【標的279】虹色の実
あの人に出会ったのは春でした。母を失ったのも春でした。
私はうんと明るく笑いました。
母の死を悼み、母の死に泣いた後だったけれど、母の話に幾度も出てきたあの人へ母のためにも笑いかけました。
とても初めて会う人だとは思えなかったのです。
あの人は母の言った通り、夏に閃く雷光のような眼をした人でした。鋭く、熱く、激しい。
ああ、だけど。私には哀惜に沈む優しい眼でしかありません。それも母の言っていた通りに。
情に厚く面倒見のよい人であるらしい。男のプライドなんてものにこだわって格好をつけてしまう人らしい。
あいつはバカなの、カッコつけなの。そうぼやいていた母がどれほど嬉しそうに笑っていたのか、知っているのはもう私だけです。
彼の知らない母を私は知っているし、私の知らない母を彼は知っているのでしょう。
空の向こうへ消えてしまった虹は私たちの心に焼きついています。
母はたくさんのものを残してくれました。私は母からたくさんの大事なものを受け継いで彼の前に立ちました。
あの人は私の存在を認められずに怒って、私は危うく放り出されそうになったけれど、それでも、やはりすぐに気づいてくれた。
そう。私はアリアの娘にしてジッリョネロのボスを継ぐ次代。
ルーチェがそうだったようにアリアがそうだったようにユニもまた同じ虹の道を歩むと決まっています。それが私たちの運命です。
だけど悲しまないで、怒らないで、自分を責めないで。γ、あなたのような人が私たちに笑顔をくれた。
あの日、私はあなたのおかげで生まれたの。
「オレがあんたを命がけで守る」
大事な言葉をあなたはくれた。あの日、私は私だけのナイトを手に入れてお姫様になった。
ジッリョネロのお姫様。アルコバレーノのお姫様。でも私は、あなたのお姫様になれたことが嬉しかった。
生まれて初めて私を守ると言ってくれた人。春の邂逅を私はずっと胸に抱いています。
たった三ヶ月と人は言うかもしれない。あの人もたった三ヶ月と思っているかもしれない。
――たった? いいえ、私にとって最も豊潤な三ヶ月だったと言いましょう。
ジッリョネロの隠れ家で過ごした夢のように鮮やかな日々を、最期の瞬間まで忘れられはしないのです。
空が雲に覆われ嵐が来て雨が降った日、雷鳴と稲光に怯えて震える私をあの人は笑って撫でてくれました。
姫、雷なんて派手なだけだ。そんな不器用な慰め文句に思わず笑ってしまったのは誰のせい?
一瞬の稲妻は天空のショーだと誰かが言う。曇天を切り裂いて世界に我ありと木霊する。
あの日、あなたはとうとう抱き締めてはくれなかった。お互いに立場があり、私は幼くとも彼のボスだったので。
帽子のない頭をぽんぽんと叩いた大きな手。緊張にこわばる肩に触れた硬い手のひら。
私はそのぬくもりに吐息をつき、雷が遠のいた頃には一抹の寂しささえ感じていました。
もう雷は怖くない。だって私の雷が傍にいる。それが嬉しくて、私はやっぱりあの日も笑ったのです。
やがて雨音が引いて風が暗雲を運び去り、空には輝ける太陽が戻ってきました。
どんな嵐でも永遠には続かない。空を洗い流した雨は大地に染み込み世界を潤す恵みとなる。
雨上がりの空はどこまでも青く澄み渡り透き通り、わずかに残った白い雲がたなびいて柔らかな線を描く。
空気には雨の残り香。しっとりと濡れた草木がぽとりぽとりと雫を落とす。
二人で隠れ家を出て近くの草原に足を伸ばした時、あの人は長い腕を空へ向けて一点を指差した。
姫、虹が出てるぜ。足元を見ていた私よりも先に気づいて穏やかな声で教えてくれました。
それは大きな虹のアーチでした。大気中に散らばった水蒸気――薄い薄い霧が陽光を受けて燦然ときらめく荘厳な景色。
あの時、大空に架かる七色の神秘を私たちは言葉もなく仰ぎ見ていました。
それから、彼はぽつりと言ったのです。虹は憧れの象徴だと。
私は、何も言えなくて。何か言ったら泣いてしまいそうだと思って、彼のロマンチックな表現に目を閉じてそっと微笑みました。
憧れ、夢、希望、ロマン。光が奏でる幻想的な色彩の調べ。詩的に例えても虹はいつか消えてしまうものです。
決して手の届かぬあの光は、消えることこそが運命なのです。虹は消え、空は色合いを変えて永久に続く。
虹を追う者は空想家と呼ばれるばかりで、虹に焦がれて虹を求めても誰のものともなりません。
ただただ繰り返し現れては儚く消えて、人の心にだけ鮮明に残る。
あの人と虹を見上げた日、私はこれからの運命をすでに受け入れていました。
人は生まれた時から死に向かって歩いているのです。私はそれが他の人よりちょっと早いだけなのです。
空の向こうには消えた虹がいるでしょう。祖母も母も、空を彩った人たちはみんなみんな私を待っていてくれるでしょう。
