∽咲いた、桜
「歌詞が違うぞ、三成。」
枝垂桜を掻き分け、家康が笑った。
ぐるりと周囲を取り巻くように花枝が地に着くまで垂れている。
細い銀の短髪をゆるりと廻らせ、根元に座る三成は無言で家康を見上げた。
彼女はこの春、中学生になった。
黒いセーラー服に濃紫のスカーフが、そよと揺らぐ。
隠されるような枝垂桜を背景に、その姿は浮かんで見えた。
ようやく見つけた、と家康は小さく息を吐く。
どこかにいるから探してごらん、と竹中半兵衛は笑って、家康を父との会合から押し出した。
春、空は薄青く霞み、陽の光に周囲が輝く。
暗色を好んで纏う三成は見つけやすいと思ったのに、場である古城公園は広かった。
「・・・貴様も来たのか。」
呟かれた声は下に落ちた。
視線は崩した膝元、閉じられた薄い文庫本に当てられている。
「声が聞こえたから見つけられたが、その歌がなければ無理だったかもしれん。竹中殿も人が悪い。」
「半兵衛様になんて言い方だ。改めろ。」
「いや、お前を見つけてみろと仰ってな。しかしこれは見つけられんだろう?」
「見つからなくとも良かったのだ。貴様など邪魔なだけだ。」
「邪魔だから、ワシもお前も外させられたのだ。それくらいは解っているのだろう?」
「・・・貴様!」
「そう怒るな。豊臣組が大変なように、こちらも大変だ。やれどこぞの組長が自殺しただの、誰だかが出所するだの、どうにも近頃キナ臭い。お前は子供だからとあまり知らされていないと思うが、肌で感じているだろう。ワシがそうであるように。」
歳の差は5つある。
けれど、13になる三成と18になる家康では、少し聞かされる話も違って来ている。
なのに二人ともが席を外させられたということは、聞いてはいけない話なのだと解る。
少なくとも、将来のある人間に聞かせて巻き込んでは、一生を立て直せなくなる、そんな話。
竹中は笑っていた。父は無表情だった。豊臣は、珍しく眉間の皺が深かった。
「ああ、そういえば屋台を見たか?今年はラーメン焼きなんてものが出ていたぞ。なんだあれは?」
「うちで出している屋台にケチをつけるな。B級食とやらで流行だからと、半兵衛様が出させたのだ。」
花見客のために出ている公園内の屋台は、豊臣組の管轄だった。
「新しいものが好きなんだなあ。」
「流行なら廃るのも早い。早く出さなければ稼ぎが悪いだろうが。何より、目新しいものなら必ず一定以上は売れる。稼げると解っていて手を出さないのは愚かだ。」
「・・・世知辛いな。」
「世の中は世知辛いものだ。そんなことも知らんのか。」
三成は冷たい目で家康を見た。
家康は苦笑して、枝垂桜の内に入り隣に座る。
「・・・何故座る?」
「うん?立って話をするのは疲れるからな。」
三成の首も痛くなりそうだし、と言うのは堪えた。
恐らく喧嘩になる。それは避けたい。
ああ、けれど本当に、いつ見ても細い首で、その細さだけでも痛々しい。
家康は目を細めて、そう思う。
中学の頃、担任だった男に相談をしたことがあった。
桜の花のように朗らかで、けれど静けさも合わせ持つ人だった。
大昔の思い出と現在の在り方に呆然とした頃だった。
その古い記憶の中、彼は中立の立場だった。
毎年行われている同窓会で、悩む家康に彼はただ一言、今は今だよ、と告げた。
それきり、騒々しい同窓会の場を収めるために行ってしまったけれど、家康の迷いは晴れた。
今は今だ。新しく関係を構築することも出来るのだ。
「話すことなど無い。」
しかし、三成には厳しい声音で拒絶された。
「いや、三成が歌うところは初めてだったからな。ぜひ聞きたい。」
