白雲
「まあまあ、深雪さま。そのように端近に出られて、お身体が冷えますよ。」
桂の声に、庭を眺めながら座していた深雪はゆっくりと振り向いた。
一番上に赤朽葉(あかくちば)の小袿を羽織ったその腹部には懐妊の印の腹帯が
巻かれている。
深雪は、2人目の子の産み月となって正親町(おおぎまち)の邸に宿下がりをしていた。
「あら。大丈夫よ。ちゃんと着てるもの。」
「いえいえ、用心に越したことはございませんよ。さあ、こちらへ。」
「もう。庭の紅葉がきれいなのに。」
不承不承、深雪は文字通り重い腰を上げた。
「紅葉でしたらお部屋に飾ったものがございましょう。
そこのあなた、御簾を下ろしておいて頂戴。」
桂の声に年若の女房がはいと従った。
正親町の邸は本来深雪の家ではない。深雪の叔父、周防守(すおうのかみ)の邸であり、
今は遥か遠い東国にいるいとこ、夏樹の暮らしていた邸である。
夏樹が去ってから後、桂が一人で細々と家を守っていたが、深雪が晴れて賀茂権博士
(かものごんのはかせ)―保憲(やすのり)と結ばれ、めでたく子どもを授かったことを
機に、深雪は子どもを自分の邸ではなく正親町の桂のもとで育てさせることにした。
夏樹の下向を嘆き、老い先も短い桂の生活に少しでもはりが出るように…。
どのみち深雪は宮仕えに忙しく、四六時中子どもの相手をしているわけには
いかないのだ。
娘―大姫(おおひめ)には年若い乳母(めのと)もついているが、深雪がこの世で最も信頼
できる乳母はやはり桂である。大姫には桂がついている―そう思えばこそ、深雪も
宮仕えに没頭できる。
じきに生まれてくる腹の子も桂に委ね、自身はいのちある限り、弘徽殿女御にお仕え
するつもりである。
「深雪さま、お文(ふみ)が届いておりますよ。」
桂が声をかけてきた用事はこれだったらしい。
「殿から?」
「いいえ、小宰相(こさいしょう)さまからでございます。」
なかば予期していたことではあったが…先輩女房の名が挙がり、深雪は表情を
曇らせた。
白い薄様(うすよう)の紙が細い紅葉の枝に結ばれている。
このようなときでも心遣いを忘れない小宰相の君らしい文だった。
「ありがとう…。」
文を受け取り、どうか悪いことが書かれていませんように、と、天に祈ってから文を
開く。
弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の一の女房である小宰相が、出産のため宿下がりして
いる後輩にわざわざ文をよこしてきたのだ。そして、今、弘徽殿女御は病気療養のため
二条の邸に宿下がりしている。
良い知らせとは思えなかった。
『伊勢の君
里に下がられてしばらくになりますが、お加減はいかがでしょうか。
二条のお邸は人手は多いものの伊勢の君のように気の利く人はなかなかおりません。
女御様も伊勢の君が無事に御子を出産されて早くお戻りになるのを
心待ちにされておいでです。
女御様の御具合は相変わらずです。
お床についておられることが多く、
最近はご冗談なども滅多に口になさらなくなりました。
大臣(おとど)も平癒のご祈祷などされており、
及ばずながらわたくしも写経など致しておりますが、
はかばかしい成果は得られておりません。
女御様は健気にも主上(おかみ)の御身の上をご心配あそばされたり、
伊勢の君、あなたのことをたいへんお気にかけておいでです。
御身体の大変なときとは存じますが、伊勢の君、
どうか女御様を元気付ける歌など書いてはいただけませんか?