生き急がずともよいと言ってくれそうな人たちだけれど、芳しい三ヶ月の間に私の心はどうしても急き立てられました。
私の騎士様はとっくに大人の男の人で、あの頃の私は大空のおしゃぶりを持ってマーレリングを守るだけの、ちっぽけな女の子だったから。
姫と呼ばれるたびに私の心は大人になろうとしました。せめて心だけは、魂だけはと一生懸命背伸びをしました。
そのくせ結局、本当に大事なことを何も言えずに過ごしてしまいました。
運命を予期していたからなんていうのは言い訳です。この体と同じように、やはりまだまだ子供だったのです。
いくらお姫様扱いをされても、現実の私は背丈も低く手足も細く胸もありません。
あの人の横に並び立てば、何も知らない人からはせいぜい仲の良い兄妹だと思われておしまいです。
本音を言えばそれが寂しかった。切なかった。私には物心ついた時から予感がありました。
私も長生きはできない。それどころか、大人になって恋をして伴侶を得て子供を生むという人並みの幸福も遙か遠くにあるのでしょう。
わかっていた。最初からわかっていたの。私は虹。大空のアルコバレーノ。
いつか儚く消えて誰かの心に残ることだけが私に許された人生の彩りです。
だから、みんなのために正しく力を使って命を賭けられることは幸いであるとすら言いましょう。
私はいくつもの幸せをもらいました。これでも精いっぱい生きたつもりでした。
けれど。でも。どんなに必死に背伸びをしても、私はどうしようもなくただの子供でしかなかったのです。
死にたくないんです。生きたいんです。大人になって彼の隣に立つのにふさわしい女性になりたかった。
あの人の広い背中を抱き締められる、母のような大人の女性になりたかった。
私がここで炎をすべておしゃぶりに捧げて死んでしまったら、亡骸はみんなの目に晒されるのでしょうか。
虹は美しいものとされているけれど、現実の死はひたすらに無慈悲なものだと知っています。
沢田さんたちの前で、太猿や野猿の前で、よりによってあの人の前で私は冷たい屍となるのでしょうか。
お母さん。おばあちゃん。私は怖いです。死ぬのが怖い。別れが怖い。つらくて悲しくて寂しいです。
だけど私にしかできないことを嫌というほどわかっています。そして、私は運命を全うする覚悟ができています。
生まれた時から死ぬと決まっていた。私はちょっと早いだけ。私は虹の架かる大空。
私はうんと明るく笑いました。
母の死を悼み、母の死に泣いた後だったけれど、母の話に幾度も出てきたあの人へ母のためにも笑いかけました。
とても初めて会う人だとは思えなかったのです。
あの人は母の言った通り、夏に閃く雷光のような眼をした人でした。鋭く、熱く、激しい。
ああ、だけど。私には哀惜に沈む優しい眼でしかありません。それも母の言っていた通りに。
情に厚く面倒見のよい人であるらしい。男のプライドなんてものにこだわって格好をつけてしまう人らしい。
あいつはバカなの、カッコつけなの。そうぼやいていた母がどれほど嬉しそうに笑っていたのか、知っているのはもう私だけです。
彼の知らない母を私は知っているし、私の知らない母を彼は知っているのでしょう。
空の向こうへ消えてしまった虹は私たちの心に焼きついています。
母はたくさんのものを残してくれました。私は母からたくさんの大事なものを受け継いで彼の前に立ちました。
あの人は私の存在を認められずに怒って、私は危うく放り出されそうになったけれど、それでも、やはりすぐに気づいてくれた。
そう。私はアリアの娘にしてジッリョネロのボスを継ぐ次代。
ルーチェがそうだったようにアリアがそうだったようにユニもまた同じ虹の道を歩むと決まっています。それが私たちの運命です。
だけど悲しまないで、怒らないで、自分を責めないで。γ、あなたのような人が私たちに笑顔をくれた。
あの日、私はあなたのおかげで生まれたの。
「オレがあんたを命がけで守る」
大事な言葉をあなたはくれた。あの日、私は私だけのナイトを手に入れてお姫様になった。
ジッリョネロのお姫様。アルコバレーノのお姫様。でも私は、あなたのお姫様になれたことが嬉しかった。
生まれて初めて私を守ると言ってくれた人。春の邂逅を私はずっと胸に抱いています。
たった三ヶ月と人は言うかもしれない。あの人もたった三ヶ月と思っているかもしれない。
――たった? いいえ、私にとって最も豊潤な三ヶ月だったと言いましょう。
ジッリョネロの隠れ家で過ごした夢のように鮮やかな日々を、最期の瞬間まで忘れられはしないのです。
空が雲に覆われ嵐が来て雨が降った日、雷鳴と稲光に怯えて震える私をあの人は笑って撫でてくれました。
姫、雷なんて派手なだけだ。そんな不器用な慰め文句に思わず笑ってしまったのは誰のせい?
