暁を背に
「海が近いからな、磯の香りがするだろう?食堂は港の近くだから、そろそろ海が見えるぜ」
ミナキがそう言って、曲がり角を曲がる。後から追うと、ふわりと独特の香りが鼻孔を擽った。これがミナキの言う海の匂いなのだろうか。
なんて、思う間もなく目の前には真っ青な世界が広がっていた。
「う、わあ……!」
水面がきらきらと光っている。時折波と共に何かが跳ねるのが見えた――メノクラゲだろうか。
マツバの瞳に映るのはどれも初めてのものばかりで。こんなにも世界は広くて綺麗なのだと思う。
「マツバ?」
「ホウオウもさ、こんな綺麗な世界だったら旅に出たくもなるかなあって思って」
僕は何にも分かっていなかったね、と笑う。
「スイクンは、この海を渡るんだ。想像するだけでも、素晴らしく美しい」
「うん、素敵だね。いつか本当に見てみたい」
マツバの髪の毛がふわふわ風になびく。ミナキが、行こうと手をさし伸ばそうとしたとき彼の身体がふらりと前のめりになった。
「マツバ!?」
慌てて倒れ込むマツバを支えたミナキは、その身体の熱さに驚く。
息が荒く、顔色も悪い。それでいて、額に触れると燃えるように熱かった。
「す、すごい熱だ……!」
昨日まではそんなことなかったのにと、ミナキは慌てる。しかしどうすれば良いのか分からない。
わたわたしているうちに、通行人たちも二人の異常に気付き、程無くしてマツバはポケモンセンターに運ばれた。
「とりあえず、お薬と点滴を打ちました」
ジョーイさんはにこやかに、お友達はもう大丈夫ですよと言葉を続けた。しかし、ミナキは重い責任に押し潰されそうになっていた。
先ほどエンジュシティのポケモンセンターへ連絡があり、マツバの師匠である住職がアサギへ迎えに来ると言う。
ミナキはマツバのいる病室へ入る。白いベッドに寝かされているマツバの表情は穏やかだ。
「マツバ……」
すやすやと眠っているマツバの前髪に触れる。起きる気配は無い。
こうなってしまったのは、ミナキのせいだ。
マツバを喜ばせようしただけだ。けれど、結局彼を辛い目に合わせてしまったのは誰か。
マツバの笑顔が見たかった。
けれど、最後に見たあの辛そうな表情が瞼から離れない。
「私は、何て無力なんだろう」
大切な友人を喜ばせることも、守ることも出来ない。無力でちっぽけな存在である自分が、本当に許せなくて。
「マツバ、すまない……」
人前で決して泣かなかったミナキが、初めて涙を流した。
ぽたぽた床に落ちる水音が、静かな病室に響く。
「すまない……っく…」
身体を震わせながら、ミナキはひたすら涙を流すことしか出来なかった。
住職がアサギシティに着いたのは、もう日が沈みそうな頃だった。ミナキの予想に反して、怒鳴られはしなかった。――それは場所がポケモンセンターの前だったこともあるだろう。
その代わり、住職は静かに語りだす。
「マツバはな、元々身体が弱くて…環境が少しでも変わると体調を崩してしまうのだ」
ミナキは己の仕出かしたことの重大さを改めて知った。
「だからエンジュシティから外には出れぬ身体だったのだ、それを……そなたは」
返す言葉が見つからない。否、元々無かったのかも知れぬ。
「そなたがしたかったことは、儂にも何となくは分かるわい。だがな、それはマツバのことを思うなら一番して欲しくなかったことだ。頭の良いそなたなら分かるだろう」
キャモメの声と、波の音が聞こえる。ミナキは頭を上げることが出来ない。住職の顔を見るのが怖かった。
「そなたのこと、それなりには信用しておったが……もう二度とマツバに会いに来るな」
そう言われてしまうのは当然だ、とミナキは俯いたまま思う。
「申し訳、ございませんでした」
涙をぐっと堪えて、ミナキはくるりと背を向ける。
夕焼けが、ミナキの背中を照らしていた。
***
しかし、何故また会えるようになったのか…覚えていないと言うミナキにマツバは笑う。
久しぶりの昔話にテンションが上がったのはミナキだけではないらしい。
――勿論、泣いたことは内緒である。
「え、ミナキくん覚えてないの?ふふっ…」
マツバは飲みかけのビールを再び口にして、ミナキがつまみに用意したえびせんを頬張る。
本当にこの男は良く食べるな、と思いながらミナキは口を開いた。
「なんだ、君は覚えているのか?そんな奇妙な笑い方をしないでくれ」
「内緒だよ」
ふふ、とマツバはにっこりと笑う。
まさか、その半年後にエンジュにやってきてマツバと住職の前で土下座しながら、
「マツバくんは、私がずっと守ります!」
と言って、住職の度肝を抜かしたことを覚えていないなんて。
(僕がそのとき、ミナキくんのこと好きになったなんて)
恥ずかしくて、言えるはずが無いのだ。