水の器 鋼の翼1
2.
「これは酷い……」
レクスは、扉を開けて絶句した。驚愕覚めやらぬ中、恐る恐る、扉の表面に手を触れてみる。
シェルターの外側は、強烈な爆風を受けてべこべこに凹んでいた。まるで、何者かが遠慮なしに殴りつけて凹ませたようだ。もちろん、このシェルターは人間が殴った程度では凹むどころか、逆にその人の拳を砕くほどの堅牢さを誇る。計算では、シェルターは無傷で中の人間を守るはずだった。それがこの有様だ。幸いだったのは、扉が原型を留めていたことだった。もし、扉が大きく歪んでしまっていたら、レクスは内側から扉を開けられず、そのまま永久に閉じ込められていただろう。
これでは、シェルターの外にいた人間は無事では済まなかったはずだ。レクスの背筋を、言いようのない寒気が走った。それでも、生存者がいることを、祈らずにはいられない。
レクスは一人、研究所構内を歩く。見慣れた研究所は、爆風に吹き飛ばされて見るも無残な姿を晒していた。瓦礫や何やらがごろごろと廊下に積もっている。構内全体は今のところ原型を留めているが、それもいつまで持つか見当もつかない。
地下に設けられた研究所は、灯りがないと暗くて辺りがよく見えない。ところどころ手探りで、レクスは通路を進んで行く。と、足の裏にぱきりっとした感触が走った。レクスは足を恐る恐る上げてみる。彼が踏んづけていたのは、レーザーガンの残骸。粉々に砕けて、中の機構が見えている。このレーザーガンを持っていた黒服の男たちは、群れをなして研究所内を走り回っていた。逃げた不動博士を追って。……このレーザーガンの持ち主は、果たして無事なのだろうか。
「不動博士!」
全ての懸念を振り切るように、レクスは叫んだ。叫びは空しくこだまするだけで、返るべき言葉は聞こえない。
「不動博士! 兄さん! 誰か、いるんだったら返事をしてくれ!」
レクスの声は、力いっぱい張り上げたせいで段々と引きつれた音になる。だが、例え声をからしてしまったとしても、呼び出したい人間がここにいる。なので、レクスは咳き込みながらも叫ぶのを止められなかった。
「不動博士……」
何度目かに叫んだ時のことだった。
「……レクス、さん?……」
呼びかけに答える声がレクスの耳に届いた。
「誰だ! そこにいるのか!」
どうやら疲れきっているようで、その声音は弱々しい。放っておくと、今にも途切れてしまいそうだ。せっかくの生存者をみすみす逃す訳にはいかない。
「こっちです……」
崩れ落ちた瓦礫をかき分けかき分け、レクスは声の主に近づく。最後の瓦礫を退けると、新たな通路と共に若い男がそこに立っていた。レクスと同じ、この研究所に所属する研究員だ。彼の白衣は土埃にまみれていて、まだらな灰色になってしまっていた。
「よかった。生きていたのか」
「はい……」
ぜいぜいと息を切らせながらも、生き残りの研究員は辛うじてうなずいた。ほっとして、レクスは今一番知りたいことを尋ねてみる。
「君だけか。他に、生存者は」
「こちらのシェルターに避難できたのは、私一人でした。そちらのシェルターには?」
「私以外、誰も。……生き残ったのは、この二人だけか」
「そうですね。シェルター外がこの状態では、恐らく……」
研究員は、そこまで言うと口を噤んだ。その先をあまり聞きたくなかったレクスにとっては、沈黙は何よりありがたかった。
「とにかく、ここから出よう。そちらの通路は?」
「こちら側は崩れてしまっていて、脱出は不可能です。通路中を瓦礫が塞いでいて、私が通れる程度にかき分けるのがやっとでした」
「そうか……」
通れないのなら仕方がない。二人は、レクスが元来た道に入る。
「こちら側は、第一号モーメントに行く道か。確か、近くに地上へ続く階段があったはずだが、そこまで塞がっていなければいいな」
「そうですね。それに……モーメントのことも気になります」
モーメント。恐らくあそこには、ルドガーがまだいるはずだった。生きてさえ、いれば。
もう一人の生き残りは、不動博士とルドガーに起こった惨劇をまだ何一つ知らない。できるなら、このままにしておきたい、とレクスは願う。いずれは、彼にも知られてしまう話なのだろうが。
「ところで、レクスさん。そのカプセル、どうしたんですか?」
「あ、ああ。これはな……」
答えられずに口ごもるレクスだったが、ちょうどその時、目指していた階段が見えてきた。研究員が狂喜する。
「レクスさん! 階段ですよ! よかった、こちらは塞がってない!」
「そ、そうか。なら、急いで脱出しよう」
レクスが研究員に背を向け、階段入口をのぞき込んだ時のことだった。
「……!?」
つんざくような風鳴りが、ごうっと音を立ててレクスの耳に届いた。続いて、空気を揺らすざわめきが、レクスの元に一気に押し寄せてくる。耐えきれずに、レクスは目をつぶり、カプセルで己の顔をかばった。
「レクスさ……」
研究員の訝しむ声が、途中で止んだ。
物凄い勢いの揺らぎとざわめきは、レクスの身体をすり抜け、遥か彼方まで過ぎ去っていく。レクスは、強いめまいに襲われた。頭がぐるぐるする。とてもうるさい。
レクスが再び目を開けられるようになるまで、少々の時間を要した。恐らく、あの研究員はこんな自分を怪しんでいるだろう。そう思いながら、レクスは研究員の方に向き直った、……つもりだった。
レクスの背後には、誰一人いなかった。
「え……」
レクスは己の目を疑った。つい先ほどまで、もう一人の生き残りがそこにいたはずなのだ。彼に何があったのか。こんな時にかくれんぼをするような悪趣味は、容赦なく叱り飛ばしてやる。腹立ちを抑えて、レクスは元来た通路に戻った。
モーメントの部屋から、薄暗い光が差し込んでいる。これは、太陽の光だ。か細い光が、通路の床をおぼろげに照らしている。電気系統がいかれた今、灯りは何より貴重な存在だったが。
「……」
光が晒したありえない事実に、レクスは愕然とした。ここに来るまでに通って来た通路。床には瓦礫が崩れてできた塵が大量に積もっている。その塵に残されている足跡が、どうしても「一人分」しか見つからなかったのだ。
「何故だ」
足跡の大きさは、レクスの物とぴったり一致した。もう一人の研究員の足跡は、影も形もない。まるで、最初から誰もいなかったかのように。
「――まさか、今のは幽霊だとでも言うのか? ありえない。ありえないぞそんな話」
考えは、どうしても非科学的な結論に到達する。レクスには訳が分からない。とにかく、ここから脱出しないと何も始まらない。
通路から出ようとしたレクスの目に、モーメントの部屋の入り口が見えた。今は脱出が最優先だ。それでも、モーメント開発者としてはモーメントの状況が気になる。レクスは、階段に行くのを思い留まり、モーメントの方に足を踏み出した。途端、彼は言い表せないくらいの戦慄を感じた。
モーメントへ続く入口。見慣れたはずのそれが、黒々とした口をぽっかりと開けている。あの口を潜り抜けたが最後、レクスは頭からばっくりと食われてしまうだろう。レクスの生き物としての本能が、それを告げていた。