一瞬の稲妻は天空のショーだと誰かが言う。曇天を切り裂いて世界に我ありと木霊する。
あの日、あなたはとうとう抱き締めてはくれなかった。お互いに立場があり、私は幼くとも彼のボスだったので。
帽子のない頭をぽんぽんと叩いた大きな手。緊張にこわばる肩に触れた硬い手のひら。
私はそのぬくもりに吐息をつき、雷が遠のいた頃には一抹の寂しささえ感じていました。
もう雷は怖くない。だって私の雷が傍にいる。それが嬉しくて、私はやっぱりあの日も笑ったのです。
やがて雨音が引いて風が暗雲を運び去り、空には輝ける太陽が戻ってきました。
どんな嵐でも永遠には続かない。空を洗い流した雨は大地に染み込み世界を潤す恵みとなる。
雨上がりの空はどこまでも青く澄み渡り透き通り、わずかに残った白い雲がたなびいて柔らかな線を描く。
空気には雨の残り香。しっとりと濡れた草木がぽとりぽとりと雫を落とす。
二人で隠れ家を出て近くの草原に足を伸ばした時、あの人は長い腕を空へ向けて一点を指差した。
姫、虹が出てるぜ。足元を見ていた私よりも先に気づいて穏やかな声で教えてくれました。
それは大きな虹のアーチでした。大気中に散らばった水蒸気――薄い薄い霧が陽光を受けて燦然ときらめく荘厳な景色。
あの時、大空に架かる七色の神秘を私たちは言葉もなく仰ぎ見ていました。
それから、彼はぽつりと言ったのです。虹は憧れの象徴だと。
私は、何も言えなくて。何か言ったら泣いてしまいそうだと思って、彼のロマンチックな表現に目を閉じてそっと微笑みました。
憧れ、夢、希望、ロマン。光が奏でる幻想的な色彩の調べ。詩的に例えても虹はいつか消えてしまうものです。
決して手の届かぬあの光は、消えることこそが運命なのです。虹は消え、空は色合いを変えて永久に続く。
虹を追う者は空想家と呼ばれるばかりで、虹に焦がれて虹を求めても誰のものともなりません。
ただただ繰り返し現れては儚く消えて、人の心にだけ鮮明に残る。
あの人と虹を見上げた日、私はこれからの運命をすでに受け入れていました。
人は生まれた時から死に向かって歩いているのです。私はそれが他の人よりちょっと早いだけなのです。
空の向こうには消えた虹がいるでしょう。祖母も母も、空を彩った人たちはみんなみんな私を待っていてくれるでしょう。
生き急がずともよいと言ってくれそうな人たちだけれど、芳しい三ヶ月の間に私の心はどうしても急き立てられました。
私の騎士様はとっくに大人の男の人で、あの頃の私は大空のおしゃぶりを持ってマーレリングを守るだけの、ちっぽけな女の子だったから。
姫と呼ばれるたびに私の心は大人になろうとしました。せめて心だけは、魂だけはと一生懸命背伸びをしました。
そのくせ結局、本当に大事なことを何も言えずに過ごしてしまいました。
運命を予期していたからなんていうのは言い訳です。この体と同じように、やはりまだまだ子供だったのです。
いくらお姫様扱いをされても、現実の私は背丈も低く手足も細く胸もありません。
あの人の横に並び立てば、何も知らない人からはせいぜい仲の良い兄妹だと思われておしまいです。
本音を言えばそれが寂しかった。切なかった。私には物心ついた時から予感がありました。
私も長生きはできない。それどころか、大人になって恋をして伴侶を得て子供を生むという人並みの幸福も遙か遠くにあるのでしょう。
わかっていた。最初からわかっていたの。私は虹。大空のアルコバレーノ。
いつか儚く消えて誰かの心に残ることだけが私に許された人生の彩りです。
だから、みんなのために正しく力を使って命を賭けられることは幸いであるとすら言いましょう。
私はいくつもの幸せをもらいました。これでも精いっぱい生きたつもりでした。
けれど。でも。どんなに必死に背伸びをしても、私はどうしようもなくただの子供でしかなかったのです。
死にたくないんです。生きたいんです。大人になって彼の隣に立つのにふさわしい女性になりたかった。
あの人の広い背中を抱き締められる、母のような大人の女性になりたかった。
私がここで炎をすべておしゃぶりに捧げて死んでしまったら、亡骸はみんなの目に晒されるのでしょうか。
虹は美しいものとされているけれど、現実の死はひたすらに無慈悲なものだと知っています。
沢田さんたちの前で、太猿や野猿の前で、よりによってあの人の前で私は冷たい屍となるのでしょうか。
お母さん。おばあちゃん。私は怖いです。死ぬのが怖い。別れが怖い。つらくて悲しくて寂しいです。
だけど私にしかできないことを嫌というほどわかっています。そして、私は運命を全うする覚悟ができています。
生まれた時から死ぬと決まっていた。私はちょっと早いだけ。私は虹の架かる大空。
作品名:【標的279】虹色の実 作家名:kgn