「何を好んで聞きたがる。」
「竹中殿がお前の詩吟を自慢されるだろう。それは素晴らしいと。だがお前、ワシにはちっとも聞かせてくれないじゃないか。歌くらいならいいだろう?」
言えば三成は黙った。
三成は豊臣と竹中に言われて詩吟を習っている。
酷い親元から豊臣のところへ保護されて以降、ずっと習っているという。
幾つも挙げられた習い事の中で、どれがいい?と聞かれて答えたのが詩吟だった。
声を使うだけなら道具は要らない。場所もとらない。
世話になる身で、技芸を身につければ居場所が出来ると言われても、金銭的な負担を最小限にしようと考えたらしい。
豊臣の客人に披露すると、その素晴らしさに誰もが溜息を吐いたという。
三成という芸名も、幼い頃を知る者以外にも知られるようになった。
だが生憎と、家康や父は彼らに敵対する立場であるから聞く機会は無い。
それをけじめだと、竹中半兵衛は言った。
そのくせ自慢はたっぷりとするのだから、やはり人が悪いと言うしかない。
さくらさくら弥生の空は、と歌が流れた。
家康のわがままは聞いてやらないとしつこい。
それを、短くない付き合いで三成もわかっている。
だから折れたのだろう。
が、家康は聞きながら首を傾げた。
先刻、耳にしたものと違う。
だが、家康が知っているのはこの歌詞だった。
学校で習ったことのある、少し懐かしさを感じる古めいた詩。
それは、ゆったりと美しい桜の景色を髣髴とさせる。
歌が終り、満足か、とちらり三成が流し目をして見せた。
しかし、家康はひとつ頭を振った。
「さっきのと違うじゃないか。」
「貴様!先ほど歌詞が違うと言ったのは貴様だから、合わせてやったのだろうが!!」
「ああ、やっぱり違う歌詞なんだな?そっちが聞きたい。」
家康は得心がいって破顔する。が、三成は顔を背けた。
「・・・貴様には勿体ない。」
「勿体ない?」
「・・・あれは、あの歌は、秀吉様がお教えくださったのだ。貴様に聞かせるなど勿体ない。」
「ああ、豊臣殿の作詞か?」
「違う。もともとの歌詞はあちらだそうだ。半兵衛様が仰るには、あの歌は歌詞を何度も変えているそうだ。」
「それは知らなかったな。」
「だろうな。どちらもいいから、どちらも残った。ただ・・・」
「ただ?」
「・・・秀吉様はあちらが好みなのだそうだ。力強く美しい、日本の景色を歌ったのだと。いつまでもそうある姿を寿いだ歌なのだと。そう、半兵衛様がお教えくださったのだ。だから秀吉様のために練習していたのだ。貴様に聞かせるためなどでは断じて無い!」
ギッと眼を尖らせて睨むので、家康は少し気圧された。
「・・・では練習も聞かせてくれんのか?」
「無論だ!」
三成は直情に言い切ると、何かに気付いて、すっと背筋を伸ばした。
ああ、これは。家康が思うと同時に足音がした。
「おや、見つけられたのか。残念だね、隠しておきたかったのに。」
ざらり、と花の滝を掻き分けて、竹中半兵衛の笑顔が覗いた。
「半兵衛様!」
「待たせたね。もうお終いだよ。うちに戻ろう。」
そう華やかな風情で告げる竹中の言葉に、家康は胸が詰まる。
竹中は決して、帰るとは言わない。
きっとそれも、けじめだと言うのだろう。
幼い三成の髪がストレスとショックで色を変えるほどの家庭であっても、三成が帰る場所はそこなのだと、解らせる為のけじめ。
三成は芸名で通っているが、本名は別にある。
豊臣は独身であるので、血縁が無ければ養子に取ることもできなかった。
法律で、そう決まっている。
だからこそ、三成の本籍は今も実の両親の元にある。