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『寂々』

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『寂々』   

 ぬるぬるとも、じゃりじゃりとも、微かに藁底が土を踏む音はあるのだが。その場所の土が硬いのか軟らかいのか、良く覚えていない。
ただ黒紫色の空の下、幼げな面立ちの男が。

 その、幾分か早歩きの音の主は滅多になく心を乱していた。彼が僧籍に身を置きながら、止められても好んで止まぬ女人達の所へ行く訳ではなく、かと言って用がある訳でも、何者かに追われて切羽詰まっている訳でもない。女と言えば……あの娘達。そう、この旅の途中で会った。うつらうつらと瞼の奥に彼女達の朱と橙の衣の、鮮やかさを思い起こそうとした最中、ぬるりと風が吹く。だから現実に返され……今の状況に戻される。
(ああ……いけない)
 一枚の葉もない、老木だろう。その枯れ枝はざわと揺れ、風は舐めるように、幼い面立ちの男……鳳凰の首元に吹く。
(いけない、いけない……乱すな。この俺が。そうだ。俺は)
右手には三叉の杵、左手に印、その力その技、魔を喝破する腕は星の如く峻烈、鮮やかとも。天性の法力を持ち、それにより僅か23歳にしてお山一の術者となり、高明の明星とも至高の退魔師とも。諸々の名を轟かせ、だが一風普通の青年、そして楽天家で。この幼き……愛らしいとも言える顔の男。
 (乱れるな)
 あろうことか心を乱していた。いや、
 (落ち着くんだ)
 思い彼は、何かこの心の縋りとなる物を周りに探そうとする。かのような並々ならぬ歴を持つ者が心乱されていたのだ。
 (……信じられん)
 うっすらと閉じていた両の目を開く。
 (……)
 そして、光景を探る。その眼前。黒紫の空、乾いている?湿っている?どうとも言い切れぬ踏みしめた感のない土。老木の枯枝、楊枝のようなその枝先。決して青い葉が芽吹くことはない。
 凝らした眼で、老木に朽ち縄が揺れ下がっている事に初めて気付いた。
 眼前の全てを見、もう見ないために彼はまた眼を閉じる。
 ―…ああ、駄目だ駄目だ。
 迷うつもりはなかった。

 いつこの名が付いたのだろう。誰もここには来やしないし、村、商人町、城下……そう言った、つまり人の集まる場所からまるで拒絶されたように離れているこのうす暗い原。
 辛うじて一番近いといえる町や村に住まう者らが噂話で、しかもそれを針小棒大に、口から口へ謳い上げるのだろうが……その寄せては呑まれ、また浮かぶ波のように尽きぬ話の中に。
 ―…原、―…ヶ原、名の通りだ。
 ―…るらしいよ
 悪い事は言わん、あの側には行くな。迷う前に歩いた道を引き返せ

 迷うつもりはなかった。
 ここにだって来ようと思わなかった。このような所。
 その日を終えたら行き通っていたのは酒場。化粧を施した女人達の彩り、酔いの回った皆の息遣いと荒い声。自らも紛れ、声を上げ、手を振り、そうして馬鹿騒ぎをして…………もうそういう毎日は過ごせないのだけれど。(「覇王」)
 ―…動かなくては
 せめて今は、どこにでも行けるように。
 この身をできるだけ軽くして、いつでも走るようにしておかなければ。
 ―…行かなければ
 どこへ?分からない。
 せめて今は強くならなければ、いつでも戦わなくてはいけないのだから。亡霊を倒すために動き、どこにでも行こう。
 (あの男を)討たなければならない、動かなければ、行かなくては。

