無き人ぞ知る
言葉にならぬという様子で苦渋の面を晒した鬼に対し、元就は唇の端をわずかに歪めた。
「長曾我部。
よもや貴様。我を信じていたなどとは言うまいな……?」
そう告げる元就の顔が湛えたものを見て、元親は知った。
本来ならば元親が向けるに相応しいほど仄暗い憎悪の眼。
元親が笑って見過ごした害意と敵意が形となって、元親の代わりに守るべきものを奪ったのだと。
瀬戸内の海を媒介に、幾度となく戦をし休戦するを繰り返し。相容れない、気に食わなくて仕方のない男はいつ眼にしても表情を変えぬまま、元親にとっては胸糞が悪くなるような戦術ばかりを用いながら、いざ休戦となれば蝋燭の火が消えるように器用に敵意をひそめてみせた。そう、この相手は息をひそめて待つのがとてもうまかった。豊臣の時代を潜りぬけたこの数年のように。
元親は決して男を信じたことはなかったが、敵意のない相手にまで牙を剥くような真似はしない。休戦の間に所用があれば、互いに行き来したこともないではなかった。
誰も知らないのだ。
戦のない平穏なひと時に、いつかあんたを叩き潰してやると笑いながら、旅先で見つけた稀有な装飾の彫り物を土産だと言って放り投げた。この相手はとてもとても珍しいことにその一瞬、呆けたような顔を晒した。
きっと誰も知りはしない。
その瞬間に元親はほんの少しばかりこの相手を懐に入れて、
その瞬間に元就はいつかこの男を殺さねばと思った。
「……ああ、わかったぜ」
元親は低い声で言うと、碇槍を慎重に構え直す。
「俺ァ、あんたを許さねえ……。汚ねえ手で四国を襲い、それに何も感じねえあんたを許すもんかよ。結局あんたは淋しいまんま、何も変わっちゃいやしねえ!」
「いつになってもつまらぬ戯言ばかりを吐く」
元就もまた輪刀を構え、眼を細める。
「……ああ、淋しい。淋しくて堪らぬわ。なれば長曾我部、貴様の首を此処へ落とせ。貴様の首を肴にすれば、我の無聊も少しは慰められような。……できぬと言うならせめてその舌、噛み千切ってみせよ」
戯言ばかりを紡ぐ舌なら要るまいぞ。
冷やかな声は、かつては激昂したその言葉を向けられてももはや感情が動くことはないのだと見せつける。
「あんたは、どうにも……救えねえ」
「他者を救うほどの高みに在るという傲慢、なるほど貴様らしい言い草よ」
元親は何を言っても届きはせず意味がないのだと悟った。
腹の底から深く深く息を吐き出し、眼の前の人形じみた顔を持つ男をこれが最後と定めて見つめた。
「ようく、わかった。……俺はもう、あんたを忘れる」
人形はわずかに眼を見開き、鬼を凝視した。
「あんたを倒して、野郎共の墓に報告して、あんたの部下も面倒見て……それっきりだ。毛利。俺は、あんたを忘れる。綺麗さっぱり忘れてやる!」
――その瞬間に元就の身の内に湧きあがったものは形容し難い。
死してもお前は一人なのだと、永遠に続く孤独に嘆けと、最後には叫ぶようにして言い放った男に対して元就が抱いたものは、
凍えるような安堵だった。
やっと、ようやく、絡みついた手が離れていった。
「貴様のそういう所が愚かしくて堪らぬ……」
囁くように言いながら、元就は輪刀を一閃した。それを弾いて距離をとった男が、すぐさま地を蹴り飛びかかる。輪刀の細い刃で槍の軌道をいなしながら、元就は呟き続ける。
「出来もしないことを思うが儘に場の勢いで口にするその短慮、」
「何だと」
険しい眼を向けた元親に対し、元就は一切を断ち切るように薄く笑った。
「……ふん。所詮この場で潰えるは貴様、何をほざこうが意味もないわ!」
元就は輪刀を閃かせ、元親は槍を振りかぶった。
互いの武器が交差する。
貴様にだけはわかるまい。
永遠にわかるまい。
我は違う。
己の心ひとつ見通せぬ愚かなあの男とは違う。
貴様を潰すためならば我はどのようなことでもしたであろう。
安芸の安寧、中国の安泰。
生きとし生けるものは総て何がしかの駒に過ぎず人は利用し利用され、この世の果てまで辿り着こうが戦の火の絶えようはずもない。
安芸の安寧、中国の安泰、
それ以外の何をも考える余地はないというのに、貴様はあまりに騒々しく目に余り、視界の端から映り込む。
路傍の石よ、我が道に唯一転がった異物よ。
我は何一つ誤っておらぬ。策も、我が人生の道行きもすべて。
それを崩し得るのが貴様であるなど承知の上ぞ。
我を殺すのは貴様なのだと我にわからぬはずもない。
奪われる前に奪うのだ。
我は貴様の心が死にゆく様を望む。
世の理よ、長曾我部。
わからねえよ、毛利。
赤い雫の滴る槍をきつく握り締め、地に倒れ伏す細い亡き骸を見つめながら、元親は呻くように呟いた。