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砂塵のむこう・2

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「鄧艾殿が?」
 鍾会は、寝台で声を上げた。 家人が、鄧艾の来訪を伝えてきたのだ。
 あの戦場からの帰還から、数日が経っていた。鍾会を見舞いに来たのだという。
「お通ししてよろしゅうございますか、旦那様?」
「・・・あ、ああ、通してくれ」
 抑揚のない声で答えたが、鍾会の胸は鼓動が上がった。
 なぜ、わざわざ見舞いなどに来たのだろう。
 いや、彼はその場に居たのだし、当たり前と言えば当たり前だが・・・。
 鄧艾の顔を見るのが、少しだけ怖い気がした。気持ちが揺れる。どんな顔で会えばいいのか分からない。だが、会いたくないわけではなかった。
 病気ではないのだから、夜着のままで人前に出るのは憚られた。従僕を呼び、服を用意するように言った。まだ歩くことも、一人で立ち上がることも困難であったが、杖を使ってどうにか立ち上がり、夜着の上から服を着る。
 そこへ、鄧艾が入ってきた。
「鍾会殿」
 杖で立っている鍾会を見た鄧艾は、挨拶もそこそこに鍾会に近づき、寝台に戻そうとした。
「動かしてはいけないと言ったのに。歩くなんて」
 肩を抱かれて寝台に座らされた。鄧艾の顔が間近に迫り、鍾会の鼓動がまた跳ねた。
「だ、大丈夫ですよ。大した怪我ではありませんから」
 思わず顔を背ける。あの時と同じ、鄧艾の匂いがした。
「しかし」
 いつも冷静な鄧艾の顔に、心配の影がよぎる。そんな顔をされるのも、鍾会の心を波立たせる。
「平気です。それより、わざわざ来て頂いたのに、寝台の上で申し訳ありませんね」
 心のわずかな揺れに、自分で動揺しながら、それを覆い隠すように儀礼的な挨拶を述べた。
「いや。自分こそ、立派な軍袍をいただいた。礼を言う」
 鍾会の治療のために鄧艾の軍袍を破ってしまったため、軍袍を新調して鄧艾に届けるよう言ってあった。その礼だった。
「気にすることはありませんよ。あなたの袍をだめにしてしまったのだから」
 部屋の中央にある卓と椅子に鄧艾をいざない、自分も杖をついて寝台から立ち上がり、足を引きずりながら卓に近づこうとする。
 ふわり、と体が軽くなった。
 すばやく近づいた鄧艾に、体を支えられていた。背中に、あの太い腕が回されている。筋肉質の肩に自分の肩が乗り、足元は浮いていた。
「鍾会殿、移動するときは自分に言ってくれ。手を貸す」
 真横に、鄧艾の横顔があった。視線が重ならないように、鍾会はその横顔を見つめた。 鼻梁が高く、薄い唇とともに男らしい線を描いている。口元の不精髭は、鍾会の頬をくすぐったあの時より伸びていた。肌は、鍾会と違い日に焼けて浅黒い。鍾会は、自分の軟弱そうな白い肌や細い体を恥じた。
「馬の下敷きになったのだ、全身の打ち身も酷かったであろう。鍾会殿、あまり無理をするな」
 鄧艾は鍾会を抱え、椅子に腰かけさせながら言った。自分も席につく。
「医師には見せたのだろう。後遺症の心配はないのか?」
「ええ、安静にしていれば元通りに治ると言われましたよ。そう言えば医師が、鄧艾殿の処置が適切だったのが良かったと、言っていました」
「そうか」
 鄧艾は、わずかに安堵の表情を見せた。普段から、感情があまり表情に出ない男だ。
「戦場で受ける傷の処置の仕方しか知らぬのだが。自分のような素人の処置でも、役になって何よりだ」
 従僕が酒を運んできた。鄧艾の杯に酒を注ぎ、次いで自分の杯にも酒を満たす。
「鍾会殿、酒は傷に障るのでは?」
 鄧艾の言葉に、鍾会は不満そうに眉根を寄せた。
「過ごすほどは呑みませんよ」
「しかし」
「毎日寝てるいだけで、つまらない。部屋から出歩きたくなっても当たり前でしょう。酒くらい呑ませてください」
 鄧艾は、まだ何か言いたそうにしていたが、結局黙って杯を口に運んだ。
 その口元をじっと見ていた鍾会が、小さい声で呟いた。
「なぜ、そんなに心配するんですか?」
「え?」
 鄧艾が、視線を鍾会に向ける。目が合って、鍾会は反射的に顔を逸らした。
「あなたにとっては、私の怪我など、どうでもいいことでしょう」
「そんなことは」
 声に、心外なことを言われたという色があった。鄧艾自身も気づいたのか、言葉を切って、気持ちを落ち着かせるように息を吐く。
「・・・その場に居合わせたのだ、無関係ではない。まして、鍾会殿は我が軍の軍師。徴兵された歩兵とは違う」
 鍾会は、鄧艾の言葉を聞いて、少し落胆している自分に気づいた。
 期待していた言葉が聞けなかったのだ。
 期待?
