バラの名前
『下の坂のローソン通り過ぎたあたりで降りだして。急いだけど』
ルルーシュは、ずぶ濡れの身体で玄関の扉を一歩入ったところに立ち止まり、苦笑してジノを見上げた。ルルーシュの足跡と彼自身を伝って落ちる滴とで大理石の床には小さな水たまりができていた。ルルーシュは渋面で見下ろしてくるジノから、ふと視線を外して小さなため息をついて呟く。
『あまり意味がなかったな』
『先輩、体力ないもんね』
その小さな声を聞き洩らさずジノは笑ってそう言ってやり、早く上って、とつけ加えた。そしてバスルームへとむかい、バスタオルを取って再び玄関に戻った。やはり部屋には上がらず、そこに立ったままだったルルーシュの肩を、ジノはバスタオルでくるんだ。
『早く上って。あと、ちゃんと拭かないとカゼひくから』
『でもこのままだと床が濡れる』
『そんな格好で来ておいて、今さらでしょ』
確かにその通りだ、そうぼやいてルルーシュは靴を脱ぎ、濡れて体温を奪われたつま先をフローリングの床の上にのせた。そうして腕を組んで両肘を抱えるようにして頼りない視線をジノに向けた。ジノはルルーシュをバスルームに追いやり、ルルーシュでも着れそうなサイズの服を適当にクローゼットから見繕ってタオルと一緒に持って戻った。シャワーを浴びているかバスタブに湯を張っているかと思ったその予想は外れ、ルルーシュは濡れた服を中途半端に脱いだまま、ぼんやりと中空を見ていた。
『ホントにカゼひいて寝込んでも知りませんよ』
かける言葉は自然と咎めるような響きを帯びる。ルルーシュはわずかに身じろいで、ゆっくりとジノへと振り向き、ふと真剣そうな顔で呟いた。
『やっぱり、来ない方がよかったか』
ジノはそれを聞こえなかったことにして、手に持っていた服とタオルをルルーシュに押し付けた。
『シャワー浴びて、温まった方がいいですよ』
『そこまで寒くはないから平気だ。……着替え、借りる』
ルルーシュはタオルを被ったまま、笑って言う。そして少し間を置いてさらに続ける。
『なァ』
『うん?どうかしましたか』
『今、落ちこんでるんだ』
いつもと変わらない穏やかな声だった。
『そんな傷心のオレを、慰めてやろうと思わないか?』
『思わないですよ、そんなの』
ジノは笑ってそう言い、ルルーシュに背を向ける。そもそも、ジノとルルーシュの間にあるのはそんなやさしい関係ではないはずだった。ジノは脱ぎ落とされたルルーシュのずぶ濡れの服を乾燥機に放り込んでスイッチを入れた。ふと気になって横目でルルーシュを覗えば、頭に被ったタオルの裾を掴むその指先が微かに震えていた。なんとも言いがたい罪悪感が急に胸にせり上がった。しかし、かけるべき言葉は見当たらず、ジノは、のろのろとサイズの合わない服を身につけているルルーシュを置いてバスルームを出た。……なにか温かい飲み物くらい出してもバチはあたらないだろう、そう、自分に言い訳して。
ジノが豆を挽き終えてコーヒーメーカーに水をいれたところでルルーシュはリビングにやってきた。そして飾り棚の上に置かれた深い緑色のミニカーをつまみあげた。精巧に作られたそれは実際の車を正確に縮小して作られている。しかしさすがに動力源は載せてはおらず、動くことはない。このミニカーにされた車の実物を、ジノが好きだということをどこで知ったのかは分からないが、以前に付き合っていた女性から誕生日プレゼントとして贈られたものだった。
『先輩、車好きでしたっけ?』
ジノは熱い湯気のたちのぼるマグカップを二つ持って、その一つをルルーシュに差し出した。
『いや。……勝手に触ってすまない』
ルルーシュは、手に持っていた緑色の車を元あった場所に戻してジノの手からカップを受け取り、床に置かれたのクッションの上に座った。
『大切なものだとは、知らなかった』
ルルーシュは自嘲まじりに柔らかくぼやいて、カップのふちにくちびるを押し当てた。
『大切……っていうワケじゃないんですけど』
『大切だから、いつも見えるところに飾っておいてるんじゃないのか?』
そう言ってルルーシュはコーヒーをひとくち口に含んだが、熱さに負けて湯気に息を吹きかける。
『先輩は、大切なものはしまって隠しておくタイプですよね』
『そう、だな』
『大切じゃないものには冷たいのにね』
たとえば、私のこととか。ジノは心の中だけでそうつけたし、柔らかなソファの背もたれに体をうずめた。
『そんなことはない』
ルルーシュは再び笑った。いつもと変わらない、その穏やかな微苦笑がわずかに空気を揺らす。そうしてルルーシュはカップの中の黒い水面に視線を落としたまま、ひとりごとのように言う。
