綴じ代(とじしろ)の奥
私は夢の中でどこかの庭に立っていた。足もとでは下草におおい隠されるように一冊の本が落ちている。広げたままのページは苔やかびに蹂躙されていて、そこに書かれてある文字はおろか、内容すらつかめなかった。しかしその装丁には見覚えがあるような気がして、いつかどこかで読んだ本なんだろうと適当に過ぎるあたりをつける。顔を上げると、ごく近くで真っ赤な椿が咲いているのが目に入った。気がつけば私の手には一ふりの剪定ばさみが握られていて、そのまま腕を伸ばせば花に届きそうだった。何も考えずに枝と二三の葉ごとそれを切り落とすと、ばちんと大きな音を上げてはさみが閉じた。重たそうに地に落ちた椿をつまみ上げると、赤だと思ったそれは柔らかな白色をしていた。まるで内側から光を放つような、淡く透きとおった白だった。花弁の内側をのぞき込もうとした拍子に、押し寄せる波のような古い記憶が私を捕らえた。それはひどく穏やかで心地よい温さをもった海だった。
海の底で三歳ぐらいの私と父が向かい合っている。私は彼に寝かしつけられているようで、首まで毛布にくるまりながら、絵本を読む父を見つめていた。
「つばきってどんななの?」
幼い私が父に問う。父は本の挿絵を見せたが、どうもうまく伝わらないようだった。そして彼はほほえみながら私の頭をなでると、優しい声で語りかけた。
「明日買ってこよう。こんな、白い花を」
忘れ去られていた思い出を突きつけられ、私はぎょっとして手に持った椿を見やったが、その花弁は茶に変色してぐずぐずに崩れてしまっていた。幼い日の幻影は霧散して、私を包む暗い海の水は身を切るほどに冷たくなっている。目が覚めても私は一人なのだろう。
作品名:綴じ代(とじしろ)の奥 作家名:アレクセイ