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東から来ました

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 妓楼の通路で、クリスは汚れたシーツを台車の籠の中に入れた。別の部屋に向かおうとした時だった。さきほど盛り上がっていた部屋から、客がドアを開けはなったところに出くわした。慌てて通路の脇にさけ頭を下げた。クリスには客の足しか見えなかったが、それだけでも大柄だと分かった。歩く度に木の床がきしみ、クリスの前で止まる。
 客がクリスの頭を軽く小突いた。
「灰皿」
 口の中でこもっているような発音だった。
 クリスは台車の引き出しから灰皿を取りし、客の口元に差し出す。使いまわして薄汚れた量産品。客はその上でマッチをすり、タバコに火をつけた。そのまま立ち去ろうとする客に、クリスは表情を消した真顔で声をかけた。
「お客様、当店の床は大変、燃えやすくなっております。失礼とは思いますが、この灰皿でおタバコの火を床におこぼしにならないよう、ご協力ください。灰皿は受付の者にお返しくさい」
 客は、ふぅ、と息をつき、面倒そうにうなずいた。煙がクリスの周りで渦を巻いた。
 立ち去る客を叩頭して見送ると、クリスはすぐにその客が使った部屋のドアを開けた。
 部屋では女がベッドの上でぐったりと横になっていた。クリスはその女を知っている。ナナだ。東洋風の顔立ちだがエルデン生まれのエルデン育ちだ。生家は第四区で飲食店を営んでいたが、強盗団に襲われコックだった婚約者と共に連れ去られた。人身売買され、今に至る。夫の行方は分からない。買ってきた店長がウキウキ顔で「これは掘り出し物ですよぉ」と語っていたのを思い出した。
 ナナはほとんど全裸だが、涙でぐちゃぐちゃになった顔と汗ばんだ体に色気は宿っていない。クリスはできるだけきれいなタオルを取り出して渡した。女はすすり泣きながらタオルを受け取った。
 クリスは黙って部屋の掃除を始めた。さっきの部屋とは違い、散らかっているのはベッドの周りだけだった。
「窓、開けるよ」
 クリスは返事を待たなかった。こもっていた熱気と外の新鮮な空気が入れ換わり、風がクリスと女をなでていく。
 クリスがベッドの周りの掃除に取りかかっていると、女の呟く声が耳に入って来た。呟かれているのは人名である。おそらく夫の名だろう。ジャック。ありふれた名前だ。客といる時は感じているような演技をし、相手の出すものにも喜んでくいつきもするだろうが、実際には、女にとって苦痛しかないことをクリスは知っている。ちゃんとした妓楼ならもう少し大事に女を扱って、客にも強気な態度をとれるのだろうが、あいにく『飛び込み穴(ホール・ダイヴ)』は「ちゃんとした」ところではない。裏の店、隠れた店。クァラナド歓楽街から外れた場所にあるのも「ちゃんとした」店でないことと無関係ではない。
「ナナさんの予定はもうないから、店長に見つからない内に帰室して。いるだけ無駄な仕事を押しつけられるよ」
 ナナが退室の準備を始める。
 クリスは手際よく掃除を終え次の部屋に向かった。
 掃除中のクリスが雇い主に呼び出されたのはそれから間もなくのことだった。

作品名:東から来ました 作家名:小豆龍