『逃げ隠れしたくないだけなんだ、多分』
ジノは熱いコーヒーに口をつける。まずくはなかったが、美味く出来たわけでもないそれを三分の一ほど飲んで、カップをテーブルの上に置いた。返す言葉を何も見つけられぬまま、短くはない沈黙が落ちる。
『何て車種なんだ?』
ふいに、先ほどの緑色のミニカーに視線を向けてルルーシュは問うた。
『ランボルギーニの、ディアブロ』
『悪魔、か。悪趣味だな』
『牛の名前なんですよ、闘牛の。伝説の闘牛なんだって』
『どちらにしろ悪趣味だ』
ルルーシュは気の抜けた返事をして、まだ、そのミニカーを見ていた。
『気に入ったなら同じのあげましょうか?』
『くれるなら、あれがいい』
『あれはあげられない……かな』
そのミニカーをくれた彼女自身に特に未練があるわけではないけれど、どうしても手放せないままでいる。それを寄越したときの彼女の笑顔と一緒に。
『なァ…… オレは今日、かなり落ちこんでるんだ』
この日二度目のセリフを吐き、ルルーシュはそのまま上体を倒して床の上に仰のいた。ルルーシュが何を考えているのは分からなかった。けれど、ずぶ濡れで玄関に立っていたときに一瞬みせた、今にも泣き出しそうな顔が頭をよぎった。
ジノはソファから立ち上がり、首だけをジノに背けて寝転がるルルーシュの横に腰を下ろす。気配を感じてか、ゆっくりと首をジノの方へと向けたルルーシュに覆いかぶさるようにして抱きしめた。そうして、抗うように肩を押しのけようとするルルーシュの腕を掴んで自分の背中へと導き、緩やかに、けれどぴったりと体を重ねて抱きしめた。ルルーシュはすぐに抵抗をやめてゆるゆると弛緩し、確かめるようなこわごわとした動きでジノの背中に腕を這わせた。やがて、その腕には力がこもり、しがみつくようになった。そのまましばらくじっとしていたが、やがて、ジノは無理な体勢でしびれ腕でルルーシュを支えたまま上体を起こした。そして、性的な意味のない、やさしい愛撫とくちびるを与え、痛いくらいにしがみついてくる腕は拒まず好きにさせてやった。
付け入る手だと、思考の端で冷静な判断をするが、それでも、ただ、優しくしてやりたいと思っていた。…ルルーシュ相手には、いつも手持ちのカードを上手く切れないでいる。たぶんこうして、あのミニカーのように捨てられないものをふやしてゆくのだろう。
『ジノ』
ルルーシュは、ずぶ濡れの身体で玄関の扉を一歩入ったところに立ち止まり、苦笑してジノを見上げた。ルルーシュの足跡と彼自身を伝って落ちる滴とで大理石の床には小さな水たまりができていた。ルルーシュは渋面で見下ろしてくるジノから、ふと視線を外して小さなため息をついて呟く。
『あまり意味がなかったな』
『先輩、体力ないもんね』
その小さな声を聞き洩らさずジノは笑ってそう言ってやり、早く上って、とつけ加えた。そしてバスルームへとむかい、バスタオルを取って再び玄関に戻った。やはり部屋には上がらず、そこに立ったままだったルルーシュの肩を、ジノはバスタオルでくるんだ。
『早く上って。あと、ちゃんと拭かないとカゼひくから』
『でもこのままだと床が濡れる』
『そんな格好で来ておいて、今さらでしょ』
確かにその通りだ、そうぼやいてルルーシュは靴を脱ぎ、濡れて体温を奪われたつま先をフローリングの床の上にのせた。そうして腕を組んで両肘を抱えるようにして頼りない視線をジノに向けた。ジノはルルーシュをバスルームに追いやり、ルルーシュでも着れそうなサイズの服を適当にクローゼットから見繕ってタオルと一緒に持って戻った。シャワーを浴びているかバスタブに湯を張っているかと思ったその予想は外れ、ルルーシュは濡れた服を中途半端に脱いだまま、ぼんやりと中空を見ていた。
『ホントにカゼひいて寝込んでも知りませんよ』
かける言葉は自然と咎めるような響きを帯びる。ルルーシュはわずかに身じろいで、ゆっくりとジノへと振り向き、ふと真剣そうな顔で呟いた。
『やっぱり、来ない方がよかったか』
ジノはそれを聞こえなかったことにして、手に持っていた服とタオルをルルーシュに押し付けた。
『シャワー浴びて、温まった方がいいですよ』
『そこまで寒くはないから平気だ。……着替え、借りる』
ルルーシュはタオルを被ったまま、笑って言う。そして少し間を置いてさらに続ける。
『なァ』
『うん?どうかしましたか』
『今、落ちこんでるんだ』
いつもと変わらない穏やかな声だった。
『そんな傷心のオレを、慰めてやろうと思わないか?』
『思わないですよ、そんなの』
