狭い夜、広すぎる朝に(るいは智を呼ぶ、智×惠)
狭い夜、広すぎる朝に
「おはよう、智」
ふわんとした暖かさに、意識が浮上する。半分まどろみながら、睫毛を気にしながら目を開ける。
おはよう、と言われたはずなのに、随分暗い。あと、身体が横ではなく、机に突っ伏している格好だ。顔を上げて辺りを見回すと、どうやら教室の、窓際の席にいるらしいことがわかる。ガラス窓の向こうには夜、ううん、闇色がひたすら広がっている。
……?
「起きたんだね」
もう一度声がかけられて、体温がほっぺたに。横を見ると、薄明かりの中で僕を見ている子。誰だろう、と思うなり、降り積もった記憶から答えが飛び出す。
「惠? ……惠なの?」
「ああ」
その一言で、これが夢なのだと悟る。だって、惠が嘘をついていない。
おはようと言われたのに、目覚めたのは夜の夢の中、どうにも不思議。
教室とおぼしき空間は、二人以外には気配もない。明かりはぼくらの机のところだけ、それも電気や炎の明かりではないみたいだ。ぼやぼやと、切り離されたようにして、ふたりだけが暗闇に浮いている。
「っくし」
小さくくしゃみをする。
「寒い、かい?」
ブランケットだろうか、肌触りのいい布が肩にかけられる。ほとんど反射的に、それをぎゅっと掴む。
寒い……のかな?
ちょっと考えて、首を振る。今感じているのは、おそらく身体的な寒さとは別物だ。
「特に寒いわけじゃないんだけど……なんかね、心の奥が震えてる気がする。吹きっ晒しの風に体温取られちゃってる感じなんだ」
「……ああ。きっと、みんなもそうだよ」
「みんな?」
「今日、ここにはいないみたいだ。だけどいるよ」
相変わらずの謎掛け。この空間の中では本当のことが言えるみたいなのに、それでも曖昧。
「じゃあ、どうして惠はここにいるの?」
「さあ、なぜだろう? あの時、君が僕を招待してくれたからかもしれない」
あのとき。
そう言われて思い出すのは、幻に限り無く近い、けれどたしかにあった時間。
出しようもない答えを探して二人でいろんなコトを語り合った、可能性のどん詰まりでのできごと――目覚めた瞬間に、現実にかき消されてしまったはずの記憶。
それが僕にも戻っている。おそらくは、今隣にいる惠にも。
……じゃあここは、いわゆる夢じゃなくて、あの空間の延長線上なのか。広義には夢に含まれても、脳の記憶整理の副産物とは違う、現在と未来の隙間を埋める『観測所』――僕の能力の結果。
「でも、今日は僕は力は使ってない……と、思うんだけど」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。力は意識的に使うこともできるし、無意識に使われることもあるんじゃないかな。君の力は心に連動するものだからね」
「……そうだね。僕、『君』にまた会えて嬉しいな」
「喜んでくれるかい?」
「うん」
「それなら良かった」
微笑みかけてくれる。それだけで、なぜだかとても安心する。自然と顔が緩む。
「……笑ってくれたね、智」
そんな僕を見て、惠がさらに目を細める。
「さっきまで、とてもつらそうな顔をしていたから」
「そ、そう?」
「ああ。自分の顔は自分では見えない。だから、思っていたのと違う表情をしていることもあるんじゃないかな」
「そっか……ごめん」
「いいや。想いが顔に出るのは良いことだ」
今度はふわっと抱きしめられる。色ではないぬくもりが、おぼろげに伝わってくる鼓動が、ごく近くで時間を刻む。辺りは相変わらず暗く、なぜかうねうねと動いているように思える。牙も毒もない、むしろそれを奪うかのような黒さは、まるで僕らを飲み込もうとしているみたいだ。
ぎゅっと目を閉じて、惠を、一緒にいてくれる存在をより強く確かめる。耳に届くのは穏やかな、だけど少し張り詰めた息遣い。
「あったかいね、智」
「……惠こそ」
「そうなのかい? 自分のことは、自分ではわからない」
「お互い様だよ」
「ああ、きっと」
ゆっくりと深呼吸。内側の震えは消えはしないけれど、二人分の体温が少し忘れさせてくれる。
……けれど、それは一時しのぎでしかない。
