帝国の薔薇
「おまえが来なかったら、それは陛下を軽んじることになるし、オレがそうさせたんだとしたら、オレの力量不足だ。これ以上オレは舐められるわけにいかないんだ」
正に薔薇色の頬をして、赤い唇が紡ぐのは、その容姿には似合わぬ乱暴な言葉遣いだった。いや、容姿に似合わぬというよりは、その素性に見合わないといった方が正しいだろうか。
ロイは瞬きして、ストレートに言った姫のつむじを見つめる。それから馬の腹を蹴って、速度を上げる。
「それは悪かった。本当に」
「…マスタング?」
少しだけ殊勝な物言いになったロイを、エドワードが無理に振り返る。その目に視線を合わせて、ロイは小さく笑った。
「姫殿下は努力家なんだな」
「―――」
にこりと笑えば、エドワードはぽかんとした顔をした後、目元にぱっと朱を散らして慌てて前を向いた。その取り繕うことのない様子に、ロイは声もなく笑う。
「…姫って、いうな」
ぽつりと、恐らく口を尖らせて言っているのであろう新しい主に、ロイは少しだけ先が楽しみになってきた。
アメストリスの軍組織とは、女帝が元帥を兼ね、その下は直属軍と地方軍とで構成されている。地方軍はそれぞれの地域の長官の下に組織されており、東西南北の四つの地方に存在する。また、女帝直下の軍の中には将軍位を兼ねる皇太子直属の近衛師団が存在する。近衛師団を除く中央軍には三軍まで組織されており、主として一軍が外征、二軍が帝都を中心とした防衛、そして三軍は市中の治安維持を目的とし、その半分は予備役だった。
ロイ・マスタングはそれまで東方軍に在籍していた。しかし元は中央の生まれであり、その地に彼がいたのは、彼の後見が東方軍の長官だったからにつきる。しかし、だからといって彼の経歴は後見あってのものというわけでもなく、それは、上とぶつかって辺境警備に飛ばされたという事象からも明らかだった。もしも本当に後ろ盾がそんなにも大きかったなら、そういう飛ばされ方をすることはなかっただろうから。
それでも彼は、辺境警備においてきちんと戦績を上げていた。実際、現場には、辺境警備などやらせておくには勿体無い、という意見も多かった。勿論本人にも多少の野心はあったのであろうが、自分から口に出して何か語ることはない男だった。一見人当たりはいいのだが、警戒心はかなり強いのだろう。
そんな彼が、一転、皇太子の補佐に選ばれた。異例の大抜擢である。女帝がなぜそんな辺境警備の男など知っているのか、自らが選んだ後継者の姫に近づかせる意図は何か、と帝都では当然憶測が飛んだ。しかし憶測は憶測でしかなく、また勇猛の女帝にそんなことを尋ねる馬鹿がいるわけもなく、真相は明らかになっていない。
昼の訓練の前には間に合って、エドワードは、後ろに新しい補佐を従えて颯爽と回廊を歩いていた。磨き上げられた廊下は美しく、エドワードの赤い衣装も、金色の髪も綺麗に映し出されている。
それを、斜め後ろを歩く男が何を言うでもなく見ていた。今はさすがに彼も衣服を改めているのだが、赤はあまり彼には似合わないようだった。幸いにして、元が良いのでそこまで際立って変ということもなかったが。
彼女が回廊を歩けば、使用人達がけして愛想だけでない表情で立ち止まって礼を捧げる。彼女自身もそれらにいちいち応えており、なるほどよほど好かれているのだな、とロイは思った。
しかし今日は見慣れぬ若い男を従えているとあって、中には怪訝そうな顔を浮かべている者もいる。
「…人気者だな、姫」
「…姫っていうな、って言ってるだろ。…師団長殿下と呼べ」
「はいはい、殿下」
「おまえな…!」
ちょうど人が回廊にいなかったのもあり、エドワードはくるりと振り向き、腰に手を当てて勢い良く申し付ける。
「だから、オレは、姫、じゃないの!」
わかったか、と偉そうに言う姿はなんとも子供じみていて、ロイはくすりと笑い、承知した、殿下、と部下とも思えぬ尊大な調子で返した後、金髪をくしゃくしゃとかきまぜたのだった。
やめろ!縮む!と顔を赤くするエドワードは、確かに「姫君」らしくはなかった。
けれどもどんな姫君よりもきっと可愛らしかったに違いない。少女らしい、という意味で。
練兵場で師団を睥睨する姿は、小さいながらも確かに、何某かの威厳のようなものを備えているように見え、ロイは目を細めた。自分の胸に頭がつこうかどうか、という小柄は、肉感的な肢体を誇る大柄な女帝とはあまり似ていなかったが、それでも何か言葉では言いがたいものを持っているのは一緒だった。
軍の近衛といえばいわば選良であり、自尊心は他の兵に比べて随分と高い。けれども彼らの誰一人として、この小さな姫君に不満を持っている様子はなかった。皆がエドワードの一挙手一投足をじっと見守っている。恐らく彼らは、エドワードが死ねといえば躊躇いもせず死地へ向かうのだろう。
たいしたものだ、とロイは凪いだ胸のうちでそう考えた。
「――今日からわたしの副官についたマスタングだ」
と、どうやら自分のことに話が及んでいたらしい。聞いていなかったロイはぱちりと瞬きしてやり過ごし、こちらを見上げた金色の瞳を見返す。その後、堂々たる様で一歩前に出る。途端に集まる視線に、全く昂揚するものがなかったとはいえない。しかし、とはいえ、興奮して舞い上がるようなことは彼はしなかった。
「ロイ・マスタングだ。よろしく頼む」
彼はよく通る耳障りの良い声で至極簡潔にそれだけを述べると、整列する軍隊の端から端までをゆっくりと見回した。そして、本当にそれだけで終わらせて、合図のように主を振り返る。
小さな主はといえば、何度もその長い、金色の睫を瞬かせて、少し驚いているようだった。ロイの行いは彼女の予想を随分と超えていたのだろうし、また、ロイのような人間は彼女の周りにいたことがなかったのだから、当然と言えないこともない。
気負うことなく、けれど投げやりなわけでもなく、ただ堂々と、淡々と「自分」を多くの人間に示した男を、エドワードはじっと見上げた。
「殿下?」
ほんの少しからかいを載せて呼びかければ、か、とごく微かなものではあったけれど、エドワードの頬が染まった。それに笑う代わりに目だけを細めて、ロイは軽く腰を屈めて主を見つめる。
「…っ」
その視線から逃れるように彼女は頭を振って、再び毅然とした顔を作ると兵士達に向き直る。それを、ロイは面白そうに見つめていた。
今は特に差し迫って緊張状態にあるわけではなく、となれば、軍隊の一日はほぼすべてが訓練に当てられる。上級の官ともなればその他に仕事もあろうが、そんなものはごく一部の話でしかない。
となれば、一日のほとんどの予定が定められた通りに動いていくのであり、一日の終わりには軽く一杯引っ掛けていこうかという者も多い。
そしてそうやってにぎわう酒場の一角に、その男は何食わぬ顔をして座っていた。手にした杯は赤銅のそれで、この国でその杯に入っている酒といえば強い蒸留酒を示していたから、特に顔に出すこともなく淡々と酒をあおっている男の酒量は相当なものだと知れた。