貴方の言葉に囚われたまま
それは、突然の事だった。
内緒モード《ねぇ、帝人君》
内緒モード《帝人君の事なんて嫌いだよ》
その発言に帝人は思わず固まった。突然の事に咄嗟に反応が出来なくて、それでも帝人の目はパソコンの画面に釘付けだった。
いや、正確には嫌いという言葉に釘付けにされていた。
内緒モード【それは、どういう】
《あ、ごめんなさーい。今日はこの辺で失礼しますね!おやすみなさーい☆》
[おやすー]
{おやすみなさい}
――甘楽さんが退室されました。
あっという間に居なくなってしまった甘楽こと臨也に帝人は呆然とする。
その後、残りのチャットのメンバー達がどんな話をしていたのか、いつ退室したのかも解らぬまま、気が付いた時には帝人以外全員がチャットルームから退室していた。
帝人もゆっくりとマウスを動かして、チャットルームを退室する。そしてそのままパソコンの電源を落とすと、布団に横になった。
けれど、目を閉じても、嫌いという言葉が頭から離れる事はなかった。
翌日。
春休み中という事もあり、帝人が目を覚ましたのはもうすぐ午前が終わるというそんな時間だった。
結局、あれからちっとも眠れなかった。漸く浅い眠りに就いたのが明け方近くだったので睡眠時間的には普段と同じくらいだろう。
もっとも、全く眠れた気がしなかったのは事実だったが。
帝人が着替えを終えて、朝食――時間的には既に昼食だった――をどうしようか悩んでいると部屋のドアがノックされた。
その音にドキリとする。事前に連絡ひとつ寄越さず、帝人の予定などお構いなしに訪ねてくる人物を帝人は一人しか知らない。
けれど今は、会いたいような会いたくないような複雑な気分だった。
帝人がそんな事を考え躊躇っている間もノックは続いている。
むしろ帝人がいる事を確信しているのだろう。ノックの音は徐々に大きく激しくなっていく。
帝人はゆっくりとではあったが、ドアに近付き外にいる人物に声を掛けた。
「近所迷惑です」
「どうせ隣は留守なんだから誰も迷惑なんてしてないよ。それよりドア、開けてよ」
騒音被害という意味の迷惑なら今自分が受けている。なんて事は勿論帝人には言えない。
聞こえてきた声はやはり想像通りの相手で帝人はドアを開けるのを躊躇った。
しかし、見知らぬ他人という訳でもないのにドアを開けない理由などすぐには思い付かない。
そもそも、これまでも突然やって来た彼を帝人は何だかんだで部屋に上げてしまっている。それなのに、今日だけ部屋に上げなかったら彼が何を言うか解らない。
いや、彼の事だ。帝人が何故部屋に上げたくないのか解った上で、いつもの言葉遊びのような話術で帝人の心に波風を立てるに違いなかった。
だから帝人は何でもない風を装いつつ、ドアを開く。
「おはよう、帝人君。いい朝だねぇ。もう昼だけど」
「…おはようございます、臨也さん」
ドアを開けた先にいた臨也は晴れ渡った青空のように爽やかな笑顔で帝人を見ていた。
昨夜のチャットでの最後の言葉などまるでなかったかのような雰囲気に少しの憤りを覚えながらも、それ以上に帝人は安心してしまった。昨夜のあれも彼お得意の言葉遊びの一種できっと深い意味などなかったのだと。
だからこそ――――
「ねぇ、帝人君。帝人君の事なんて嫌いだよ」
臨也をいつものように部屋に招き入れてお茶を準備している間に後ろから掛けられた声に、帝人は最初反応出来なかったのだ。
それは昨夜チャットの内緒モードで言われた言葉と全く同じで、帝人の反応も全く同じだった。
「え…」
振り返った先の臨也は真っ直ぐと帝人を見ていた。笑顔で。
昨夜内緒モードで帝人に嫌いだと言った時も同じように笑っていたのだろうか。
そう思ったら胸が軋むように痛んだ。
世界中の人に好かれる人なんて到底いる筈がない。世の中には自分の事を好きだと思ってくれる人がいて、けれどそれと同じくらいに嫌いだと思っている人がいる。それくらいは解っているつもりだ。
けれど、誰だって本当は嫌われたくないと思っている。
何より面と向かって嫌いと言われれば当然傷付く。
しかもその相手とある程度交流があったとなれば尚更だ。
臨也は何を思って帝人を嫌いだと言っているのだろう。
臨也は未だ変わらぬ笑みを浮かべたままで本心が掴めない。嫌いな人間の家にそう何度も来たりしないだろうとは思う。
けれど、だとしたら一体臨也の真意は何処にあるのだろう。
一体何を思いながら帝人に嫌いという言葉を投げ掛けてきたのだろう。
呆然と臨也を見つめていると、臨也はニッコリと微笑んだ。
「帝人君、今日が何月何日か解る?」
「え? えっと、今日は四月ついた…あ!」
今日の日付を言い掛けて、帝人は今日が何の日か気が付いた。
今日は四月一日、エイプリルフール。今日だけは嘘をついても許される日だった。
それから帝人は昨夜の事を振り返る。昨夜だと帝人は思っていたが、臨也が内緒モードで嫌いだと言った時、午前零時を回っていた事をはっきりと思い出した。つまりあの時にはもうエイプリルフールは始まっていたのだ。
そう思ったら帝人の体から一気に力が抜けた。結局自分は臨也の言葉遊びに振り回されていただけらしい。
振り回されるのはいつもの事だが、今回はたちが悪いと帝人は文句のひとつでも言ってやろう。そう思った。
しかし、それより前に臨也が口を開いた。
「帝人君は知ってるかな? エイプリルフールは確かに嘘をついても許される日だよ。けどね」
そこで言葉を止めた臨也は何故か口元に浮かべていた笑みを引っ込めた。
帝人を見つめる瞳の輝きに帝人は思わず体を震わせた。
その瞳はまるで――――
「けどね、嘘をついても許されるのは午前中だけで、午後に嘘をついたらそれは単なる嘘吐きなんだよ」
その瞳はまるで、獲物を狙う肉食動物のそれだ。
獲物を狙う肉食動物の瞳なんて間近で見た事などないのに、何故かそれに似ている。そう帝人は思ったのだ。
逃げなくては。
漠然と、けれど確かに帝人はそう思った。
逃げないと取り返しのつかない事になる。そう思うのに、帝人の体はまるで金縛りにあったかのように動けない。
そうしている間にゆっくりと臨也の言葉が脳に染み渡っていく。
午前中についた嘘は許されて、午後に嘘をついたらそれは単なる嘘吐きだ。
帝人の視線がゆっくりと携帯に表示された時計に向けられる。携帯に書かれた時刻は午後十二時をとっくに過ぎていた。
それはつまり、どういう事なのだろう。
チャットの内緒モードで言われた『嫌い』という言葉はエイプリルフールの嘘である事は間違いないだろう。そうでなければ、わざわざ今日がエイプリルフールである事を示唆する必要はない。
けれど、それならば先程現実で言われた『嫌い』という言葉は?
臨也がその言葉を口にした時には十二時を過ぎていた。それは確かだ。
という事はその言葉は本当なのだろうか。
けれど、臨也はその前に嘘としてその言葉を内緒モードで使っている。
ならば単なる嘘吐きなのだろうか。確かに臨也なら平気で嘘をつきそうではある。
しかし、それだけだろうか。
回らない思考の中で帝人は必死にその答えを探そうとした。
作品名:貴方の言葉に囚われたまま 作家名:純華