【マギ】光あるうちに光の中を歩め
政務官の職を拝領してからというもの、私の日常は八人将としてのそれよりも、文官の長としての色を濃くしていった。もちろん、その移行は決して順調にはゆかなかった。私の出自を知る者の多くは義憤から反対したし、一部には王の裁量を疑い、シンドリアから去る者も現れた。しかし、宮殿中に批判の声が渦巻いてもシンは――あの不世出の七海の覇王は、決して私の任官を取り消そうとはしなかった。当時の彼に、一体どのような意図があったのかは分からない。出来ることならば知りたいと思うけれど、奔放なあの人のことだから、きっとそんなのは取るに足らないというふうに装って、答えをねだる私を笑ってみせるのだろう。だが、私はそれを何よりも好ましく思う。そしてそんな彼の側にいられることを、何よりも幸いに思っている。
「ジャーファル殿もどうぞ」
大きく開いた薄絹の胸元を誇らしげにそらし、アルテミュラ国の外交長官は言った。淡く紗がかった指先は瑠璃色の水さしに添えられ、彼女はそれをわずかに傾けると、鮮やかな紅をひいた唇を歪める。我らが国王などは、彼女の微笑みをさして『眠れる女神』だとか『海の地母神』と述懐したが(彼の言葉を補足しておくと、弓なりになった柔らかな唇や、呼吸の度に揺れる豊満な胸元が特に好みなのだそうだ)、直接交渉にあたる政務官の立場からすれば、彼女ほど油断のならない政治家はいなかった。というのも、彼女は誰よりも愛国的自負が強く、そしてそれは時に敵国だけでなく、七海同盟の同志へも向けられたからだ。別にそれを非難するつもりはないし、彼女のような政治家を育てることこそ新興国であるシンドリアの急務と言えるのだろう。そう理解してはいるものの、私はどうも彼女とはそりが合わなかった。押しの強い調整術はもとより、あの意味ありげな微笑み(神秘的なそれは胸像の女神に似ていた)や、甘ったるい囁き声(まるでカーヌーンのなめらかな音色だった)にまでたじろいでしまうのだから我ながら情けない。あぁ、ここで一つ断っておきたいのは、私は彼女の外交長官としての手腕を嫌ってはいないし、絶対に嫉妬もしていないということだ。これは何というか……そう、不可抗力としか言いようがない。
「我が国自慢の葡萄酒ですのよ。麦わらに干した葡萄を熟成させたもので――あぁ、説明よりも実物ですわね、ほら遠慮なさらず」
「いえ、私はもう充分にいただきましたから……」
空の酒杯をきつく抱き込み、汗のにじむ額をぬぐう。その言葉どおり、私は既に充分すぎるほど最高級の葡萄酒を味わっていた。どちらかと言えば酒には強い方だが、流石にこれ以上飲んでは腑抜けになってしまう。そんなんじゃあシンに禁酒を進言した立場がないし、国で待っている部下たちにも申し開きが出来ない。しかしあの長官がそんな内情を察してくれるわけもなく、彼女は左頬を覆う羽根の刺青を歪めると、大げさに眉を曇らせて次のように言った。
「まぁ、ジャーファル殿は遠慮深いのですね。会議で積極的に発案されていた様子からは想像がつかないわ。けれどわたくし、王から七海同盟の方をたっぷり饗すよう申しつかっておりますの」
そこから先は言うなれば奇襲戦、今風に言えば電撃戦だった。彼女は目にも留まらぬ速さで私の酒杯をもぎ取ると、真っ赤な葡萄酒をたっぷりと注ぎ込み、白鳥のように品よく笑ってみせたのだ。握らされた酒杯の冷たさに手が震え、濃厚な酒の匂いに目までかすみ出す。とっさに愛想笑いを浮かべたけれど、どうも唇が引き攣っているような気がしてならない。ここは彼女が気づいていないことを祈ろう。
「明日には帰国されるんですもの、楽しんでいただかなくちゃ。宮殿は退屈だったでしょう? 味気ない会議だけじゃあアルテミュラの良さは分からなくってよ」
長官は亜麻色の髪を指先に巻きつけると、そっと丸みをおびた肩へと撫で付けた。それは襟元の羽根飾りを飛び越え、なだらかな乳房をたどって腰へと流れてゆく。ここにシンがいなくてよかったと思う。もしこんな所を彼に見られでもしたら、絶対にからかわれるだけではすまない。
「いえ、ご案内いただいた円形劇場は特に見事でしたよ。シンドバッド王も気に入っておりました」
