ゆびさきの炎
「…何しに来たのよ」
「いやいや、ここ俺の部屋でもあるから」
ひどいよリタっちーと男は肩を落とした。大部屋に設えられた窓は全て開け放たれていて、洗い立てのカーテンが外からそよぐ潮風にふわりと踊る。窓のそばに置かれたイスに腰掛けたままリタはこれみよがしにため息をついた。男の言葉も、爽やかな潮風も、リタの眉間に刻まれた皺を伸ばす材料になりはしない。
「リタっち一人?」
「……そうよ、悪い」
「いやぁ、悪かないけど…なになに、ご機嫌斜めねぇ。何かあったの?」
なで肩をひょこひょこ揺らしながら近づくレイヴンにリタはあごでテーブルの上に置かれた小さなボトルを示した。
「……?ああ、これマニキュアじゃない」
ひょいと手にとり何やら感心したようにふーん、やらへぇー、やらもらす声にリタは腕を組んだままそれを見やる。
中天に差し掛かったばかりの日の光がレイヴンの手元をきらきらと輝かせる。むっつりと唇を引き結んだままリタはそっと目を逸らした。
「リタっちも年頃のオンナノコってわけねぇ」
「おっさん、それどういう意味よ」
「どういうってそりゃあ…って!ふふ、深い意味はないわよ!だから握り締めた拳を振り上げるのはやーめーれー!」
「ふん!」
テーブルを挟んでイスに腰掛けたレイヴンは顔の前にマニキュアをかかげる。
「色気づいたわけでもないんだったら、またどうしてこんなもんリタっちが持ってんのよ。しかもしかめっ面して、さもこれが親の仇と言わんばかりに睨みつけちゃって」
「…エステルが」
「嬢ちゃん?」
「さっき二人で買出しに行ったでしょ。その時に、馬鹿な店員が、エステルにすすめたのよ!ああ、もう!思い出しただけで腹が立つ!!」
旅に必要な道具や食材だけを大量に買い込み、女性用の装飾品や化粧品に目もくれない女二人組みに、同性として同情を禁じえなかったのか女性店員がオマケだと言ってリタとエステルに渡したのが二つの小さなボトルだった。一つは目覚めたばかりの朝焼けを切り取ったような淡い橙の光がきらきらと瞬いている。もう一つは目を見張るような鮮やかな黄金だ。「綺麗な色です!ありがとうございます」と丁寧に頭を下げて二つのミニボトルを手に微笑むエステルに知らずリタの口元もゆるんだ。両のてのひらにおさまったミニボトルを交互に見たあと、エステルは黄金の液体が入った方をリタに差し出した。「たまには、オシャレしてもかまいませんよね」その笑顔に拒否なんて出来るわけがない。
「余計なことしてくれちゃって!頼んでもないものを押し付けるなんて何考えてんのよあの店員!…まぁ、エステルが喜んでくれたからよかったけど。でも、だからって私の分まで渡すことないじゃない!」
「リタっちの年ならおかしいことはないでしょう」
うっ、と言葉に詰まる。
それは確かにそうだとリタ自身思わないわけではない。
幼い頃から魔導器以外に目がいかなかったことと、まわりにいる人間に目がいかなかったことが、リタにそういった歳相応の関心を覚える機会を持たせなかった。それはリタが外の世界を旅することになっても変わるはずはなかったのだが。
脳裏に豊満な体を惜しげもなく晒したジュディスと気品を感じさせる佇まいのエステルがスキップする。リタの「オンナノコ」を刺激するものは中にいようが外にいようがないことに変わらないが、そばにいる人間が変化をもたらすきっかけとなってしまった。目もいかなかった人間の表情がリタの目を惹きつける。
鮮やかな毒だと思った。知ってしまえば身動きが取れなくなってしまうものだと回転の速いリタの思考回路は対抗策を即座にはじき出したが、遅かった。見て見ぬふりが出来るほどリタの好奇心は小さくはないし何より「まぁ、いいじゃない」なんてリタの眠っていた感情がむくりと頭を上げてしまったのだから。
レイヴンの手元で輝くミニボトルにちらと視線をおくる。幾ら聡いリタと言えど避けてきた予測不能の感情を完全に受け入れるには一人の時間が長すぎた。なんだかとても馬鹿にされている気がする。それを手ににやにやとこちらを観察する男も然り。
「ああもうっ気に食わない気に食わない気に食わないーっ!!!こんなものーっ!」
熟練のスリも真っ青の手管でレイヴンの手からミニボトルを奪い取とり、リタは振り上げた手をそのまま、
「あ、嬢ちゃん」
背後に隠した。
「エエエエエエエステル!?ち、ちち違うのよこれは!!別に気に入らないとかそういうことじゃなくて、ただそのつまりー、こういうの塗るの初めてだから…そ、そう!気合をいれなきゃあって………あれ?」
一つしかない扉は閉まったままぴくりともしていない。まさか開けっ放しの窓を超えてお姫様であるエステルが入ってくるはずもない。と、いうことは。
「ぶふっ」
「……………」
「そっかそっか。天才魔導士のリタっちもオンナノコ方面はまだまだおこちゃまレベルなわけね。初々しいねぇ、おっさん眩しくて目開けてらんないわ」
何か言っている。ゆるい口がすらすらと言葉を垂れ流している。耳障りな音しか生まないのはきっとどこか故障しているからね。なら、なおしてあげなきゃ。古典的な方法で。
「言いたいことはそれだけかーっ!!!」
一片の迷いのない動作でリタは握った鎖を男の顔面めがけて振り下ろした。ばしぃ、と割と冗談ですまない音をたて顔面にめり込んだ鎖の先端についた重しが一拍おいてずるりと床に落ちた。同時に蛙が潰れたような声が爽やかな部屋に愚鈍な音を掻き鳴らす。
一片の同情もない表情で普段は見上げてばかりの、悶絶する大の大人を見下ろしてからリタはどっかとイスに腰掛けた。
「いってえぇぇ…い、いくらなんでもこれは痛すぎるっつーの!」
「ふん、言うこと聞かない魔導器にはややこしい術式で修復を施すよりこっちの方が効くのよ。ま、どんな悪い子でも魔導器にはもっと優しくするけど」
「ひでぇ…俺様人間扱いされてない…」
「これに懲りたら少しはその軽すぎる口をなんとかすることね。無理でしょうけど」
恨みがましい目をおざなりに流して握り締めたままのミニボトルを目の前にかかげる。鮮やかな黄金が瞬く。オシャレというものに関心がないリタでも、もう一つの橙色のマニキュアがエステルに似合うことくらいはわかる。傷ついた人を癒すあの指先にあたたかな色は映える。では、と自分の十本の爪を見下ろしてみる。小さくて丸い爪はいかにも子供らしい。大人の女性を匂わすジュディスとまでは望まないけれど、これでは塗られるマニキュアの方が可哀相だと思ってしまう。
ぐ、とため息を飲み込んだ。いつからそんなことを気にするようになってしまったのか。
「なーリタっち」
「…うっさい」
「うっさいて…おっさん、そろそろ傷つくわよー」
「何よ!まだ何か、」
「それ、塗ったげよっか」
「、は」
「初めてなんでしょ」
「うん。は、あ、そ、そんなわけ!」
「隠さない隠さない。ついでに照れない照れない」