもなら欲しくてたまらないその言葉に顔を背け、ひんやりとした石の床に足を下ろす。はやく頭を切り替えなくては。こんな顔で会議には出られない。
「ほら、早く行きましょう。時間がありません」
「違う、違うんだ。お前は勘違いしてるんだよ。というか、いつ言おうか迷ってたんだが、こういのにお前を巻き込むのは気がひけて……」
シンの腕が再びこちらに伸び、強引に視線が合わさる。もったいぶったそれに体がすくむ。もし彼女を愛していたらどうしよう、彼が誰かに執着したらどうしよう、彼が国民以外を愛してしまったら、彼が――。
「さっきの娼婦を覚えてるか? 彼女は男なんだ。ここで情報を収集してもらってるんだよ」
え?
急に血が回り始める。えっ、そんな、馬鹿な、娼婦が男? え? そういう店なのかここ? ええと、ええと……。
「あなた、男を抱いてるんですか!」
「どうしてそうなる! あぁもう!」
シンが叫ぶ。頬は紅潮し、声も少し上ずっている。けれどそんな、ええと、それじゃあ、彼はずっと私だけだったってことなのか?
「だ、だって敷き布が乱れてるし、腰布は落ちてるし、えっと、それから――」
「もういい、ジャーファル」
「で、でも……」
「もう黙って」
抱きしめられる。もう押し返せない。息もつけない、どうしよう、恥ずかしい、彼が許すのが私だけだったなんて、そんな、目も合わせられない。
「愛してるよ、ジャーファル」
熱っぽいささやき声に指先がしびれる。かさついた指先が首筋をなぞる。駄目だ、そんな、あなたを迎えに来たのに。そう思うのに、体の自由はきいてくれない。触れられた部分から麻痺してしまったみたいに、私はこの憎らしい恋人の言いなりになってしまう。
「愛してる」
風が薄布をはためかせる。甘い雨の匂い、それは彼のくちづけと共に、体の奥深くへ染みこんでゆく。あぁどうしよう、会議にまた遅刻してしまう。
「そういえばさっきの客、娼婦を追い出して男を連れ込んだらしいわよ。姐さんが怒鳴りあうのを聞いたって。道理であたしにお呼びがかからないはずだわ。おかしいと思ってたのよ」
「何よ、あんた最近指名少ないじゃない。そろそろ引退なんじゃないの?」
「あぁ、シンドバッドさま、うちにも来てくださらないかしら。そしたらここでとびっきり楽しませて差し上げるのに……」
「あ、そうそう、さっきの話の続きだけど、シンドバッドさまの隠し子、今王宮に来てるらしいわよ。何でも暗黒大陸の子なんですって」
「まあ! 嘘よそんなの、煌帝国の姫君と婚約中なんでしょう? 修羅場じゃない! でも……」
「でも、シンドバッドさまだからねぇ……」
作品名:【マギ】殿方ご免遊ばせ 作家名:時緒