お返事をお待ち致しております。
小宰相』
読み終わって、深雪は深くため息をついた。
控えていた桂が心配そうにこちらを覗っている。
「桂、文机、お願いできるかしら。」
「はい、ただいま。」
桂に言いつける口調が暗くならないように深雪は気を遣った。
弘徽殿女御が体調を崩し始めたのはもう何年も前のことである。
風邪のような症状がしばらく続き、病が篤くなっては里へ帰り、回復しては参内し、
を、繰り返してきた。
しかし半年ほど前から胸を病まれたのか、咳が多くなり、ついには血を吐くように
なった。
そして二条の邸に下がって以来、一度も御所には上がっていない。
初めのうちは繁く届いていた主上からの文もこのところは間遠だ。
明るい性格の女御も癒えぬ病と世間から忘れられる寂しさに不安を感じているらしい。
深雪の宿下がりの折にも、存在を確かめるように、何度も何度も「帰ってきてね」と
女御は繰り返していた。
深雪とて後ろ髪引かれる思いだったが…子どもが生まれてくるのは避けようがない。
「深雪さま、お支度できましたが…誰かに代筆させましょうか?」
桂は心配そうに深雪を見つめていた。
「女御さまに差し上げる文ですもの、代筆なんてさせられないわよ。」
深雪は明るく笑って文机の前に座った。
お腹が引っかかって書きにくいが、仕方がない。
「お使者の方はまだいらっしゃるわよね?」
「ええ、お待ちいただいております。」
「そう。」
ふー、と長く息を吐いて、深雪は筆を動かした。
その夜は保憲が久しぶりに正親町の邸にやって来た。
このところ保憲は承香殿女御(しょうきょうでんのにょうご)のお産のための祈祷に
忙しい。
ライバル陣営のためにばたばたと働いている保憲を見るのは深雪としては業腹だが、
陰陽博士(おんみょうはかせ)の賀茂権博士として星を見、占いをし、祈祷をするのが
彼の仕事なのだから仕方がない。
「遅くまでお疲れ様ですこと。」
狩衣姿にくつろいだ保憲に深雪が妻らしい言葉をかけると、保憲は苦笑いの表情で
深雪に語りかけた。
「あなたはお気に召さないでしょうけどね。
近頃は右大臣さまがなかなか放してくださらないよ。」
深雪がぷうっと頬を膨らませる。
「あちらの方には東宮さまも三の宮さまもおられるというのに、
本当に強欲な人たちね。」
承香殿女御が産んだ第二皇子は生まれてまもなく立太子し、承香殿女御は東宮の母と
なった。
かたや、弘徽殿女御には1人の子もなく、加えて病の床に臥している。
保憲たち陰陽師は承香殿側からは安産祈願の祈祷を、弘徽殿側からは病気平癒の祈祷を
それぞれ頼まれており、弟子の一条ともども八面六臂の活躍という。
実際、一条の住む隣家からは近頃あまり人の気配がしない。約1名の馬頭鬼(めずき)の
気配を除いては。
「それでも今日は一条が引き受けてくれたからね、あなたに会いに来られましたよ。」
保憲の茶目っ気のある一言に、深雪も相好を崩した。
「わかるものですか。わたしじゃなくて大姫に会いに来たのではなくて?」
言葉の上ではつれない風を装っても、目が笑っている。
2人はしばし、見つめあってくすくすと笑った。
と、そこに噂の大姫が危なっかしい足取りで走り出てきた。
「ちちうえ〜。」
「おお、姫。」
膝に擦り寄って甘えてきた大姫を保憲は優しく抱き上げた。
「姫は父がいない間、いい子にしておられたかな?」
「うん!」
幼児(おさなご)の無邪気な笑顔に保憲は目を細めた。
細くて柔らかい尼そぎの髪を保憲は優しく掻きやってやった。
黒目がちの瞳とそれを縁どる長い睫毛は深雪にそっくりである。
桂の声に、庭を眺めながら座していた深雪はゆっくりと振り向いた。
一番上に赤朽葉(あかくちば)の小袿を羽織ったその腹部には懐妊の印の腹帯が
巻かれている。
深雪は、2人目の子の産み月となって正親町(おおぎまち)の邸に宿下がりをしていた。
「あら。大丈夫よ。ちゃんと着てるもの。」
「いえいえ、用心に越したことはございませんよ。さあ、こちらへ。」
「もう。庭の紅葉がきれいなのに。」
不承不承、深雪は文字通り重い腰を上げた。
「紅葉でしたらお部屋に飾ったものがございましょう。
そこのあなた、御簾を下ろしておいて頂戴。」
桂の声に年若の女房がはいと従った。
正親町の邸は本来深雪の家ではない。深雪の叔父、周防守(すおうのかみ)の邸であり、
今は遥か遠い東国にいるいとこ、夏樹の暮らしていた邸である。
夏樹が去ってから後、桂が一人で細々と家を守っていたが、深雪が晴れて賀茂権博士
(かものごんのはかせ)―保憲(やすのり)と結ばれ、めでたく子どもを授かったことを
機に、深雪は子どもを自分の邸ではなく正親町の桂のもとで育てさせることにした。
夏樹の下向を嘆き、老い先も短い桂の生活に少しでもはりが出るように…。
どのみち深雪は宮仕えに忙しく、四六時中子どもの相手をしているわけには
いかないのだ。
娘―大姫(おおひめ)には年若い乳母(めのと)もついているが、深雪がこの世で最も信頼
できる乳母はやはり桂である。大姫には桂がついている―そう思えばこそ、深雪も
宮仕えに没頭できる。
じきに生まれてくる腹の子も桂に委ね、自身はいのちある限り、弘徽殿女御にお仕え
するつもりである。
「深雪さま、お文(ふみ)が届いておりますよ。」
桂が声をかけてきた用事はこれだったらしい。
「殿から?」
「いいえ、小宰相(こさいしょう)さまからでございます。」
なかば予期していたことではあったが…先輩女房の名が挙がり、深雪は表情を
曇らせた。
白い薄様(うすよう)の紙が細い紅葉の枝に結ばれている。
このようなときでも心遣いを忘れない小宰相の君らしい文だった。
「ありがとう…。」
文を受け取り、どうか悪いことが書かれていませんように、と、天に祈ってから文を
開く。
弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の一の女房である小宰相が、出産のため宿下がりして
いる後輩にわざわざ文をよこしてきたのだ。そして、今、弘徽殿女御は病気療養のため
二条の邸に宿下がりしている。
良い知らせとは思えなかった。
『伊勢の君
里に下がられてしばらくになりますが、お加減はいかがでしょうか。
二条のお邸は人手は多いものの伊勢の君のように気の利く人はなかなかおりません。
女御様も伊勢の君が無事に御子を出産されて早くお戻りになるのを
心待ちにされておいでです。
女御様の御具合は相変わらずです。
お床についておられることが多く、
最近はご冗談なども滅多に口になさらなくなりました。
大臣(おとど)も平癒のご祈祷などされており、
及ばずながらわたくしも写経など致しておりますが、
はかばかしい成果は得られておりません。
女御様は健気にも主上(おかみ)の御身の上をご心配あそばされたり、
伊勢の君、あなたのことをたいへんお気にかけておいでです。
御身体の大変なときとは存じますが、伊勢の君、
どうか女御様を元気付ける歌など書いてはいただけませんか?
