【マギ】光あるうちに光の中を歩め
肉を食べれば血が濁って敵に気取られてしまう――暗殺を生業にしていた頃、私はそう教え込まれた。日ごと与えられる残飯はひどいものだったが、その点だけは強く守られていた。彼は私にそんな仕事させないと言った、けれど私はこの人ためならば、いくらでも境界線を越えることが出来る。
「まぁ、それも無駄な努力だよ。お前、気づいてないだろう?」
振り向きざまにシンが言う。細かな雫に覆われた髪は額に張り付き、緩めた首もとからは酒で赤らんだ肌が覗いている。彼はまたたく間に距離を縮め、私の腕を引く。私は彼にされるがまま、たくましい胸に顔を押し付ける。葡萄酒のそれに混じって麝香の香りがする。親密な声に体が震える。濡れた吐息が首筋をなぞる。恐る恐る顔を上げると、そこには熱っぽい金の瞳がある。
「え、気づくって、何、ですか」
くちづけまでの時間が欲しくて、私はわざと尋ねる。けれど彼は待ってくれない。
「俺と寝た次の日のお前が、俺の匂いをさせて歩いてることだよ」
唇が重なり、濡れた舌が入り込んで来る。いきなりのそれに腰を引くが、シンは許してくれない。「こんな霧だ、誰も見ちゃいないさ」弱々しく胸を押し返す私に彼が言う。舌が歯列をなぞり、下唇に甘く歯を立てる。どうしよう、気持ちいい、頭がおかしくなる。
「シン、離して……」
腰をひねり、震える声で言う。けれどシンはそれをすっかり無視すると、角度を変えて舌をねじ込んで来た。
「んっ……んんっ!」
彼の舌はまるで、それそのものが意志を持った生き物みたいだった。私は必死にそれを吸い上げ、もっと、もっととねだる。召使いが通りかかるかもしれないと思うけれど、彼の舌が上顎をなぞるとそんなのどうでもよくなってしまう。唾液をすする音にまぶたが震え、目の奥がちかちかする。遠くで駱駝の足音がする。はやく離れなければと思うのに、痺れた体では上手くいかない。小さくまばたきをして、シンの顔を盗み見る。彼の目元は酒のせいか赤く染まっている。不思議な優越感に体が震える。唾液が顎をつたい、頬に添えられた彼の掌を汚す。
「残念、時間切れだ。あぁ、物欲しげな顔をしないでくれ、ジャーファル。決意が揺らぐじゃないか」
彼はそう言ってくちづけを切り上げると、まるで子供をあやすみたいに私の頬をぬぐってみせた。茶化した台詞に頬が熱くなる。そんな、私はやめてくれって言ったじゃないか、たしかに最後は夢中になってたけれど、あれはあなたがそうさせたからで、あぁ駄目だ、冷静に考えられない。
「続きは部屋に戻ってからだな」
「は、はやく行ってください!」
違う、そうじゃない、これじゃあねだってるみたいだ。そう気づいた頃には時既に遅し、彼は意味ありげな視線を寄越すと、調子外れの口笛をと共に歩き出した。
「そ、そういう意味じゃありませんからね!」
分かってるよ、と右手が上がる。
頬が熱い。恥ずかしいのに、なのにどうして口元が緩むのだろう。私は、私の知らないうちに変わってしまったんだろうか? 移り香に気づかないくらいゆっくりと、あの人が変えてくれたのだろうか? 薄暗いあの頃の思い出は、四角い空ばかり眺めていた頃の私は、もう塗り替えられているのだろうか?
そろそろと息を吐き、いまだ眠りの中にある庭園を歩く。シンは振り返らずに進んでゆく。遠くでマスルールが手を振っている。しずくが伝う掌を風がすり抜けてゆく。朝はもうそこまで来ている。
私は祈るような気持ちで彼を見つめる。
あぁシン、私は、あなたのことが。
作品名:【マギ】光あるうちに光の中を歩め 作家名:時緒