ジノは笑ってそう言い、ルルーシュに背を向ける。そもそも、ジノとルルーシュの間にあるのはそんなやさしい関係ではないはずだった。ジノは脱ぎ落とされたルルーシュのずぶ濡れの服を乾燥機に放り込んでスイッチを入れた。ふと気になって横目でルルーシュを覗えば、頭に被ったタオルの裾を掴むその指先が微かに震えていた。なんとも言いがたい罪悪感が急に胸にせり上がった。しかし、かけるべき言葉は見当たらず、ジノは、のろのろとサイズの合わない服を身につけているルルーシュを置いてバスルームを出た。……なにか温かい飲み物くらい出してもバチはあたらないだろう、そう、自分に言い訳して。
ジノが豆を挽き終えてコーヒーメーカーに水をいれたところでルルーシュはリビングにやってきた。そして飾り棚の上に置かれた深い緑色のミニカーをつまみあげた。精巧に作られたそれは実際の車を正確に縮小して作られている。しかしさすがに動力源は載せてはおらず、動くことはない。このミニカーにされた車の実物を、ジノが好きだということをどこで知ったのかは分からないが、以前に付き合っていた女性から誕生日プレゼントとして贈られたものだった。
『先輩、車好きでしたっけ?』
ジノは熱い湯気のたちのぼるマグカップを二つ持って、その一つをルルーシュに差し出した。
『いや。……勝手に触ってすまない』
ルルーシュは、手に持っていた緑色の車を元あった場所に戻してジノの手からカップを受け取り、床に置かれたのクッションの上に座った。
『大切なものだとは、知らなかった』
ルルーシュは自嘲まじりに柔らかくぼやいて、カップのふちにくちびるを押し当てた。
『大切……っていうワケじゃないんですけど』
『大切だから、いつも見えるところに飾っておいてるんじゃないのか?』
そう言ってルルーシュはコーヒーをひとくち口に含んだが、熱さに負けて湯気に息を吹きかける。
『先輩は、大切なものはしまって隠しておくタイプですよね』
『そう、だな』
『大切じゃないものには冷たいのにね』
たとえば、私のこととか。ジノは心の中だけでそうつけたし、柔らかなソファの背もたれに体をうずめた。
『そんなことはない』
ルルーシュは再び笑った。いつもと変わらない、その穏やかな微苦笑がわずかに空気を揺らす。そうしてルルーシュはカップの中の黒い水面に視線を落としたまま、ひとりごとのように言う。
『逃げ隠れしたくないだけなんだ、多分』
ジノは熱いコーヒーに口をつける。まずくはなかったが、美味く出来たわけでもないそれを三分の一ほど飲んで、カップをテーブルの上に置いた。返す言葉を何も見つけられぬまま、短くはない沈黙が落ちる。
『何て車種なんだ?』
ふいに、先ほどの緑色のミニカーに視線を向けてルルーシュは問うた。
『ランボルギーニの、ディアブロ』
『悪魔、か。悪趣味だな』
『牛の名前なんですよ、闘牛の。伝説の闘牛なんだって』
『どちらにしろ悪趣味だ』
ルルーシュは気の抜けた返事をして、まだ、そのミニカーを見ていた。
『気に入ったなら同じのあげましょうか?』
『くれるなら、あれがいい』
『あれはあげられない……かな』
そのミニカーをくれた彼女自身に特に未練があるわけではないけれど、どうしても手放せないままでいる。それを寄越したときの彼女の笑顔と一緒に。
『なァ…… オレは今日、かなり落ちこんでるんだ』
この日二度目のセリフを吐き、ルルーシュはそのまま上体を倒して床の上に仰のいた。ルルーシュが何を考えているのは分からなかった。けれど、ずぶ濡れで玄関に立っていたときに一瞬みせた、今にも泣き出しそうな顔が頭をよぎった。
ジノはソファから立ち上がり、首だけをジノに背けて寝転がるルルーシュの横に腰を下ろす。気配を感じてか、ゆっくりと首をジノの方へと向けたルルーシュに覆いかぶさるようにして抱きしめた。そうして、抗うように肩を押しのけようとするルルーシュの腕を掴んで自分の背中へと導き、緩やかに、けれどぴったりと体を重ねて抱きしめた。ルルーシュはすぐに抵抗をやめてゆるゆると弛緩し、確かめるようなこわごわとした動きでジノの背中に腕を這わせた。やがて、その腕には力がこもり、しがみつくようになった。そのまましばらくじっとしていたが、やがて、ジノは無理な体勢でしびれ腕でルルーシュを支えたまま上体を起こした。そして、性的な意味のない、やさしい愛撫とくちびるを与え、痛いくらいにしがみついてくる腕は拒まず好きにさせてやった。
付け入る手だと、思考の端で冷静な判断をするが、それでも、ただ、優しくしてやりたいと思っていた。…ルルーシュ相手には、いつも手持ちのカードを上手く切れないでいる。たぶんこうして、あのミニカーのように捨てられないものをふやしてゆくのだろう。
『ジノ』