帝国の薔薇
第一幕 ばらと騎士と
アメストリスの都、セントラルシティは、王城――もとい帝城を中心に広がっていた。端に行くほど人がまばらになり、城郭付近ともなると治安はあまりよろしくなくなる。それでもさすがに首都だけあって、悪質な犯罪が横行しているということはないが。今上は、自分の足元でそんなことが起こるのを快くは思わない。むしろ過激な性質で知られる彼の女帝のことだ、愛玩動物として庭に放し飼いにしていると実しやかに囁かれる雪豹を放つくらいの事はするだろう。
なに、ここもまた私の庭だ、何か問題が?
――それくらいは、眉一つも動かさずに言うのは想像に難くない。 そしていわゆる無頼者とは、力関係というごくシンプルな掟に対して忠実なものである。何しろそれが身を守る術となるのだから。
…だから、だったともいえるだろう。その少女が、明らかにその界隈とはそぐわない空気の少女が、そんな場所に供のひとりもつけずにやってきても、とりあえず今のところ無事で済んでいるのは。
長い金髪を高い位置で結って、目にも鮮やかな真っ赤な上着は近衛の印。細い腰に佩いたサーベルはどう考えても高価なもので、けれど、装飾が抑え目であることから、お飾りだけでもなさそうだった。
その見た目だけで、彼女が誰であるかわからぬ者などそうそういない。少なくともアメストリスの国民なら誰もが、というくらいに、知られた少女だ。
金髪に金の目、幼いながらも近衛師団を預けられた少女。女帝から下賜された彼女だけに与えられた紋章、その許された花は気高き薔薇。それにちなんで、彼女は「薔薇の姫」とも呼ばれている。もっとも、本人はその称号を嫌っているらしいというのがもっぱらの噂だったが。
とにかく、その少女、エドワード・エルリックは、きりりと目を吊り上げると、がんがん、と聞いていた場所の戸を叩いた。
「いるか、ロイ・マスタング!出てこい!」
朝も早くから迷惑といえば迷惑である。
しかし彼女の場合、権力の後ろ盾があってそうしているのではなく、単純に自分がしたいことを我慢せずしているだけで、それを考えるとより一層迷惑だった。
酒場兼宿屋の戸の向こうは静まり返っていて、業を煮やした短気な少女が再び木戸をたたこうとした時、二階の窓が開いた。
「…近所迷惑だぞ」
欠伸をかみ殺しながら顔を出したのは、まだ若そうな男である。恐らく顔立ちは整っているのだが、眠そうなその、不機嫌をはらんだ顔と、寝癖がついた頭ではいまいちそうも見えない。
どうしたわけだか上半身裸で窓から身を乗り出した男に、少女が一瞬たじろいで、わずかに目を泳がせた。しかしすぐにはっとして、柳眉をつりあげる。寝ぼけた顔の男はその一連の仕種を目で追い、微かに笑った。
腕を組んで窓枠に寄りかかった男に、少女は腰に手を当て殊更声を荒げる。その白い頬は微かに色づいていて初々しい。
「貴様!初日から来ないというのはどういうことなんだ!」
「なにが?」
「なにが、って…」
少女はぐ、と言葉に詰まった。まさかそんなに堂々と開き直られるとは思ってもみなかったので。
「ああ、そういえば勅命だったか。殿下のお守りは」
「…っ!無礼なことを!」
今度はれっきとした怒りで少女の頬が紅潮する。それに、マスタングと呼ばれた男は喉奥で笑いながらわずかに体を揺らす。
「雌虎陛下が何を考えておいでかと思ったが、なるほどね。わかった気がするな」
彼はさらりと呟いて、絶句しているエドワードを見つめ、笑いを消して短く告げた。
「そこで待っていろ。すぐに行く」
命じられることに慣れていない少女は、あまりのことにぽかんと口を開け…、勝手な男の姿が部屋の奥に消えた瞬間、怒りのあまり路面を蹴りつけた。軍靴が立てた高い音は、青空に吸い込まれていった。
十五の誕生日と共に、エドワードは正式に近衛師団の師団長となった。
十二の誕生日の祝いを城で盛大に開き、その場で女帝から後継者へと指名されてから三年後の冬のことだ。三年間はエドワードにとって地獄のような教育と訓練の日々だったが、それでも、ごく限られた人としか接しないで済んだから良かった。しみじみとそれに気づかされたのは、十五の誕生日の祝いの席でのこと。
当初は、エドワードにもドレスが誂えられていた。既に版図を大いに広げていたアメストリスの次期女帝として相応しいものが。
けれども、国内外を問わない高官、貴族の執拗なアプローチに悲鳴を上げるのはすぐで、不意に中座した彼女は、近衛の軍服に着替えて再度現われるという勝手をしでかした。女中頭や乳母、乳兄弟、傅役、とにかく周りの人間にはことごとく叱られたその振る舞いは、結局女帝には盛大に面白がられ、事なきを得た。どうだ、おまえも口説かれる面倒さがわかったか、なんて女帝はふざけていたが、ぐったりしたエドワードは何度も頷くことしか出来なかった。どうやら自分は男は苦手らしい、と思いながら。
とはいえ、そんな手は何度も使えるものではない。エドワードは、男の中にいたはずなのだが、…無骨な軍人しか知らないので、文人というか、貴族や高官の流麗な雰囲気には馴染めないでいて、…そこで女帝が白羽の矢を立てたのは、先日まで辺境で国境警備に当たっていたマスタングという男だった。女帝としても、わがままを許すのは一度きり、ということだろう。
聞けば階級はそれなりに高いが、何しろ辺境にいた男だ。中央育ちのエドワードは彼のことを知らなかった。また、他の近衛の者に尋ねても、なぜか奥歯に物が挟まったような様子で、誰も彼のことを教えてくれない。いぶかしくは思ったものの、既に彼が自分の補佐につくのは女帝の鶴の一声で決まったことだった。あの女帝が選ぶくらいだから、一筋縄でいく人物ではないのだろうが…、
「…確かにとんでもなかったよ」
鞍の前に子供のように載せられ、屈辱に唇をかみ締めながらエドワードは吐き捨てた。
「なんだ?どうかしたか、姫」
「姫っていうな!」
「そんなことを言っても姫は姫だろう、殿下」
「…そっちのほうがいい」
頭上から零れてきた低い声。背中に感じるしっかりとした胸板も、両脇から伸びて手綱を握る手の、節が立った荒いところも、ひどく落ち着かない気持ちにさせた。
「まあどちらでもいいが。姫殿下。そんなに私に会いたかったのか?」
「違う!ふざけるな!」
「っと、ほら、暴れるんじゃない」
思わず振り返って怒鳴ろうとしたら、不安定な鞍の上とあって、バランスを崩しそうになったエドワードをロイが支えて溜息をこぼす。
「し、…示しが!つかないだろうが!陛下がおまえを指名したのに、おまえが来ないなんて!」
ロイはぱちりと瞬きした。それから、なんだ、と軽く笑う。
「そんなことのために、わざわざお出迎えに?」
気に入らないなら手打ちにでもなんでもできる立場にある次期皇太子が、そんな理由で初出勤を適当にさぼっていた男を出迎えに。まるで子供だ、とロイは内心で笑った。けれど姫と呼ばれるのを嫌う姫君は、そんなことじゃない、と固い声で前を向きながら答えた。