お返事をお待ち致しております。
小宰相』
読み終わって、深雪は深くため息をついた。
控えていた桂が心配そうにこちらを覗っている。
「桂、文机、お願いできるかしら。」
「はい、ただいま。」
桂に言いつける口調が暗くならないように深雪は気を遣った。
弘徽殿女御が体調を崩し始めたのはもう何年も前のことである。
風邪のような症状がしばらく続き、病が篤くなっては里へ帰り、回復しては参内し、
を、繰り返してきた。
しかし半年ほど前から胸を病まれたのか、咳が多くなり、ついには血を吐くように
なった。
そして二条の邸に下がって以来、一度も御所には上がっていない。
初めのうちは繁く届いていた主上からの文もこのところは間遠だ。
明るい性格の女御も癒えぬ病と世間から忘れられる寂しさに不安を感じているらしい。
深雪の宿下がりの折にも、存在を確かめるように、何度も何度も「帰ってきてね」と
女御は繰り返していた。
深雪とて後ろ髪引かれる思いだったが…子どもが生まれてくるのは避けようがない。
「深雪さま、お支度できましたが…誰かに代筆させましょうか?」
桂は心配そうに深雪を見つめていた。
「女御さまに差し上げる文ですもの、代筆なんてさせられないわよ。」
深雪は明るく笑って文机の前に座った。
お腹が引っかかって書きにくいが、仕方がない。
「お使者の方はまだいらっしゃるわよね?」
「ええ、お待ちいただいております。」
「そう。」
ふー、と長く息を吐いて、深雪は筆を動かした。
その夜は保憲が久しぶりに正親町の邸にやって来た。
このところ保憲は承香殿女御(しょうきょうでんのにょうご)のお産のための祈祷に
忙しい。
ライバル陣営のためにばたばたと働いている保憲を見るのは深雪としては業腹だが、
陰陽博士(おんみょうはかせ)の賀茂権博士として星を見、占いをし、祈祷をするのが
彼の仕事なのだから仕方がない。
「遅くまでお疲れ様ですこと。」
狩衣姿にくつろいだ保憲に深雪が妻らしい言葉をかけると、保憲は苦笑いの表情で
深雪に語りかけた。
「あなたはお気に召さないでしょうけどね。
近頃は右大臣さまがなかなか放してくださらないよ。」
深雪がぷうっと頬を膨らませる。
「あちらの方には東宮さまも三の宮さまもおられるというのに、
本当に強欲な人たちね。」
承香殿女御が産んだ第二皇子は生まれてまもなく立太子し、承香殿女御は東宮の母と
なった。
かたや、弘徽殿女御には1人の子もなく、加えて病の床に臥している。
保憲たち陰陽師は承香殿側からは安産祈願の祈祷を、弘徽殿側からは病気平癒の祈祷を
それぞれ頼まれており、弟子の一条ともども八面六臂の活躍という。
実際、一条の住む隣家からは近頃あまり人の気配がしない。約1名の馬頭鬼(めずき)の
気配を除いては。
「それでも今日は一条が引き受けてくれたからね、あなたに会いに来られましたよ。」
保憲の茶目っ気のある一言に、深雪も相好を崩した。
「わかるものですか。わたしじゃなくて大姫に会いに来たのではなくて?」
言葉の上ではつれない風を装っても、目が笑っている。
2人はしばし、見つめあってくすくすと笑った。
と、そこに噂の大姫が危なっかしい足取りで走り出てきた。
「ちちうえ〜。」
「おお、姫。」
膝に擦り寄って甘えてきた大姫を保憲は優しく抱き上げた。
「姫は父がいない間、いい子にしておられたかな?」
「うん!」
幼児(おさなご)の無邪気な笑顔に保憲は目を細めた。
細くて柔らかい尼そぎの髪を保憲は優しく掻きやってやった。
黒目がちの瞳とそれを縁どる長い睫毛は深雪にそっくりである。