未完成少年進化論
「ただいまぁ。」
「「おかえりなさい。」」
高校生にして一室の主たる少年、竜ヶ峰帝人は、返事が無いと知りつつもつい惰性で(または習慣で)呟いてしまった帰宅の挨拶へと応えがあったことに、ピタリと動きを止めた。
元は片田舎出身の少年であるが、彼は高校入学を機に憧れの東京、池袋へ、幼馴染にして親友に誘われて上京した。
高校生という身分で独り暮らしをするという彼が両親の許可を得るまでには、それなりの悶着もあったのだが、ここでは割愛する。
さて、先述の通り、無人と思われた部屋から人の声が返ったことに驚き制止していた帝人であったが、それがどうにも、少なくとも片方には聞き覚えがある音であることに気付き、中途半端に上げていた足を下ろして前を見た。
安さだけが取り柄の、安全性と耐震性に問題の見えるアパートは、値段相応に薄汚れてボロく、そして狭い。
玄関を数歩行けば彼の居城、小さな彼の部屋であり、そこには、聞き覚えのある通り、知った人物が見て取れ、取り敢えず不法侵入の線が消えたことにホッと安堵の息を微かに零した。
「母さん。」
「遅かったわね、帝人。道草も程々になさいね。」
呼んだ通り、1人は彼の母親であった。
童顔である帝人と並ぶように、実年齢より遥かに若そうな顔と、年相応に落ち着き払った声と態度は、帰省した際に会った時と何ら変わりない。
彼女、というより、自宅には、このアパートの合鍵を渡してあり、何かあれば直ぐに来れるようにしておいたので、その点については全く問題は無い。
だが。
「お邪魔してるわね、帝人。」
「・・・・・・」
ゆるり、と温和な笑みを浮かべた表情の、小奇麗な女性が帝人に声を掛けた。
伴って、鋭い視線が帝人の童顔に注がれる。
帝人は困惑を混ぜた声音で応えた。
「叔母さん、来てたんですか。」
「えぇ、姉さんにお願いしたのよ。」
帝人の叔母は、彼の母の妹に当たる。
彼の母親は婿養子を迎えた形であり、彼女の妹は別姓へと嫁いで行った。
「それで、えぇと・・・本日は、どのような御用件で・・・」
注がれる視線を気にしつつ、帝人は一体どうしたのかと、問うた。
頼んだ、というからには、母親を通して帝人に何か頼みたいことがあったのだろう。
姉妹でする話であれば兎も角、帝人が加わるとなれば彼の高校生活に関することになりそうだし、かといって、帝人が楽しい話題や積極的な話を提供できる訳でもないので、早速と言わんばかりに本題を切り出した。
決して叔母が嫌いとか、そういったことではないのだが、引っ込み思案な帝人には聊かハードルが高いのだ。
そう思っていたのだが。
「帝人、取り敢えず、お茶淹れて。」
どこまでも自由な母は、帝人の心情を汲み取らず、客人としてある意味当然の要求を口にした。
昔から母に頭の上がらない帝人は、腑に落ちない所もありつつ、逆らう程でもないかと、素直に人数分の茶を入れる。
1つ、牛乳か何かにすべきかと迷ったが、飲まないなら飲まないで良いかと思い、一先ず倣って茶にしておく。
「それで、その―――・・・」
「帝人、アンタ部活とかバイトとか、やってなかったわよね?」
一息吐いた区切りで再び問いを重ねようとすれば、被せるように母親に先手を打たれた。
開こうとしていた口が閉じ、惑う様に小さく、縦に振られる。
確かに帝人は部活をやっていないし、バイトはやっているものの、在宅でも問題無いものである。
それがどうしたというのかと、怪訝そうに見る帝人の目線を素通りして、彼女は妹を見た。
それを受けた妹は、帝人に向かって申し訳無さそうな笑みを浮かべる。
「あのね、帝人。お願いがあるのよ。」
「はぁ。どうかしましたか?」
おずおずと切り出された言葉に、帝人は微かに首を傾げて応える。
彼女は言い難そうに言葉を切ると、抱えていたものの背を押して帝人の方へと近付けた。
「悪いんだけどね、放課後から夜に掛けて、この子を預かって欲しいのよ。」
この子、といって差し出されたのは、小さな子供である。
栗色の柔らかそうな髪が軽やかに方々へと踊り、クリッと丸まった、少し釣り目気味の眼差し。
口元は硬く引き結ばれているが、健康そうに色付いた頬はスベスベと柔らかそうだ。
先程から帝人を見上げて鋭利な視線を送っている主を見て、彼は、えっ?、と疑問を乗せた顔で叔母を見た。
「はい?」
「帝人、その子は静雄君よ。母親である叔母さんは仕事をしてて帰ってくるのが夜でね。お父さんの帰宅も夜となれば、学校から帰って1人になるじゃない。弟の幽君は保育園に預けてるらしいんだけど、静雄君はそうもいかないでしょ?」
答えてくれたのは母だった。
いかないでしょ?、と言われても、と、少し困ったように子供、静雄を見ていると、苦笑を浮かべて「静雄は今小学校1年生なのよ。」、と今度は叔母が返答をくれた。
なるほど、と帝人は思う。
薄情と思われるかもしれないが、帝人は、彼女に幼い息子達が居たことは勿論知っていたが、年齢までは覚えていなかった。
母親の妹が嫁いだ先、平和島家は割合とここから遠く無い所にある。とはいえ、帝人が平和島家と交流を持っているかといえば、そんなこともない。家族行事があった時などに会うだけなので、実質、1年に1度、会うか会わないか、である。
そして、その辺りには保育園はあっても、小学生を預かってくれるような施設が無かった。
となれば、児童の安全が叫ばれる昨今、そうおいそれと遅くまで、学校は児童を預かってくれず、更に平和島夫婦は夫の両親とは別居しているので、家には親子しか居ない。
従って、両親が共働きとなれば、子供達は家に残されることとなる。
幽、というのは静雄の弟であり、静雄が小学校1年生ならばその更に下なのだから、幼稚園なり保育園なり手段がある。
そこで問題となるのが、静雄なのだろう。小学生の息子を1人、家に残しておくことに不安を感じたからこそ、帝人に頼んでいるのであろう。
だが、帝人とて特別子供が得意ということでもなく、その上高校生ということで、彼とは違うタイムスケジュールの中で動いているのだから、中々合わせることは出来ないのではないだろうか。
ということをそれとなく、静雄の母親に伝えてみた所、彼女は笑って帝人の都合がどうしても付かない時は構わない、と言った。
「本当は、私が家に居てあげれれば良いんだけど。今の景気だとそうもいかないし。職があるだけでも良しとしないと。でも、1人で残すのは可哀想じゃない?それに、静雄は・・・・・・」
言い掛けて、彼女は言葉を切った。自分の息子を数瞬見下ろして、縋るように帝人を見る。
「・・・兎に角。学校側には私がどうにかお願いしておくから。帝人、高校が終わってからで良いの、この子を学校まで迎えに行って、暫く面倒見てあげてくれないかしら?」
「勿論良いわよね?帝人。」
哀願を含む叔母の眼差しと、拒否を赦さない煌く母の眼差しが帝人を貫いた。
帝人はうっ、と怯む。何しろ、似た顔から同時に迫られた上、1人は、帝人の高校生活を握っているといっても過言ではないのである。
2人の女性を見た後、帝人は再び静雄を見下ろした。