 (薄気味悪い?そうではない)
 このような場所に来ようと思わなかった。道標を失ったとしても迷うつもりはなかった。このような所。

 呼ぶ者は昔の亡霊達。辿り着くべきはかの場所。だがその前にここに。来てしまう前に。
 (名前通りだね)
 (あそこは出るらしいよ)
 (逢魔―…その時間に)
 遊び歌のように口ずさんでいた町の子供達。
 (あの原一帯だけろくな草が生えん)
 使う予定も、第一金もないだろうに息を付きながら呟いていた農夫。疲れきったその顔と深い皴の強張った手。
 (悪さをした子に言う、ぐずる子にもいってやる―…泣き止まぬと……が)
 ここから最も近い農村で説明を乞うた時。
 草も生えぬ泣く子の声も止む、その逢魔ヶ原には。
 ―…名前通りだね「出るんだよ」
 鳳凰にまとわり付く湿る風は止まない。
 ……
 つい一刻前には。この場から逃げて来たらしい、体中の赤味や血の気の失せ切った男が言っていた
 (いけない、いけない、しっかりしろ)
 吹きなびく風は瞬時止み、その中に何かが混じる。
 におい、着衣の触れる音、息づかい。
 (人……人か?)何と言う。
 只人が対峙するには恐ろしく、逃げられず足がすくんでしまうだろう……気配。
 そう言えば、ここから逃げて来た男は声を絞り叫んでいた。
 ただ渦巻く恐怖感、止まらなくなりそうな戦慄を抑えながら男と同じ思いを鳳凰は心中で叫ぶ
 (……来る!!)
 まとわりつく湿る風、踏むか踏まぬか分からぬ感触の土、黒紫の空。近付く、近付く気配、近い、そこにいる。だから……心乱される。恐れ、必死にそれを自らの理で制していた。
 恐怖心が。堰を切るかの如く自らの耐えうる器をあふれ出たのか。
 バチリと。知らず合わせた掌が大きく鳴り、風は一瞬彼の衣の袖をゆらとはためかせた。
 「オン ハンドマ ダラ アボキヤ ジヤヤニ ソロソロ ソワカ……」
 不動の姿勢で唱える。
 いつもの、つまり毎日のお勤めのように魔どもを討つのと同じく、この籠もる気配の根本自体を絶つためではない。瘴気、邪気か妖気か。背筋を汗が伝う程のそれらを人が発するとは思い難く、その強い気配を簡単に払えるなどとは思えない。あるいは自らが文字通り全身全霊を賭したとしたなら……気配の主を倒す事はできるかもしれないが、それを鳳凰は考えていなかった。
 (ここで俺は……倒れる訳にはいかないから。)
 ふうと、もうろくに記憶もなくなった父母の面影が瞼の奥によぎる。彼らは魔物の為に死んだ。自分の―…せいで。
 だからかもしれない。人の行動の根本の動機は、自らの過去の強い衝撃と直結している。だから思うのだろう。この世の、この極東の島国の魔を全て討てと。
 ―…動かなくては。行かなくては。
 特にこの旅に出てから、強く強く強く繰り返す……
 討たなければならない。今は何も分からない。だが動かなければ、行かなくては。
 心にかっと、見えぬ炎が燃え上がる。
 内に籠もる弱き恐れを除け、姿を見せぬ相手の気をただ削ぐために続ける。
 「オン ハンドマ ダラ アボキヤ ジヤヤニ ソロソロ ソワカ」
 祈るように両の掌をそのまま合わせ、胸の前に突き出す。だが気配は一向に衰えぬ。
 「オン コロコロ センダ リマトウ ギ ソワカ……」
 心の限界が近付いたのか、知らず彼の声は上擦り、高くなっていた。
 対峙する鳳凰の恐怖心に反応したのか、全てを詠み終える事なく逢魔ヶ原の魔が姿を現す。

 その位置、約四間。はっきりとは言い切れぬが鳳凰の前にようやく姿を現した男は。
 見た目は三、四つ程彼より年嵩だろう。六尺程の長身に着流しの、浪人風の出で立ち。その着物の裾下八寸程には黒の文様が染められている。炎のようだと、切迫した現状の中何故かうっすらとそんな事を思った。
作品名:『寂々』 作家名:シノ