昼の呪文
薔薇の上の雨しずくと子猫のひげ、
ぴかぴかのブリキのケトルにあたたかな毛糸の手袋、
紐で結わえた茶色の包み、
みんな私の大好きな物たち……
外はイギリスの家にしては日差しも明るく気分もいいので、アメリカは懐かしい歌をハミングしながら料理の手順を思い出している。
ベーコンは薄くスライスしてこんがりと焼く。ツナにはたっぷりのマヨネーズに塩コショウを少々。茹でた卵にもマヨネーズをたっぷり、ついでに庭から採ってきたパセリを細かく刻んで、よく混ぜる。スモークサーモンとレタスとチーズは挟む直前に冷蔵庫から出す。マーマイトはイギリスが気づく前に冷蔵庫から鍵の掛かる引き出しの奥に隠しておいたので、今日は絶対に出てこないはず。パンにはバターをたっぷり塗って、スープは昨日の残りをあたためて。
食事の支度としてはたいした手間ではないけれども、イギリスの家に居ると、朝昼晩の三回とも彼を見張っていなければならないのが大変だ。もう少し正確にいうなら、見張っているのは彼ではなく、食材を消し炭になるまで焼き過ぎてしまわないか、原型を留めないほど煮すぎないか、主に彼の苦手な火加減を見張っていなければならない。だから手作りは面倒なのだ。なのに彼は、せっかくの休日だからと嬉しそうにキッチンに立つ。どうせなら外で買うデリの方が美味しいし楽ではあるのだけど、ふたりで過ごせる時間は決まっているので、彼の機嫌を損ねるような迂闊な真似はしない。そこで仕方なくアメリカもキッチンに篭っている。最初は、キッチンの隅のスツールに陣取ってゲームを弄りながら監視していたものの、小うるさい彼に口を挟んで大喧嘩になるよりは、先回りして自分が動いた方がまともな食事にありつけると学んで以来、オーブンとレンジはアメリカのテリトリーになりつつある。
「イギリスー」
ブロックのベーコンをスライスしながら、L字型のキッチンを忙しなく動き回る彼を呼び止めた。
「んー?」
イギリスは摘んできたばかりのハーブを籠からより分け、色の良いものだけをボウルのなかに戻している。
「ベーコン、これ全部焼いちゃっていいのかい?」
「夜に使う分は残しといてくれ」
「半分くらい残す感じで?」
「そんな使うのか? サンドするんだから4、5枚薄くスライスすれば足りるだろ。あー…、ナイフで指切るなよ? ベーコンに添えた方の指はちゃんと丸めろ。ナイフを持ったら、慎重に、落ち着いて、な?」
通りすがりのイギリスが、肩からあれこれ指図してくる。初めてナイフを持つことを赦された子どもみたいな扱いだ。
「もー君ってば全くうるさいんだぞ! ナイフで指なんか切った事ないってば」
ナイフを持ったまま後ろを向けば、いわんこっちゃない、とグリーンのエプロンの腰に手を置いている。
「あぶね、ナイフ持って振り回すなよ! わっかんねー奴だなあ、これから切るかもしれないだろ?」
「君はどこまで心配性なんだい。そんな心配ばっかしてると剥げるよ?」
眉毛がさ、と片頬を膨らませながら、それでもイギリスのいう通りに指を丸めて手を添えてしまう。もう少し食べたかったので三枚くらい余計に切る。ついでに厚めにスライスした。コンロに火をつけて、熱したフライパンを揺すりながら、頭に浮かんだフレーズを鼻歌で辿る。
クリーム色のポニーにサクサクのアップル・シュトルーデル、玄関のベルにそりの鈴……
「何歌ってるんだ?」
背中から声を掛けられた。イギリスはシンクで何かを洗っているようだ。
「マイ・フェイバリット・シングズ」
「お前が昔の歌なんて珍しいな」
「このカビ臭い家にいると、誰かさんの懐古趣味が伝染るんだよ」
そりゃよかったな、とでもいいたげな軽い吐息が聞こえた。少し笑っているようだ。
「そのミュージカル、お前んちでも映画化してたよなあ? マリア役が、えーと、ジュリー……」
「アンドリュース」
「そう! 映画の出来はともかく、声は悪くなかったよな!」
アメリカ製の映画をお世辞にも褒めていないことにはかちんと来たが、珍しくイギリスが弾けるように笑っているので怒る気も失せてしまった。素で微笑む瞬間を見逃したのがちょっぴり惜しい。
「声もかわいらしいし、顔も、ちょっと癖はあるけどキュートだよね」
白い煙を勢いよくあげていたケトルの火を消す。これで紅茶の支度も半分くらいは出来た。
「でもなあ、胸がなあ、なんつーかなあ、」
「まあ、控えめなサイズではあるけどね」
「ちいさい。いかにも修道女って感じで抱き心地が悪そうだ」
あきれ返って振り返ると、彼は手でパセリをぶちぶち千切っている。
「せっかく言葉を選んであげたのに!」
「はは、選んだって事はお前もそう思ってんだろー?」
「くたばれ!」
イギリスが、また笑う。振り返る途中で、レースのカーテン越し、木漏れ日が作業テーブルの上に細やかな編み目になって踊っているのが見えた。アメリカは妖精という存在を見たことは無いけれども、今なら、あのちいさな光のなかに、ひとつくらいは潜んでいてもいい気がする。
「……クリーム色のポニーと、さくさくのアップル・シュトルーデル、だっけか」
「歌詞、覚えてるのかい?」
「まあな。で、シュトルーデルってどうやって作るんだよ。クラウツの野郎にでも聞けばいいのか? それともオーストリアに聞きゃいいのか?」
「まず自分で作る事が前提なのが、君の料理の最大で最初の敗因だね」
「なんだよ。自分の手で作って、それがちゃんと出来たら凄いことだろ。お前の口にも入るかも、……しれねえし」
イギリスの困ったところは、たいてい手に負えなくなるのが見えているのに、自分の手の届く範囲は自力で何とかしようとすること。好きなところは、ディナーのメニューを考えているときの真剣な横顔、手の込んだ料理を今度こそ成功すると確信して瞳を輝かせているところ。
「まずはサンドイッチをちゃんと作ろうよ。確実に俺の口にも入るものだし」
フォークで焼きたてのベーコンを丸めて、つまみ食いする。
「今つまみ食いしただろ」
「しふぇないふぉ」
肩をつかまれて揺さぶられた。慌てて飲み込んで咳払いまでしたのに、声がくぐもってしまう。
「ばあか、バレバレだっつの!」
「俺、もうお腹がぺこぺこなんだよー! 昼はいいとして、夜は何食べるつもりだい?」
はああ? とイギリスが肩を怒らせた。
「なんで昼メシの支度しながら夜のこと考えられんだよ。料理してたら、つまみ食いなんかしなくても、匂いで腹が膨れる気がするだろ」
くんくんと鼻を鳴らしてみる。ベーコンの焼ける匂いは美味しそうだけれども、これだけで食欲が満たされていたら、今頃とっくに理想の体重をキープできている。
「ぜんぜん? これっぽっちも? 匂いでお腹なんて膨れないんだぞ」
唇の油を舐めとりながら、少しだけ食べると余計お腹が減るなあ、とアメリカは別のことを考えていた。
「だから太るんだよ。柑橘系の香りを嗅いでると食欲が抑えられるんだぞ! っていうから俺が苦労してアロマオイルまで作ってやったのに……」