おそらく長くはないだろう時間が経って、二人は自然に身を起こす。目を閉じて抱き合っているだけでは、この教室の暗さには立ち向かえない、お互いが、無意識にそう感じたんだろう。
止まることは、すなわち――
「ここ、出ようか」
「ああ……違う景色を見たほうがいいかもしれない」
「違う景色……どこがあるかな」
「ここは君の作る世界だ。君が望めば、きっと出口はあるよ」
「んにゅ……」
ちょっと考える。気分を変えたい時に行く場所、僕が安らぐ場所……くるくると思考を回せば、かちん、と歯車が噛み合う。
「決めた」
視線を動かすと、まっくろな教室の出口に、非常灯のような四角い緑の明かりが灯っている。惠の言うとおり、ここはある程度は僕の願いを反映してくれるらしい。僕らの周りとあの出口以外は暗いから、全部が全部というわけにはいかないみたいだけど。
「よし、行こう」
立ち上がって、惠の手を引く。彼女は何も言わずについてくる。てのひら同士だけの、ほんの僅かな繋がりを頼りにしながら、一歩一歩前へ踏み出す。
こん、と足に机らしきものがぶつかる。痛くはない。けれど、硬さに触れるたびに肺が締め付けられる。
「……」
「……」
暗い中の一歩はやけに小さくて、明かりは永遠に遠い気がして、お腹の中が震え続ける。お腹は空いてないけれど、空洞になっているような奇妙な空虚感。ぎゅっと唇を噛み締めて、足を止めないように、それだけを考える。
惠は何も話さない。時折、手がぎゅっと強く握られる。彼女も歯を食いしばっているんだろう。静かな中で、湧き上がる想いをこらえているんだろう。
語らないことで生きてきた彼女は、それが許されたからといって、一気に感情を解き放つことなどできない。日々という名の魂は降り積もり、人格というかたちを作る。何に制約されたものであっても、重ねてきたことは事実。過去が作った現在という名のガラス瓶は、そう容易には形を変えられないのだ。
僕が、呪いが解ける可能性を引き当てた先ですら、男の子に戻るのに相当な時間を要したように。可能性のある世界で、僕が女の子の姿を、惠が咎を背負う姿をしているように。
ここは、僕の能力が創りだした場所。だから僕が嘘と知っていることを反映することはできない。
ようやく、扉に辿り着く。ドアノブは痛いほどに冷たい。思わず弾くように手を離すと、反対の手を後ろでぎゅっと握られる。
「うん」
振り返らずに、頷く。
ゆっくりと、ゆっくりと。
ぎりっと奥歯を噛んで、身体全体で扉を押す。体温が吸い取られる。重力に横殴りにされる錯覚、きしむ金属音すら恐れを増幅させる。隙間から吹き込む風は、緩やかなのに吹き飛ばされそうな錯覚を起こす。半分目を閉じながら、一歩と言えないほどの歩幅で、じり、じりりと進む。
冷える身体に、ぬくもりがかぶさる。歩幅が広がる。惠が一緒に押してくれているらしい。目を開けられないから、彼女なのかそうでないのかはわからないけれど……惠なら、こういうときに寄り添ってくれる。
ともかく、扉を開けることに成功。顔を前に向ける。
「おはよう、智」
ふわんとした暖かさに、意識が浮上する。半分まどろみながら、睫毛を気にしながら目を開ける。
おはよう、と言われたはずなのに、随分暗い。あと、身体が横ではなく、机に突っ伏している格好だ。顔を上げて辺りを見回すと、どうやら教室の、窓際の席にいるらしいことがわかる。ガラス窓の向こうには夜、ううん、闇色がひたすら広がっている。
……?
「起きたんだね」
もう一度声がかけられて、体温がほっぺたに。横を見ると、薄明かりの中で僕を見ている子。誰だろう、と思うなり、降り積もった記憶から答えが飛び出す。
「惠? ……惠なの?」
「ああ」
その一言で、これが夢なのだと悟る。だって、惠が嘘をついていない。
おはようと言われたのに、目覚めたのは夜の夢の中、どうにも不思議。
教室とおぼしき空間は、二人以外には気配もない。明かりはぼくらの机のところだけ、それも電気や炎の明かりではないみたいだ。ぼやぼやと、切り離されたようにして、ふたりだけが暗闇に浮いている。
「っくし」
小さくくしゃみをする。
「寒い、かい?」
ブランケットだろうか、肌触りのいい布が肩にかけられる。ほとんど反射的に、それをぎゅっと掴む。
寒い……のかな?
