愛してほしかった
「なんでもいいから部屋に戻ってよ」
舌打ちをした静雄さんが真っ暗な部屋に入っていく。もう瞳は僕を見ていない。何を考えているんだろうな、あの人は。他人を思いやる素振りを見せられるのは自分が幸せだからだ。あの人はそうやって。僕を不幸だと言ってるんだろうか。とても卑屈な考えだとは理解していた。それでも今の僕はそれ程に惨めではないか。知らない人間の前でならまだ良かった。相手は平和島静雄なのだ。僕の気持ちを知っている平和島静雄なのだ。
「帝人くん。少し待っててね」
それだけ告げてニコリと笑う。あの人は普段僕に笑いかけない。ああ、大切な人の前だから自分を作っているのか。そうか、臨也さんにはとっくに大切な人がいたのか。顔が紅潮した。恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、あの人には心に決めた人がいたというのに僕はまだ愛されるかもしれないと思いながらここに通い続けていた。恥ずかしい。愛されないと分かっていても。冷たい態度をとられると気づいていても。それでもそれが無視ではないのならまだ可能性はいくらでもあると思い込んでいた。愛されるかもしれないと思っていた。僕に対してだけ態度が違うのはあの人が僕のことを特別に思っているからだと思っていた。なんて自分勝手な浅ましい感情を持って思い上がっていたんだろう。
臨也さんの部屋へ続く扉は開いたままだった。だけど、中からはまた情事の音がした。
きっと出て行っても気づかれない。いなくなってしまいたかった。ここ以外のどこかにいたかった。愛する2人世界に足を踏み入れた馬鹿な僕はただの恥晒しでしかない。見込みもない。惨めでしかない。また泣いてしまいそうだった。
僕は何も言わずに駆け出した。大音量のテレビと、愛する2人に僕の足音は聞こえない。呼び止められることもなく臨也さんの部屋を脱した。エレベーターに乗り込むと視界が滲んだ。
僕は、失恋したんだ……本当に、あの人は、僕を愛してなんてなかった……だったら僕はなんだったんだろう。そしてふと思いついた。態度は違えど、僕は駒だったのだ。信者の子のように優しく接することなく扱える駒だったのだ。たかがそれだけのこと。それは特別でもなんでもない。その他大勢と変わらない。
そう思うと涙がぽろぽろと溢れだしてきた。嗚咽も出てきた。何に対して泣いているのかもう自分でも分からなかった。ただ悲しいと思った。泣きたくて仕方なかった。だから僕は泣く。子供のように、声を押し殺さずに泣いた。どうせこのマンションの部屋には防音が施されている。廊下にでもいなければ僕の声が聞こえる事はない。遠慮なんてしない。悲しいときに泣かずしていつ泣くのだ。悔しい! 哀しい! 愛されたかった! 1度でいい。あの人の腕に抱かれて、人よりも低そうな体温に包まれたかった。セックスを望むわけじゃない。抱きしめてくれるだけでよかった。愛してるなんていらない。僕に対してだけ笑顔を向けてくれることがあればよかった。それが偽りでも構わなかった。嘘でも優しくしてほしかった。違う。本当は愛してほしかった。僕だけを愛してほしかった。だって、僕は、臨也さんのことが好きで好きでたまらなかったんだ。性格の悪さも、酷い人だということも、全部知っても好きだったんだ。だから、愛してるよ帝人くん。そう言って欲しかった。
1階に着くとエレベーターの戸が開いた。
外に出る前にポストが並んでいる。僕はポケットの中を手で探った。ヒヤリとした感覚。それを手に握りこみ、臨也さんのポストに投げいれた。
駒の僕に渡された鍵はいらない。
どうせ、失恋してしまっただけなのだ。人生において1度目の失恋だ。たかが失恋だ!
僕は涙を拭って外に出た。大きな月が出ていた。
「……臨也さん好きです」
口に出して言ってみる。
そういえば、口に出して言ったことはなかったな。
まだ涙が出そうになるけど、僕が1度目の失恋を思って泣くことはもうない。だって癪に障るじゃないか。
吹っ切れた。
空き缶を思い切り蹴る。