赤く染まった酒杯に唇を押し付け、期待たっぷりの笑顔をたたえた長官に向き直る。ここで彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない、国交は国家承認を前提にすべきで、それは個人間においても変わりはしない。そう決意した私はとうとうと演目の感想を語り、アルテミュラ国のコンクリート技術を褒めそやした。しかし彼女はどんな追従にも小さく首をかしげるだけで、決して私の酒杯から視線を離さなかった。外交辞令が通じる相手じゃないのは知っていたが、それにしてもこの冷や汗は何だ、これじゃあ失笑ものじゃないか。私はつばを飲み込み、優雅に笑いさざめく賓客たちを見渡す。それにしても、どうして私なのだろうか? ここには強大な権力を持つ指導者がごまんといて、彼らは退屈な宴に添える花を探している。ならば饗すべきは彼らで、私であるわけがない。まったく、何とも理解に苦しむ人である。ところでシンの現状だが、予想通りというか何というか、彼は大広間の中央で各国の首脳たちと踊り子遊びに励んでいる。さっきまで深刻に議論を戦わせていたくせに、今や飲めや歌えの大騒ぎだ。あの様子からいって、この国を出るのは明日の昼以降になりそうだ。
(いい気なものだ……)
私はついに腹を決め、たっぷりと葡萄酒をたたえた酒杯をあおる。それはひりつく喉をすべり落ちると、きりきりと痛む胃を焼いて、体のすみずみまで染み渡っていった。
「……この葡萄酒は素晴らしい出来ですね。我が国でも酒造を試みておりますが、これほどまでのものには出会ったことがありません」
焼けつく喉をさすり、微笑みをたたえる長官に言う。すると彼女は華やかな口元をほころばせ、再び瑠璃色の水さしを傾けてみせた。
「気に入ってくださって嬉しいわ。まだたっぷりありますからね」
あぁもう、こうなったらどうにでもなれだ。明日はどうせあの人も使い物にはならない、だったらそれが一人増えても大した問題じゃないはずだ。幸い部下たちには最高の教育を施してある。きっと彼らは給金以上の働きをしてくれるだろう。
「では、もう一杯いただきましょう」
私は空の酒杯を差し出し、優美なバルビトスの独奏に耳をすませた。それは蔓がもつれ合うように縦横無尽に伸び、アウロスとパンパイプの旋律を巻き込んで広間じゅうを満たす。燭台の光が震え、人々の足元を風がさらってゆく。ほの明かりを吸い込んだシャンデリアが星をまき、辺りに吟遊詩人の歌う宮廷愛が再現される。それはこの上なく幻想的な光景だった。かつて大国の属州となり、その文化を花開かせた国にふさわしい夜だ。
「ジャーファル殿もどうぞ」
大きく開いた薄絹の胸元を誇らしげにそらし、アルテミュラ国の外交長官は言った。淡く紗がかった指先は瑠璃色の水さしに添えられ、彼女はそれをわずかに傾けると、鮮やかな紅をひいた唇を歪める。我らが国王などは、彼女の微笑みをさして『眠れる女神』だとか『海の地母神』と述懐したが(彼の言葉を補足しておくと、弓なりになった柔らかな唇や、呼吸の度に揺れる豊満な胸元が特に好みなのだそうだ)、直接交渉にあたる政務官の立場からすれば、彼女ほど油断のならない政治家はいなかった。というのも、彼女は誰よりも愛国的自負が強く、そしてそれは時に敵国だけでなく、七海同盟の同志へも向けられたからだ。別にそれを非難するつもりはないし、彼女のような政治家を育てることこそ新興国であるシンドリアの急務と言えるのだろう。そう理解してはいるものの、私はどうも彼女とはそりが合わなかった。押しの強い調整術はもとより、あの意味ありげな微笑み(神秘的なそれは胸像の女神に似ていた)や、甘ったるい囁き声(まるでカーヌーンのなめらかな音色だった)にまでたじろいでしまうのだから我ながら情けない。あぁ、ここで一つ断っておきたいのは、私は彼女の外交長官としての手腕を嫌ってはいないし、絶対に嫉妬もしていないということだ。これは何というか……そう、不可抗力としか言いようがない。
「我が国自慢の葡萄酒ですのよ。麦わらに干した葡萄を熟成させたもので――あぁ、説明よりも実物ですわね、ほら遠慮なさらず」
「いえ、私はもう充分にいただきましたから……」