ちょっと考えて、首を振る。今感じているのは、おそらく身体的な寒さとは別物だ。
「特に寒いわけじゃないんだけど……なんかね、心の奥が震えてる気がする。吹きっ晒しの風に体温取られちゃってる感じなんだ」
「……ああ。きっと、みんなもそうだよ」
「みんな?」
「今日、ここにはいないみたいだ。だけどいるよ」
相変わらずの謎掛け。この空間の中では本当のことが言えるみたいなのに、それでも曖昧。
「じゃあ、どうして惠はここにいるの?」
「さあ、なぜだろう? あの時、君が僕を招待してくれたからかもしれない」
あのとき。
そう言われて思い出すのは、幻に限り無く近い、けれどたしかにあった時間。
出しようもない答えを探して二人でいろんなコトを語り合った、可能性のどん詰まりでのできごと――目覚めた瞬間に、現実にかき消されてしまったはずの記憶。
それが僕にも戻っている。おそらくは、今隣にいる惠にも。
……じゃあここは、いわゆる夢じゃなくて、あの空間の延長線上なのか。広義には夢に含まれても、脳の記憶整理の副産物とは違う、現在と未来の隙間を埋める『観測所』――僕の能力の結果。
「でも、今日は僕は力は使ってない……と、思うんだけど」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。力は意識的に使うこともできるし、無意識に使われることもあるんじゃないかな。君の力は心に連動するものだからね」
「……そうだね。僕、『君』にまた会えて嬉しいな」
「喜んでくれるかい?」
「うん」
「それなら良かった」
微笑みかけてくれる。それだけで、なぜだかとても安心する。自然と顔が緩む。
「……笑ってくれたね、智」
そんな僕を見て、惠がさらに目を細める。
「さっきまで、とてもつらそうな顔をしていたから」
「そ、そう?」
「ああ。自分の顔は自分では見えない。だから、思っていたのと違う表情をしていることもあるんじゃないかな」
「そっか……ごめん」
「いいや。想いが顔に出るのは良いことだ」
今度はふわっと抱きしめられる。色ではないぬくもりが、おぼろげに伝わってくる鼓動が、ごく近くで時間を刻む。辺りは相変わらず暗く、なぜかうねうねと動いているように思える。牙も毒もない、むしろそれを奪うかのような黒さは、まるで僕らを飲み込もうとしているみたいだ。
ぎゅっと目を閉じて、惠を、一緒にいてくれる存在をより強く確かめる。耳に届くのは穏やかな、だけど少し張り詰めた息遣い。
「あったかいね、智」
「……惠こそ」
「そうなのかい? 自分のことは、自分ではわからない」
「お互い様だよ」
「ああ、きっと」
ゆっくりと深呼吸。内側の震えは消えはしないけれど、二人分の体温が少し忘れさせてくれる。
……けれど、それは一時しのぎでしかない。
おそらく長くはないだろう時間が経って、二人は自然に身を起こす。目を閉じて抱き合っているだけでは、この教室の暗さには立ち向かえない、お互いが、無意識にそう感じたんだろう。
止まることは、すなわち――
「ここ、出ようか」
「ああ……違う景色を見たほうがいいかもしれない」
「違う景色……どこがあるかな」
「ここは君の作る世界だ。君が望めば、きっと出口はあるよ」
「んにゅ……」
ちょっと考える。気分を変えたい時に行く場所、僕が安らぐ場所……くるくると思考を回せば、かちん、と歯車が噛み合う。
「決めた」
視線を動かすと、まっくろな教室の出口に、非常灯のような四角い緑の明かりが灯っている。惠の言うとおり、ここはある程度は僕の願いを反映してくれるらしい。僕らの周りとあの出口以外は暗いから、全部が全部というわけにはいかないみたいだけど。
「よし、行こう」
立ち上がって、惠の手を引く。彼女は何も言わずについてくる。てのひら同士だけの、ほんの僅かな繋がりを頼りにしながら、一歩一歩前へ踏み出す。
こん、と足に机らしきものがぶつかる。痛くはない。けれど、硬さに触れるたびに肺が締め付けられる。
「……」
「……」
暗い中の一歩はやけに小さくて、明かりは永遠に遠い気がして、お腹の中が震え続ける。お腹は空いてないけれど、空洞になっているような奇妙な空虚感。ぎゅっと唇を噛み締めて、足を止めないように、それだけを考える。
惠は何も話さない。時折、手がぎゅっと強く握られる。彼女も歯を食いしばっているんだろう。静かな中で、湧き上がる想いをこらえているんだろう。
語らないことで生きてきた彼女は、それが許されたからといって、一気に感情を解き放つことなどできない。日々という名の魂は降り積もり、人格というかたちを作る。何に制約されたものであっても、重ねてきたことは事実。過去が作った現在という名のガラス瓶は、そう容易には形を変えられないのだ。
僕が、呪いが解ける可能性を引き当てた先ですら、男の子に戻るのに相当な時間を要したように。可能性のある世界で、僕が女の子の姿を、惠が咎を背負う姿をしているように。
ここは、僕の能力が創りだした場所。だから僕が嘘と知っていることを反映することはできない。
ようやく、扉に辿り着く。ドアノブは痛いほどに冷たい。思わず弾くように手を離すと、反対の手を後ろでぎゅっと握られる。
「うん」
振り返らずに、頷く。
ゆっくりと、ゆっくりと。
ぎりっと奥歯を噛んで、身体全体で扉を押す。体温が吸い取られる。重力に横殴りにされる錯覚、きしむ金属音すら恐れを増幅させる。隙間から吹き込む風は、緩やかなのに吹き飛ばされそうな錯覚を起こす。半分目を閉じながら、一歩と言えないほどの歩幅で、じり、じりりと進む。
冷える身体に、ぬくもりがかぶさる。歩幅が広がる。惠が一緒に押してくれているらしい。目を開けられないから、彼女なのかそうでないのかはわからないけれど……惠なら、こういうときに寄り添ってくれる。
ともかく、扉を開けることに成功。顔を前に向ける。
作品名:狭い夜、広すぎる朝に(るいは智を呼ぶ、智×惠) 作家名:ちま