ゆびさきの炎
口を挟む暇もなくあれよあれよという間にレイヴンに手を包まれる。想像もしなかった大きなてのひらに肩がびくりと震えた。自分の倍も生きたその手に比べ、なんて小さくまっちろいことか。幼い手を見られていることがたまらなく恥ずかしくて引っ込もうとした手は、
「はいはーい、動かさないでくださーい」
ぴくりとも動かない。
先ほどはあっさりと男の顔面に鎖を埋め込むことが出来たのに。それが男の道化の一部だと頭では理解していても開きすぎている力の差に体が火照る。居たたまれない。
ふるふると震えるリタの前で男は鼻歌さえ奏でながら器用に片手でミニボトルの蓋を開ける。途端、鼻を襲う強い臭いに顔をしかめる。外からは想像も出来ないほどの臭いはひどく現実的だ。男は嫌そうなリタを放置したまま蓋についたブラシに黄金色の液体を染み込ませてリタの丸い爪に色を広げた。つ、と冷たい感覚が指の先から胸の中心を通って背中を駆け下りる。
「ちょ、ちょっとおっさん!あんた何して…っ」
「何ってマニキュア塗ってんでしょーが。コォラ、動くな」
「うひぃっ!」
奇声を止めたくとも、まるでレイヴンが何か術でも使っているのではないかと疑ってしまうほど体はぴくりとも動かず着々と爪は彩られていく。指先を走る感覚に慣れはおとずれず、奇声を押し殺そうと唇を強く噛み締め、リタはぎゅっと瞼を閉じた。
変革を恐れるようなリタの震えた瞼をしっかりと視界の端に捉えていたレイヴンは苦笑を漏らした。
(なーんか危ないことしてるみたいだわ)
「でも、何か本当に初めてみたいね、こういうの」
「そ、りゃそうよ。私を誰だと思ってるの。天才魔導士リタ・モルディオ様よ。あたしはずーっと、魔導器とだけ向かい合ってきたの。でなきゃこんな研究出来てないわよ。朝から昼、昼から夜、気づけばまた朝…そんなふうに毎日向き合ってたからこの子だってあたしの期待に応えてくれるってわけ」
首につけた武醒魔導器を瞼裏に描く。リタにとって魔導器は何より大切な存在だ。人の顔をうかがいながら言葉を選んだり、上や下を気にする必要もない。多くの言葉を必要としないその関係が何より心地いい。
「リタっちらしいというか。けど魔導器だけじゃないんでしょ、今は」
「……どういう意味よ」
「だってリタっちは自分がこう!って決めないと動かない人でしょ。いくら嬢ちゃんに渡されたからって自分が興味なきゃあさくっと捨てるのがお前さんだろう?」
「それは……、ちょっとおっさん!くすぐったい!」
「と、言いつつも逃げないからおっさんもいじわるしたくなるのよねぇ」
「あたしで遊ぶな!」
冷たい感覚が指先を走るのに顔は火が出るほど熱い。視覚を閉ざしているせいか聴覚と触覚がいやに鋭敏になっている気がする。わかっているのにリタは目を開くことが出来ない。
「いい傾向だと俺は思うけどね。確かに人間関係なんてめんどいことばっかりだけど、お前さんは敬遠していたそこに別の何かを見つけたんだろう。そうやって知らなかったことを知るのはいいことばかりとは言えないが、悪いことばかりでもないさ。いろんなもんを知って試して、ゆっくり大人になればいい。どんなにお前さんが聡い子でもまだまだ子供よ。子供には子供にしか出来ないことがたっくさんある。それこそ大人になっちまえば出来ないことがたくさん、な。俺みたいなおっさんはそういうのを尊い、とか思っちゃったりするわけよ」
ふ、と息がふきかけられる。ひどく穏やかな声が耳朶を濡らす。
「まあ、大人と子供の間でもがいている若人へのおっさんからのエールっつーことで。ほい、出来た」
「…ん」
暗闇を見ていた目は窓から差し込む日差しに眩む。時間の経過が見られない大きな空間の中でまるで高位魔術を乱発したあとのような気だるさを感じていた。それを振り払うようにゆるゆると瞼を押し上げ、強く閉じすぎたせいか霞む視界の中に両手を映しこむ。
「…かわいい」
素直な言葉が唇からぽとりと零れる。
黄金色が十本の指をきらきらと彩っている。不思議と幼く見えた手のひらも少しだけ見栄えがよくなっている気がしなくもない。差し込む日差しに輝く爪は祝福されているようにも見えて心が弾んだ。
「うんうん、リタっちにその色ぴったしだね」
上目遣いに目の前の男を窺うと嫌味のない笑みを浮かべている。それは本当に、この男にしては珍しいほど、真っ直ぐな賛辞だった。
「ふ、ふん!まあまあの腕前ってところね」
「またまたぁ。本当は嬉しくて嬉しくてしょうがないくせに、素直じゃないねぇリタっちは」
「う、うっさい!」
くるくると蓋を閉めるレイヴンを横目にもう一度リタは自分の両手を見下ろした。
不思議。
たったこれだけのことで輝いて見える。それをレイヴンがやったかと思うと微妙な心境にならないわけではなかったが、そんなに悪い気分ではないのも事実だった。今ならこれを貰ったときのエステルの嬉しそうな笑顔にも同意してしまいそうだ。
「リタっち。はいよ」
「ああ、うん」
「それ、あとで嬢ちゃんにも見せてやんなよ。きっと喜ぶからさ」
「……そうね」
興味のなさそうだったリタが塗ったとわかればエステルは喜ぶ。エステルはそういう女の子だ。だからリタはこうしてここにいる。その笑顔のためなら、あの居たたまれない時間も無駄ではないのだろう。
「おっさん」
「んん?」
「……あー、うん、あれね。褒めてつかわす」
「ははー!ってね」
ぱちりとまばたきをするレイヴンに調子に乗んないでよ、と返してリタは笑った。
男の軽口も、潮風も、不思議なほど不快ではなかった。レイヴンはベッドにごろりと寝転がりどんな表情をしているのかは見えない。知らずほっと息をついて理由もなく肩に力が入っていたことに頬が熱くなる。ぺちぺちと冷たい両手で頬を挟んで冷やしてから、ふと気づいた。男の残した熱は潮風と共にどこかへ流れていったのか、どこにもなかった。
ゆびさきの炎(2008.12.24)