空の酒杯をきつく抱き込み、汗のにじむ額をぬぐう。その言葉どおり、私は既に充分すぎるほど最高級の葡萄酒を味わっていた。どちらかと言えば酒には強い方だが、流石にこれ以上飲んでは腑抜けになってしまう。そんなんじゃあシンに禁酒を進言した立場がないし、国で待っている部下たちにも申し開きが出来ない。しかしあの長官がそんな内情を察してくれるわけもなく、彼女は左頬を覆う羽根の刺青を歪めると、大げさに眉を曇らせて次のように言った。
「まぁ、ジャーファル殿は遠慮深いのですね。会議で積極的に発案されていた様子からは想像がつかないわ。けれどわたくし、王から七海同盟の方をたっぷり饗すよう申しつかっておりますの」
そこから先は言うなれば奇襲戦、今風に言えば電撃戦だった。彼女は目にも留まらぬ速さで私の酒杯をもぎ取ると、真っ赤な葡萄酒をたっぷりと注ぎ込み、白鳥のように品よく笑ってみせたのだ。握らされた酒杯の冷たさに手が震え、濃厚な酒の匂いに目までかすみ出す。とっさに愛想笑いを浮かべたけれど、どうも唇が引き攣っているような気がしてならない。ここは彼女が気づいていないことを祈ろう。
「明日には帰国されるんですもの、楽しんでいただかなくちゃ。宮殿は退屈だったでしょう? 味気ない会議だけじゃあアルテミュラの良さは分からなくってよ」
長官は亜麻色の髪を指先に巻きつけると、そっと丸みをおびた肩へと撫で付けた。それは襟元の羽根飾りを飛び越え、なだらかな乳房をたどって腰へと流れてゆく。ここにシンがいなくてよかったと思う。もしこんな所を彼に見られでもしたら、絶対にからかわれるだけではすまない。
「いえ、ご案内いただいた円形劇場は特に見事でしたよ。シンドバッド王も気に入っておりました」
赤く染まった酒杯に唇を押し付け、期待たっぷりの笑顔をたたえた長官に向き直る。ここで彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない、国交は国家承認を前提にすべきで、それは個人間においても変わりはしない。そう決意した私はとうとうと演目の感想を語り、アルテミュラ国のコンクリート技術を褒めそやした。しかし彼女はどんな追従にも小さく首をかしげるだけで、決して私の酒杯から視線を離さなかった。外交辞令が通じる相手じゃないのは知っていたが、それにしてもこの冷や汗は何だ、これじゃあ失笑ものじゃないか。私はつばを飲み込み、優雅に笑いさざめく賓客たちを見渡す。それにしても、どうして私なのだろうか? ここには強大な権力を持つ指導者がごまんといて、彼らは退屈な宴に添える花を探している。ならば饗すべきは彼らで、私であるわけがない。まったく、何とも理解に苦しむ人である。ところでシンの現状だが、予想通りというか何というか、彼は大広間の中央で各国の首脳たちと踊り子遊びに励んでいる。さっきまで深刻に議論を戦わせていたくせに、今や飲めや歌えの大騒ぎだ。あの様子からいって、この国を出るのは明日の昼以降になりそうだ。
(いい気なものだ……)
私はついに腹を決め、たっぷりと葡萄酒をたたえた酒杯をあおる。それはひりつく喉をすべり落ちると、きりきりと痛む胃を焼いて、体のすみずみまで染み渡っていった。
「……この葡萄酒は素晴らしい出来ですね。我が国でも酒造を試みておりますが、これほどまでのものには出会ったことがありません」
焼けつく喉をさすり、微笑みをたたえる長官に言う。すると彼女は華やかな口元をほころばせ、再び瑠璃色の水さしを傾けてみせた。
「気に入ってくださって嬉しいわ。まだたっぷりありますからね」
あぁもう、こうなったらどうにでもなれだ。明日はどうせあの人も使い物にはならない、だったらそれが一人増えても大した問題じゃないはずだ。幸い部下たちには最高の教育を施してある。きっと彼らは給金以上の働きをしてくれるだろう。
「では、もう一杯いただきましょう」
私は空の酒杯を差し出し、優美なバルビトスの独奏に耳をすませた。それは蔓がもつれ合うように縦横無尽に伸び、アウロスとパンパイプの旋律を巻き込んで広間じゅうを満たす。燭台の光が震え、人々の足元を風がさらってゆく。ほの明かりを吸い込んだシャンデリアが星をまき、辺りに吟遊詩人の歌う宮廷愛が再現される。それはこの上なく幻想的な光景だった。かつて大国の属州となり、その文化を花開かせた国にふさわしい夜だ。
作品名:【マギ】光あるうちに光の中を歩め 作家名:時緒