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立ち竦む恩寵

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 刃の切先を見据え、白刃が迫るその一瞬を計ろうとしていた家康は、いつまでも落ちてこない刃に眉をひそめ、慎重に視線を男の顔へと移した。そこで家康は思いもしない顔を見た。
 家康が眼を向けた先で、三成は先程までの迷いない殺意を削ぎ落された青褪めた顔を晒し唇をわななかせている。刀を振りかぶったままの腕がかたりと小さく震えた。
 わ、たし、に。断罪の……お許し、を、……さま。
 胸の内で名を呼ぼうとしても無駄だった。虚ろな空白が支配した意識の底から、不意にひとつの恐ろしい答えが浮かびあがる。
 私に、その資格、は……?
 三成は己に正義のあることを、大逆を犯した眼前の男に罪のあることを疑ったことは一度たりとてなかった。己に一切の罪なきと思えばこそ、三成は一途に仇の首を斬り落とし、神に捧げることを目指したのだ。
 今、三成は己の半身とすら言えた男の罪を認識し、同じ穢れに手を染めていたのだと知ってしまった。知ったからには三成は眼を逸らすことができない。抱え続けた歪に近い清廉は、今なお三成の中に確かに在ってこの世のあらゆる穢れを憎む。
 いっそひとかけらの理性もなく狂っていたならば、三成は刃を振り下ろせたろう。だが異形の男が掴み続けた細い糸は、最後まで三成に自我を残した。
 罪人がどうして神の名を我が物顔に呼び、神の名の下に刃を振るえようか。
 己の咎に知らぬ顔をして他者を断罪することを、三成は自分に許せない。
 それが例え、
 神殺しの相手であっても。



 三成の隙を家康は見逃さなかった。動きを止めた三成の脚へと不自然な体勢から身を捩じるようにして拳を叩き込めば、三成はあっけなく体勢を崩した。己を抑え込んでいた脚を振り払うように身を起こす。そのまま後方の地面へと倒れ込む三成を上から覆い被さるようにして追い、拳を振り上げ、空気を唸らせて打ちつける―――瞬間に見えた、三成の眼。
 握った拳を三成の顔面へと繰り出しながら、家康は驚愕を浮かべた。
 傷ついて、不信に満ちて怯えて嘆く、人間の眼。
 三成が地に倒れるのと家康が拳を打ったのは同時だった。光を帯びた一撃に、地が轟音を立てて陥没する。砂埃が飛沫のように地から噴き出し、細かな礫が家康の頬を打った。破砕音の余韻が治まるにつれて、砂塵は緩やかに宙を舞う。その白く靄がかったような視界の中で家康はその男を見つめた。
 三成の顔の際すれすれに打ちつけられた拳は地面に突き刺さったまま、三成は瞬きもせず己に乗りあげた家康を見上げている。その顔は虚脱と放心に満ち、そこに避ける意志はなかった。

「………三成……」

 家康は拳を振るったまま、無意識に名を呼んだ。それをもう一度振り上げ、下ろす。それだけで総てが終わるのだとこの時確かに理解した。
 この瞬間を目指して戦ってきた。
 砂の粒子が散る。地にめり込んだ拳をゆっくりと浮かせばぱらぱらと土くれが落ち、男の白い頬に零れた。三成は家康の動きに身構えもせず、視線を宙に投げたまま動かない。家康は拳を握りこみ、静かに三成を見下ろした。太陽が喰われた仄昏い空間でなお、かすかな光を集めて透き通る髪。今は砂を被ったそれをいつだったか、綺麗だと告げたことがある。三成は確か、くだらないと言う間も惜しいと言うように少しも表情を変えずに聞き流した。馬鹿めと言われることすらなく、少しばかり不満な気がした、そんな取るに足らない小さな感情すらこうして覚えている。
 周囲の誰にも阿らず妬まず驕らず何も欲さずに、ただただ一途に絶対と定めた背中を追う。その姿はいつだってひどく痛々しく違和感に満ちて、見れば眉をひそめずにはいられないものでありながら、どうしてか気付けば眼を奪われた。
 研ぎ澄まされた一振りの刀にも似たその姿を、惚れ惚れするような思いで見つめたことすらあったのだ。
 人が持つにはあまりに純度の高すぎた、一切を切り捨てる獣の忠誠。
 それでも過ぎた日々で確かにわらっていたお前を。
 獣の眼を失ったお前を。
 この手で。


 立ち竦む世界に、不意に鮮やかな音が湧き起こる。悲鳴に近い勝ち鬨がたちまち戦場を覆っていくのが聞こえた。
 長曾我部殿が、毛利を破った!
 その決定的な歓声を遠く聞きながら、家康は糸の切れた傀儡のように動かない三成を見ている。
 訣別を決めた日と同じ体勢で、見つめている。
 歓声は、いやに遠い。だが一方で着々と迫っていた。そして終極の地であるこの戦場で、凶王が息をすることを許す者はいまい。
「た」
 声が漏れた。家康は顔を歪め、掌を口に押し当てようとして呻く。許されないことだ。だが唇が勝手に音を紡いだ。
「だ」
 棄てゆくと決めたはずの迷いだった。東を預かる大将として、永き泰平の世を目指す者として、誰よりも家康自身がそれを己に許さなかった。
 だが。
 家康はぎり、と唇を噛み、とうとう握りしめていた拳を開いた。その手で地に爪を立て、己の中で渦巻くものを、棄てたつもりで抱えていたものをしかと見据える。
 だが、ここにいるのは。
 もはや泰平を阻む敵対者ではなく、憎悪に狂い世を呪う絶対の断罪者でもなく、傷つき果てたひとりの――家康にとってはただひとりの、誰も代わり得ない、何かだ。
 家康は身体を起こし、地を踏みしめて立ち上がると光を湛えた眼で空を見上げた。
 唇を、意志を持って開く。
「か、つ」
 呼び終えた途端にごう、と空に轟音が鳴り響く。離れた戦場から一瞬で主の呼び声に応えた鋼の武将は、ひと目で主の願いを悟った。そして、それを諌めるのではなく従うことを選んだ。
 もう永いこと見ていなかった幼い顔が心の底から願うことを、本多忠勝は否定しない。
 空を滑空し、家康の傍らを勢いよく飛び抜ける。その瞬間に伸ばされた鋼鉄の腕が、地面に身体を投げ出していた男を掬って抱え上げた。
 忠勝が再び空へ舞い戻った時、戦場に残ったのは東の将だけだった。


 歓声はすぐそこに迫っている。




作品名:立ち竦む恩寵 作家名:karo