難攻不落の男
そういえば先にとにかく中尉に話をしたらどうかと、弟に言われたことを。
「…あ」
そうだった、中尉だ、と踵を返そうとした時、唐突にドアが中から開いた。
「…!」
あまりのことに驚いて足をもつれさせたが、危なげなくしっかりした腕に支えられ、エドワードは、まじまじと相手の顔を見上げる。
「…おはよう、鋼の」
ロイは笑っても怒ってもいなかったが、瞬きもせずじっと見つめてくる目はとても強くて、思わず逸らしてしまいたくなった。心臓がとても平静ではいられない。
「…鋼の?」
「………はよ、…大佐…」
「…。まさかとは思うが二日酔いか?」
「…は?」
いくらなんでも甘い果実酒の一杯で二日酔いなんていうことはない。しかも割りものだ。
だが、そんな言い訳は、すぐに眠気に襲われロイの腕の中にくたりと落っこちたエドワードにいえたものではないだろう。
現にロイは眉をひそめて、掴んだままの手をぐいと引っ張り寄せてきた。エドワードが悲鳴を上げる隙もあらばこそ。彼は、さらに力をこめて、まるで小さな子供にでもするようにエドワードを抱き上げたのだ。折った腕に乗せるような格好で抱き上げられ、エドワードは絶句する。
だがあくまでロイの顔は真剣だった。
「た、…たい、さ」
「よく顔を見せて」
「………」
しばらく観察するようにじっと子供の顔をのぞきこんでいたロイだが、酒気がないとようやく覚ると、ほっとしたように長めの息を吐いた。
そうして、ゆっくりとエドワードを床に下ろす。
「…さて、鋼の。…では、今日の分を始め…」
何事もなかったかのように執務室に戻り、話を切り替えたロイの背中、その上着の裾を気付いたらエドワードは掴んでいた。ロイが、何事か、という顔で背後を振り向く。
「…鋼の?」
なんだか決意に満ちたような顔でじっと見上げる子供の妙な迫力に、ロイは目を丸くした。しかし、見詰め合うこと暫し、とりあえずドアを開けたまま廊下で見詰め合うこともないな、と判断し、エドワードを室内へ引っ張り入れた後、ドアを静かに閉める。
「…鋼の?」
腰を屈めて視線を近づければ、子供は目をきゅうっと細めた。わずかに染まった目元などを見ると、なんだかロイにもどうしたらいいのかわからない。
「…たいさ」
「なんだい」
瞬きもせず見つめていると、先に目を逸らしたのは引きとめた方だった。だが引き止められた方はけして怒りはしなかった。彼は、ただじっとエドワードを見ていた。
「……なんでもない」
やがてエドワードは蚊の鳴くような声で答えた。ロイはどうしようかと思いながら、何も言わずに小さな頭を撫でた。
「…なに」
「ん?」
まるで小さな子供のような扱いが不満なのか、口と目を尖らせてエドワードが睨みつけてきた。だが目元が赤く染まっていてはあまり怖くはない。
「…『傾国』というのを知っているかい、鋼の」
金色の、きらきらと輝く瞳を真っ直ぐに見つめながらロイはひそやかな声で囁いた。
「…けいこく…?」
「昔々、東方の国の王が、美女の色香に血迷って国を滅ぼしたという。そこから転じて、国を、城を傾けるほどの美女を『傾国』というんだ」
「………?」
ロイは何を考えているのかわからない顔でエドワードを見ていた。
エドワードはといえば、動くことも目を逸らすことも今度こそ出来ずに、そんなロイをただ見返していた。
と、ごく自然な動作で、ロイが腕を伸ばした。なんだろうかと見ていたエドワードは、けして強引ではないが有無を言わさぬ仕種で引き寄せられ、そして頭のてっぺんにまごうことなきキスを落とされる。エドワードの頭は真っ白になった。
「――いっそ、滅ぼされてみたいものだよ」
意味深な囁きは背筋がぞくりとするようななまめかしい響きをもっていて、エドワードは瞬時に頬を染めた。胸がざわざわして気持ち悪いくらいだった。
とうとうぎゅっと目を瞑り、何の考えもなく、目の前のロイの軍服の上着を握り締めた。
「……。さて」
どれくらいそうしていただろうか。時間にしたら、恐らくそう長いものではないが、エドワードにとっては恐ろしく長く感じる時間だった。
ロイは何事もなかったかのように平静な声を出し、不自然でない動きでエドワードの体をそっと離し、宥めるように軽く、頭をぽんぽんとたたいた。そうして、先に立って歩く。
「昨日の続きだ。今日は昼前から視察なんだ」
「え…あ、あ、うん」
浮ついたような声を出してしまう自分が恥ずかしい、と思いながら、エドワードもまた何事もなかったふりを一所懸命に装う。急に抱き上げたり、頭にとはいえキスしてきたりしたロイの行動を咎めるべきだということを失念しているあたり、初心というべきか鈍いというべきなのか。
とりあえず、手を出してもらった子はいない、なんていうのが根も葉もない嘘だと自分が証明していることにさっぱり気付いていないエドワードだった。
さすがに難攻不落を謳われる男の方がまだ上手らしい。
――いつまでそれが続くかは、わからないけれど。