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水の器 鋼の翼1

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1.

 レクスが地下シェルターのハンドルを閉め切るや否や、断続的な轟音と共に物凄い振動がシェルターの防壁を揺らした。ハンドル越しにさえびりびりと伝わってくる破壊力に、レクスは弾かれるようにハンドルから手を離す。先ほどまで研究所中に響いていた、微弱な揺れとはまるで大違いだ。思い当たる原因は、一つしかない。
「!……モーメントが暴走し始めたのか」
 不動博士が危険性を訴え、起動を封印されていた第一号モーメント。その封印は人の手によって解かれ、モーメントは、待っていたと言わんばかりに無秩序な暴走を始めてしまった。不動博士があれほど危惧していた最悪の事態が、今まさにシェルターの外で起こっている。すなわち、モーメントの大爆発。暴走したエネルギーの総量は、研究所周辺を吹き飛ばすには十分すぎる量だ。恐らく、シェルターの外では相当の地獄絵図が繰り広げられているに違いない。
 レクスは、覚束ない足取りで扉から離れようとした。後退りするレクスの脚に、こつんと冷たく硬い感触がぶつかる。悄然としたレクスの視界に入るのは、床に置かれた一抱えの大きさの強化ガラス製のカプセル。蛍光色の培養液で満たされたそれには、一本の左腕が収められていた。腕はひじから先の部位、大きさから言って成人男子の物だろうか。
 カプセルの取っ手を持ち上げるレクス。彼は臆する様子もなく、カプセルごと「腕」をぎゅっと抱きしめる。そのまま、シェルターの最奥に向かうと、「腕」を抱きかかえたまま防壁に背を預けた。防壁は衣服越しでも感じるくらい冷たく硬く、轟音と震動が実際の数千分の一の威力で立て続けに襲ってくる。
 モーメントの封印を解いた人間。レクスは、その人間のことをよく見知っている。彼とは、この研究所にいた人間の誰よりも親密な間柄だった。
「兄さん」
 レクス・ゴドウィンの実の兄、ルドガー・ゴドウィン。彼こそが、第一号モーメントの封印を解いた張本人であり、腕をレクスに託した者であった。ルドガーは、モーメント研究を取り止めようとした不動博士を排除し、たった一人になってまで研究を続行しようとした。ルドガーと不動博士との争いの際、レクスは見事に蚊帳の外だった。レクスには、それが悔しくてたまらない。彼らは何故に自分も、争いの真っ只中に巻き込んでくれなかったのか。
「不動博士」
 最後に会った時、不動博士は口から血を垂らして瀕死の態だった。レクスも見かけたあの黒服連中に、背中からレーザーで撃たれたのだと話していた。不動博士は息も絶え絶えな状態で、モーメントの制御カードをレクスに託して、こう言った。
『レクス、モーメントを止めるんだ』
 博士の必死な形相が、レクスの脳裏に浮かんで消える。次に現れたのは、親愛なる兄の顔。
「兄さん」
 最後に会った時、ルドガーは自分の腕を切り離した後だった。かつては厳ついながらも優しかった兄が、レクスの目の前で正気と狂気の境目を綱渡りしていた。なけなしの正気で彼はレクスに「腕」を託して、こう言った。
『レクス、いずれシグナーと呼ばれる者たちが現れる。例え何年かかろうと、彼らを集め、この私を倒せ!』
 二人が決死の思いで託した物は、今はレクスの手の中にあった。制御カードであるドラゴンのカード。かつてルドガーがその腕に宿していた力。
 不動博士とルドガーの顔が、交互にレクスの脳裏に浮かんでは消える。ぐるぐると酷いめまいがする。両足が最後の力を失って、レクスは防壁にもたれていた背をずるずるとずり落とし、力なく床に座り込む。「腕」ごと身体を抱え込み、レクスは頭を伏せた。全ての物音から自らを遮断するかのように。
『レクス』
『レクス』
 二人の声が、幻を伴ってまでシェルター中にこだまする。断続的な振動が、天井や壁や床からふるふると伝わってくる。めまいがする。声がする。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。
 レクスは、「腕」を抱えたまま、床に倒れ込んで丸くなった。床の振動が身体全体に伝わって来て不快だったが、今の彼は何もかも振り棄ててしまいたい気分だった。自分の運命も、託された使命も全て。
 口を突いて出るのは、たった一人の人のことだけ。
「兄さん。兄さん。……兄さん」
 酷い振動は、何時間経ってなお止む気配を見せない。ぐるぐるとした感覚の中、ただ一つ確かだったのは、冷たく硬いカプセルの感触だけだった。

 永久に続くと思われた振動は、いつしかぴたりと止んでいた。
 レクスは、重い瞼をこじ開けた。床に横たえていた身体を無理やり起こし、壁に背をつけて床に座り込む。今まで胸にしっかり抱いていた「腕」と、シャツの胸ポケットに仕舞い込んでいた制御カードを床に並べる。何をするにせよまず真っ先にするべきは、今後の方針を検討することだ。
 カードゲーム「デュエルモンスターズ」のモンスターカードに偽装した制御カード。レクスが持っているのは、《レッドデーモンズ・ドラゴン》、《ブラックローズ・ドラゴン》、そして、《スターダスト・ドラゴン》。
 これは本来、四枚あるべきものだった。四枚あってこそ、意味をなすカードだ。万が一の事態には、モーメント周辺の制御装置にカードを認識させ、モーメントを緊急停止する手はずだった。だが、不動博士に渡されたカードは、確かに三枚しかなかった。ルドガーからカードを奪い返した後、残りの一枚を紛失でもしたのだろうか。これでは制御装置を作動できない。結果として、最悪の事態は現実のものになってしまった。
「……」
 いや、これはただの言い訳だ。レクスは額に手をやって自嘲した。制御装置を作動できないならば、その時点でモーメント周辺に住む人々の避難誘導に切り替えるべきだったのだ。それが、この第一号モーメントを造った者としての責任だった。結局何もかも間に合わなかったレクスは、自分一人でこのシェルターに避難した。レクスができるのは、研究所の誰かが他のシェルターにいるのを願うことだけだ。
 次に、レクスは「腕」を見やった。兄に託された、彼の左腕。みっしりと筋肉が付いた温かく力強い腕は、今は冷たいカプセルの中だ。腕の表面には、血が滲んだような赤い痣がある形をとって浮かんでいる。獣か、あるいは竜のようなそれは、レクスもよく見知っていた。
『いずれシグナーと呼ばれる者たちが……』
 思い出されるのは、兄の言葉。
 モーメントを止めることが、レクスにはできなかった。それなら、次は兄の言葉に従い、「シグナー」を集めよう。レクスは決心した。「シグナー」の伝説は、研究の最中の戯れに調べたようなおぼろげな知識しかなかったが、それでも、レクスにとってはそれが唯一の導だった。
 カードを確認してポケットに収める。崩れそうな脚を叱咤し、レクスは床から立ち上がる。最後に、「腕」を大事に胸に抱えると、シェルター唯一の出入り口にゆっくりと歩いて行った。

作品名:水の器 鋼の翼1 作家名:うるら