 何を期待していたというのか。
 混戦の中で、自分も逃げ遅れる危険を冒して、鍾会の救出に駆けつけた。鄧艾はおそらく、撤退する殿軍の中から引き返してきたはずだ。陛下や丞相、大将軍といった高位のものなら分かるが、わざわざ一将校を助けに戻るだろうか。少なくとも鍾会なら、しない。
 だが鄧艾は、前途有望とはいえ、たかが若い将校の一人にすぎない鍾会をわが身を晒して救うことを、当然のように思っている。対象が他の誰でも、彼はそうしたのだろう。
 偶然、居合わせたから。それだけで。
 心の底に、黒い小石が落ちたようだった。苦い気持ちを打ち消そうと、鍾会は杯を呷った。
「・・・あの時、鍾会殿を探していた」
 鄧艾が、ぼそりと呟いた。
「鍾会殿の隊が、隊列を崩してばらばらに戻っているのに気づいた。鍾会殿に何かあったのかもしれないと思い、引き返した」
 手にした杯を見つめながら、不器用に言葉を繋ぐ。
「落馬した鍾会殿を見つけたが、背後に敵兵が迫っていて、あの時は正直焦った。・・・いや、こんな話はよそう」
 鄧艾の口元がわずか笑ったように見えた。
「鍾会殿が無事で、怪我も大したことないという。そうだな、自分が心配しすぎなのかもしれぬ」
 そう言って杯に残った酒を飲み干し、腰を上げた。
「自分はそろそろ失礼する。くれぐれも、無茶はことはされるな。司馬昭殿も、貴殿のことを気になさっていた。順調に回復していると報告して参ろう」
 軍礼し、去ろうとする鄧艾を、鍾会は呼びとめた。
「鄧艾殿」
 扉の前で、鄧艾が振り返る。
「寝台に戻りたいんです」
 鄧艾に向かって、鍾会はすっと手を伸ばした。
「手を、貸してください」
 鄧艾が自分を見る。今度は目を逸らすまいと鍾会は思った。逸らしたら、負けだ。もやもやして堂々めぐりの思考を繰り返す自分に、負ける。
 鍾会は、自分の心の奥底を、覗いてしまっていた。自分の気持ちに、気づきかけていた。
「移動したいときは自分に言えと、言ったじゃないですか」
 鍾会が重ねて催促すると、鄧艾は部屋の中へ戻ってきた。鍾会の肩を、ゆっくりと持ち上げる。鍾会は、鄧艾の首に両腕を回し、抱きついた。肩を貸すのではなく、抱き上げて欲しかった。そのまま、鄧艾の首筋に顔を埋める。息を吸い、鄧艾の匂いを嗅ぐ。心臓の鼓動が、恥ずかしいほど早く、強くなり、鄧艾に聞こえるのではないかと思った。
鄧艾は鍾会の行動に驚いたのか、一瞬動きを止めた。だが何も言わず、鍾会の膝の裏に腕を差し入れて、軽々と抱き上げ、寝台へ運んだ。
作品名:砂塵のむこう・2 作家名:いせ