昼の呪文
イギリスはわざとらしくため息をついたあと、噴き出す寸前の顔をしている。ほどよく焼けてきたベーコンをフォークで突き刺しながら答えてやった。
「……俺のお腹の上に乗っかって、ふよふよで気持ちいいとかいってたのは誰だったかな」
「ばっ、ばかあ! 昼間っからそんな話すんな!」
耳の先まで紅潮した顔を見て、今度はアメリカが笑う番だった。
「それじゃ、夜だったらどんな話をしてもいいのかい?」
緑の瞳をまん丸にして、慌てふためいている表情を見ていると、無性にいじり倒したくなる。皿の上にベーコンを乗せながら、にやにやと頬を緩ませた。
「そうだなあ、夜だったらー……夜はねえ、」
「ばかぁ! いわなくていい!」
耳を押さえてヒステリックに叫ぶのに、ちょっとだけ期待の篭った目でそわそわしているところも、好きなところのひとつだ。
「夜はー……うん、シチューがいいんだぞ! あったまるやつ!」
「シチュー?」
何故そこまで赤くなるのだろう、と感心したくなるほど真っ赤になった頬のまま、イギリスは小首をかしげた。
「スープでよければ、豆の缶のなら、腐るほどあるぞ」
「もうケチャップ味のは飽きちゃったんだぞ!」
「じゃあ買い物行かねーとなあ。シチューなら……、フレッシュクリームは冷蔵庫、玉ねぎとじゃがいもは貯蔵庫にあるから……にんじんと、えーっと」
「アイスも! チョコレート・バーとクッキーにマシュマロも!」
手を挙げて必死にアピールしているのに、イギリスはそ知らぬ顔でエプロンのポケットからメモとペンを取り出して、何かを書いている。
「クリームだけだと濃すぎるかもな。ミルクも買っておくか」
「……ひとの意見を思いっきり無視しないでくれないかい」
「お前がこれ以上太ったら下の俺が潰される」
夜の淫靡な匂いのする笑みだった。不意を突かれて心音が乱れる。
「ははっ、赤くなってやんの」
頬を親指でこすられた。イギリスの手からはパセリのあざやかな緑の香りがする。
「うるっさいんだぞ!」
かわいいなあ、とイギリスが小声で口走るのが確かに聞こえた。そういわれるのは子ども扱いされているようで嫌なのだけれど、口元をゆるめて蕩けきった声でいうので、いっている本人は腹立たしいほどかわいく見える。ちいさな生き物をかわいいと愛でるのと違って、彼の見せるかわいさは不意打ちのものだ。彼は背が格別低いわけでも、まったくの女顔というわけでもないのに、頬や目が丸く、どこか大人になるのを拒んでいるような、いじらしさを感じさせる容姿をしているせいかもしれない。
「君の方がよっぽど、……だよ」
視線が絡むと、言われた本人は下を向いて頬を赤らめている。パンを手に取りながら頭を流れ続けるのは懐かしいメロディー、……私の大好きなものたち、青いサテンのサッシュを巻いた白いドレスの女の子、鼻やまつげの上の雪のかけら、春へと融けゆく白銀の冬、……ハミングと一緒におだやかな時間がゆっくりと過ぎていく。だから、つい気が緩んだのかもしれない。いつもはイギリスを窺うように口にする言葉を、少しずつ声に出してみたくなった。
好き、を空気に混ぜる。声に態度に、彼に気づかれない程度の濃度で。「悪くない」や「きらいではない」では無く、ストレートに「好き」と。
「シチューはね、アイリッシュ・シチューがいいんだぞ! あれは俺、大好きなんだよ!」
「……おま……よりにもよって兄さんとこの料理じゃねーか」
露骨に嫌そうな顔をして睨んでくるが、どうせ態度だけだ。どうしても、とアメリカがねだれば不承不承いうことを聞いてくれる。口ではぶつくさ小言をいいつつも、どこか照れくさそうな態度が見られることも気に入っている。
「厚切りのベーコンに、玉ねぎとにんじんだっけ? 俺は好きだよ! フレッシュクリームたっぷり入れてさ!」
「お前、また太るぞ? ふよふよ、どころか、ぶよぶよに。ぼよんぼよん、に!」
「クリーム入れると最高に美味しいじゃないか。君が焦がさなければさ」
イギリスはボウルとマッシャーを持ち直して、渾身の力でゆで卵を潰し始めた。
「一度くらいの失敗がなんだ! 今日は大丈夫に決まってんだろ! 俺が本気になればあんな料理いつだって……」
ぐずるような声が聞こえたので、パンにベーコンとレタスを挟みながら、イギリスの揚げ足を取ってみる。
「君の本気ってやつを是非とも一度見てみたいものだよ! 今日こそ、の間違いだろう?」
「今日も、だ! あのあと一回作ったんだからな!」
「その一回は俺が居なくても成功したのかい?」
「……普段料理してない奴には、ひとの料理をとやかくいえる権利はねえんだよ」
「やっぱり失敗したんじゃないか。君は俺がいないと料理もまともに出来ないのかい」
「ちょっと塩が多めだっただけで鍋までは焦がしてねえよ」
イギリスは頬の片方を膨らませて、パンの耳を乱暴に切り落としている。
「イギリスは俺がいないとまったくダメダメだね!」
「かもな」
「え、」あやうく作りたてのサンドイッチを乗せた皿を床に落としてしまうところだった。
「冗談だ」
にやあ、と極悪な表情を浮かべたイギリスに向けて、中指を突き立ててやった。バターナイフを手にしたイギリスは、ちいさく笑ってアメリカの態度の悪さを水に流してしまう。以前は、ことあるごとに親の顔をされて居心地が悪いと嫌っていたやりとりなのに、今日は心地よい。それが休日のせいなのか、喧嘩にならないようにイギリスが努めて気を配っているせいなのか、外が明るいせいなのか、頭の中でずっと流れている曲のせいなのか、よくは分からない。でも、と、微笑み続けるイギリスをちらりと盗み見ながら考える。イギリスが真夜中に何度も起きて、アメリカの顔を窺っていたのは気配で知っていた。毛布を掛け直してくれたり、じっと見つめるだけだったり、たまに心臓に手を当ててみたり。何を確かめているのだろう。夜中に何度も飛び起きるほど、何が不安なのだろう?
――答えは知っている。何もかも、と彼は答えるに違いない。愚者は経験に学ぶという。彼は過去を見つめ、未来にも同じことが起きると怯え、夜中に何度も所在を確かめなければならないほどアメリカの不在に怯えている。夜中に突然居なくなったり、いきなり裏切ったりする訳がないのに。そして、イギリスは何もかもを悲観論で包んでしまえる天才なのだ。アメリカが裏切ると頭から信じて疑っていない。極めつけに面倒な相手だ。
「で? 夕飯はシチューだけでいいのか?」
「あとはねー、チキンが食べたいんだぞ! 丸焼き! 中にバターとハーブとにんにく詰めて、オーブンでかりっかりに俺が焼いたやつ! あれも好きなんだ」
「へいへい。デザートは?」
「君の作ったスコーン以外」
「じゃあ、今日はお前がスコーンを作る、と。レシピ要るか? 材料の分量は俺が用意してやろうか?」
イギリスは半笑いでパセリをボウルのなかに入れている。
「……分かったよ、ビルベリーのプディングでいいよ。あれは、うん、好きだし」
「じゃ、メシ食ったら庭に出てビルベリーの収穫だ」
ハーブを採ってきた籠を指して、当然だろうという顔をする。
「摘むところからやらせるつもりかい」