貴方の言葉に囚われたまま
「……ねぇ、帝人君」
その呼び掛けに帝人が俯いていた顔を上げれば、いつの間に移動していたのだろう。臨也は帝人の目の前まで来ていた。咄嗟に距離を取ろうとした帝人の腕を臨也は握った。
その手の力は確かに優しいのに、何故だろう。帝人がこれ以上距離を取ろうとすれば、その手は帝人の腕を握り潰そうとする程の力で握ってくる。そう帝人は思った。
「俺が何を言いたいか解る?」
「……解りま、せん…」
「嘘吐き」
臨也の言葉に嘘吐きなのは臨也さんの方じゃないですか。そう言いたかったのに、帝人の口は動かない。
「というよりも、俺の言葉が嘘かほんとかどうかはこの際どうでもいいんだよ。俺が知りたいのはね、帝人君。君が俺の嫌いという言葉をどう思ったか。そっちの方が大事なんだ」
そう言って臨也は嗤う。苦しそうに、切なそうに、けれどやはり愉しそうに臨也は嗤う。
「俺が嘘吐きと言ったのはね、帝人君。君が本当は解っているから言ったんだよ。だけど、君は解らないように振舞っているのさ。理解してしまったら、逃げられなくなるとそう君が理解しているから」
逃げられない。その言葉に先程自分が逃げなくてはと、そう思った事を思い出す。
今ならまだ臨也の拘束は拘束の範囲に入らない。だから、今の内に。
帝人は先程まで動けなかった事が嘘のように部屋のドアまで駆け出した。臨也の拘束も呆気ない程に簡単に振り解く事が出来た。
しかし、部屋のドアには帝人が掛けた覚えのない鍵が掛かっていて、帝人は困惑した。
――いや、そもそも、部屋のドアを閉めたのは誰だった――?
そう思った瞬間、肩にそっと手を置かれた。
その手が誰の物かなんて解りきっていて、帝人の体は震えた。
「そんなに怖がらないでよ。傷付いちゃうなぁ、俺」
微塵も傷付いていないような声色で臨也はそんな事を言う。
帝人は振り向かない。振り向く事が出来ない。
振り向いたら全てが終わる。そんな他人が聞いたら取って食われる訳でもないのに大袈裟なと言われるかもしれない事を考える。
けれど、正にそうなのだ。振り向いたら取って食われるに違いなかった。あの獲物を狙う肉食動物の瞳を前に、帝人はただ食べられるだけの草食動物と同じだった。
臨也の手は先程と同じように優しく肩に置かれているだけだ。いや、むしろ肩に置かれているだけなので先程よりも優しい手付きだと普通なら思うだろう。
けれど、次はない。もう部屋のドアの前まで来てしまっているのだ。次に逃げたら今度は遠慮なくこの手に力が込められるだろう。
後ろで臨也が少し動く気配がした。そう思ったら耳元でそっと言葉を囁かれる。
「答えは出た? 俺としては結構待ったつもりだよ。…あぁ、今日じゃなくてずっと前からね。帝人君が自分で気が付くまで待ってあげるつもりだったんだけどさ、ごめんね?」
ちっとも謝っていない口調で臨也は謝罪の言葉を口にする。
カラカラに渇いた喉で、帝人は「…答え、って…?」と搾り出すように臨也に尋ねる。
「さっき俺が聞いただろう? 俺の嫌いという言葉に君がどう思ったか。その答えだよ。……でもまあ、その様子だとまだ暫く答えが出そうにないから特別に俺がヒントを出してあげよう」
帝人の意思を尊重しているのか、或いは何か考えがあっての事なのか――恐らく後者だ――、臨也は帝人が背を向けている事に何も言わないし、無理矢理振り向かせる事もない。それが酷く有り難いと思う自分と何か訳があっての事だと警戒している自分がいる。
それでもやはり振り向かずにいさせてもらえる事に帝人は確かに安堵した。
「帝人君はさあ、俺の嫌いって言葉が嘘であってほしいんだよ。だけど、そう思っている自分を認めたくないんだ。どうしてか解る? 嘘であってほしいのはね、その言葉に傷付いたからだよ」
解る?と聞いておきながら臨也は帝人の言葉を待たない。それでいて、ヒントを出すと言っていたくせにそれでは答えではないか。色々な事が頭を過ぎったが、そのどれもが声にならない。
「ねぇ、帝人君。どうして俺が君の事を嫌いだと言ったら自分が傷付くか解る? そして、どうしてそう思っている事を認めたくないか解る?」
「…………………………解りません」
そう言えば、強情だなぁと臨也は笑う。気分を害した訳ではなさそうな事は幸いだと思うが、それだけだ。
臨也は帝人を逃がすつもりなどなかった。肩に置かれた手もそうだが、鍵を掛けていた時点で最初からそのつもりだったのだ。恐らく帝人が逃げる事も臨也は予想していたに違いない。
だから帝人は最後の抵抗の手段として臨也の顔を見ないのだ。
それなのに、その最後の抵抗は臨也の言葉であっさりと崩れ落ちそうになった。
「そういえば、君の気になっている事を教えてあげるね。俺の嫌いって言葉はね、れっきとした嘘だよ。だから安心していいからね」
そう言って臨也は帝人の頭をそっと撫でた。その手付きは何処までも優しい。
「っ…」
その優しい手付きに騙されてはいけないと思う。思うのに、帝人は嘘だよと言われて泣きたくなってしまった。
泣きたくなる程嬉しいと思ってしまった。
泣きたくなる程安心してしまった。
それはつまり、臨也の嫌いという言葉に傷付いていた事を認めたという事で。
そしてそれはつまり、傷付いていた理由に気付かなかった振りももう出来ないという事で…。
「だから、さ」
臨也の手によって振り向かせられても帝人はもう抵抗ひとつしなかった。
だって、もう無駄なのだ。
最初から逃げられやしなかった。彼から逃げる事なんて出来やしなかった。
内緒モードで嫌いという言葉を言われた時から。
いや――
「安心して俺の元まで堕ちておいでよ」
きっと出会ってすぐ、臨也という存在に惹かれた時から。
貴方の言葉に囚われたままだったのです。
作品名:貴方の言葉に囚われたまま 作家名:純華