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東から来ました

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 ピンク色のけばけばしいドアを開けて三号室に入ると、真っ昼間なのにも関わらず、男女の濃密なひと時の後と言おうか、男の情熱がほとばしった後の臭いが薄暗い室内にむわりと立ちこめている。臭いそのものにはなれているが他人のものとなると話は別。クリスは危うく咳をしそうになる。
 薄い壁越しに、隣室の女の裏返りつつも吐息のような声がよく聞こえている。ベッドも景気よくはねあがっているのが音で分かる。ただの雑役夫がその雰囲気に水を差したとなったら文字通りクビが飛んでしまうだろう。
 足音をたてないように部屋を横切り、カーテンとガラス窓を開ける。外の眩しさに目がくらみ、クリスは片手で目をかばった。
 目が光に慣れてくると、眼下に昼間のクァラナド歓楽街の日常が広がっている。道ばたのあちこちに横たわっている人々。真っ昼間からの泥酔者か、それとも諸事情がある死体なのかは判然としない。その傍らで懐やらを漁っている盗人。一人一人に縄張りがあり、それを侵した余所者はすぐに排除される。今クリスが見つめていた小さな盗人は、その余所者だったようだ。数人の男に囲まれた後、路地裏に引っぱりこまれていった。
 クリスは目を伏せて手元を見つめる。自分もいつ、あの小さな盗人と同じ運命をたどるかも分からない。
 乱れたベッドに目を向ける。光に慣れた目が、部屋の中を一層暗く見せた。
 激しい攻防で汗を吸いこみクシャクシャになったシーツをベッドからはぎ取り脇に抱える。それとどんな状況だったのか、壁にべっとりと色んなアレコレが付着している。匂いの根源はこれだった。持ってきたボロ布で拭き取っていく。客が出た後すぐ掃除しに来た甲斐があって、苦労することなく綺麗にすることができた。
 念入りに掃除しなくてはならないほどの部屋ではない。この建物はもう何年も使い古された安物件だ。エルデン一、ほこりにまみれて汚らしくてだらしがない妓楼郭とは、他に何を言おう、この『飛びこみ穴(ホール・ダイヴ)』の事だ。
 安い! 上手い! 速い! 
 まるで食事処のような(確かにある意味、食べたりはするが)キャッチコピーの『飛びこみ穴(ホール・ダイヴ)』は、最近流行りの店とは違って、客に高い酒を飲ませたり女の『御』奉仕にあれこれ値段をつけたりしない。本番が全て。ただそれだけ。故に安い。他のサービスにお金をかける必要がないのだ。そして店長には使い捨てにする女の、ツテ、もある。商品の仕入れに頭を悩ます必要がない。これもまた才能なのか。商品にしても何ら問題の起こらない、弱い女を店長は見繕ってくる。ある時には金で、またある時は暴力で。連れてこられた女は、年老いるか使い物にならなくなるまで金儲けの道具としてこき使われる。
 クリス・ブラッデイは、そんな妓楼郭の、人でなしの手先だ。
 『飛びこみ穴(ホール・ダイヴ)』の常連は、性欲を持て余しながらも強姦をする勇気のない小心者がほとんどだ。黒頭巾を被って顔を隠して通う客とか、特殊なプレイにはまって通いつめている善人面した優男とか、父親に連れられて大人になりに来たクリスより年下のガキとか、どいつもこいつも同じくらい人でなしだ。そしてクリスはそんな人でなしに顎で使われる使用人だ。
 ──くそ。
 悪態をつくが、このくそが自分自身であるのだから笑うしかない。
 クリスが部屋の掃除を終える頃になると、隣の様子に変化が現れた。
 だんだん女の声が歯切れのよいものに変わる。悲鳴の調子が1オクターブ上がった。ベッドが大きく揺れ床を景気よく叩いている。胸糞悪い。クリスは仕事に専念しようとボロ切れで床を拭きはじめた。拭きはじめて、床の掃除は終えている事を思い出した。
 男の気合の入ったうめき声が聞こえた。ひと際大きな悲鳴をあげて女が静かになる。倒れこむ音。静かになるベッド。しかしすぐにまた軋み始める。女がまた声をよがらせる。「いや」とか「だめぇ」とか、悲鳴の端々に拒む言葉も聞こえるが、それは逆に客のテンションを上昇させるだけのようだった。
 クリスの下腹部もまた硬くなっていた。何か拭き取る汚れを探して部屋を見渡すが、何もない。掃除は既に終えているのだ。予定より手早く済ませられた。
 ちょっとくらい、時間はある。
 ついにこらえきれず、クリスは外にさらして片手で素早くしごき、すぐに放った。溜まっていたストレスを吐きだした快感に浸る。我に返り、自分が汚した床に視線が行く。隣室の客はまだ女を鳴かせている。丈夫だ。比較してしまう。クリスは漏れるのが早い。自分で処理をしてもこの有様だ。
 女を抱きたい。よがらせてみたい。もっと気持ち良くなりたい。
 そのためには金がたりない。頭の中で想像して楽しめば安上がりだ。自分の女が作れれば一番だ。し放題だ。しかし出会いだなんて夢のまた夢だ。こんな街で春を迎えられるのは、悪人同士、狂った者同士、バカアホ同士、そしてよっぽどの善人同士。クリスのような中途半端な小汚い奴(そう、飽くまで『小』だ)には心を開ける人すらいない。生きるだけで精いっぱいだった。
 貯金はほんの小額。毎日稼いだ金を眺めては途方に暮れる。
 もう、このままどうしようもないのかも知れない。稼ごうと思わなくていいのなら、どれだけ生きるのが楽になることか。その日の飯だけ手に入れるだけで良い生活になる。気苦労が消えそうで何よりだ。
 かぎ慣れた臭いが鼻について、クリスは我に返った。放ったものがそのままであることを思い出した。クリスはボロ布でそれをふき取る。
 拭き取りながら、さきほどの妄想がまた脳裏をよぎった。
 ──何やってんだろ、おれ……。
 クリスは女を抱く以上に、切実にお金を必要としている。クリスは故郷に戻らなくてはいけないのだ。自分を捨てていった奴らを、殺しに戻る。
「そう、奴らを殺すんだ」
 口にすれば力が沸くはずなのに、虚しさだけが体にまとわりつく。背中を丸めたまま立ち上がり、ゆっくりとした動作で部屋の外に置いてある籠から、新しいシーツを取り出した。
 新しいシーツをベッドに張る。シワがないように、まるで新品のベッドに見えるように。クリスは自分のした仕事の成果を確認してから部屋を出ていった。次の部屋をきれいにしなくてはならない。

作品名:東から来ました 作家名:小豆龍