賽はたった今投げられた
当然のように隣を歩いて、自宅へ向かう僕についてくるこの子は、きっと僕のアパートに乗り込む気満々なのだろうな、と考えて少し慣れてきている自分に嫌気が差した。非凡人であるこの子と知り合いになってから、この奇妙な帰路にも慣れてきてしまっている。平凡が嫌なのに、なんでだろう、非日常はあっという間に日常へ姿を変えてしまう。非日常を得た時のファーストインパクトが強すぎて、その後に付随する非日常がたいしたものに感じなくなっている。これは、僕が人生を楽しむ上での最大の欠点で、言いかえれば順応性が高いということなのだけど、そんなものできればいらなかった。
だって、どうせこの子もすぐに日常となってしまう、もう、なりかけている。
ふ、と溜息が出かかる。
「ね!…今、何考えてる?」
思考を途中で切るように、にっこりと、声をかけてきたこの子の赤みかかった目は美しいのに仄暗い。敏いのはこの子の方だよなぁ、と先ほどかけられた言葉を思い出した。
「…さっきも聞いてきたね、折原くん。」
「うん、だって帝人さん、聞かないと俺を置いていくじゃない、」
俺、ここにいるの、わかってる?
区切るように言葉を発し、全身でかまってと訴え、そうして腕を掴む行動に移すこの子は、やっぱり若いなぁ、なんて思った。
いや、自分も十分に若いし、未熟とされる立場であるのは理解しているけれど、それを踏まえた上で彼はまだまだ若い。未発達といっていい。彼にできる事はそのへんの成人を過ぎた人間よりも幅が広いくせに、それを操る彼自身はどこまでも幼い。力を持て余している、という訳でもないけど、もっと裏に触れずに育ったら、こんな人間に関わる事もなかったのにね。
「帝人さん、俺はここだよ。」
完全に歩みを止められて、正面から目を覗かれる。必至だな、眩しいな。尊いな。
「ねぇ、折原君、」
ふ、と息を吐いて、こちらからも彼の瞳を見つめる。往来で何をしているのやら、話ならゆっくり落ち着いたところで。そう提案する空気でもない。
今日も今日とて、日常をこなしてた僕に、最近現れたイレギュラー、そしてイレギュラーがレギュラーになりつつあった、そんな普通の日だったのに。何が切欠になったのか、言葉を告げようとする僕にもよくはわからない。わからないのに、僕は迷いなく彼にとっておそらく残酷な言葉を吐こうとしている。何も今日じゃなくても、ここじゃなくても、このタイミングでなくてもいいのにね。逆説。今日であっても、ここであっても、このタイミングでもいいってことだ。
そして彼はそれを理解している。
「もう、僕の前に現れるの、よして?」
「……、」
沈黙。予想はしていた。僕が彼の立場ならどうだろう。
ちょっとした興味から手を出した趣味で、その先にいた人物を目の前にして。その人物に興味を持ち、慣習的に声をかけ始め。やっと会話できるようになり、隣を歩くようになったその途端、理不尽な持ちかけをされる。うわぁ、ひどい。
でも、どうしてとか、なんでとか、利口なこの子は聞いてこない。
答えを僕に求める事は、即ち僕の彼に対する興味が完全に失せる事だと彼は理解している。
だって、僕は理不尽に負けて、どうしてなんでとすぐ疑問を口にする子供が嫌い。痛い目を見る前の、幼くて未発達で愚かな自分を見ているようで、大嫌い。
だから彼がそうしなかったのは、正解だ。僕みたいな行動、言動をする人間なら、既に僕がいるのだから、僕の周囲には不必要だ。
でも、だから何故彼を切り離すかって言ったら、それはやっぱり彼が未発達なのがいけない。こんな未成熟な状態で、僕に会って、僕という人間を気に入り、僕と会話をする。それってなんてもったいないんだろう。
彼はこの程度じゃなく、まだまだ大きく化ける素質があるのに、平凡な僕と一緒にいる事に満足されたら困る。
そう、困るのは僕。
僕のそばにいたいなら、揺ぎ無い立ち位置を得たいなら、彼がここにいるのは些か早すぎた。完成されてない彼が、僕に中てられて僕のような人間に寄ってしまったら、僕は哀しい。可能性はいくらでもあったのに、と後悔をしなければならない。
彼という人間が完成されるのに、僕という要素は排除されなければならない。そうでなければ、僕は満たされない、失望する。
そして僕はそんな人間を、傍には置かない。
お利口さんのこの子は、きっと理解している。
次のチャンスを間違えなければ、永続的に僕の隣にいれるという事を。
目の前の綺麗な顔が、お手本のような笑顔を見せて、近づいてきた。頭を引こうとしたら後頭部を抑えられていた。慣れてるなぁ。
「折原、」
しっとり、下唇に吸いつくように食まれ、次いでぴったりと唇を合わせられ、数秒。上唇を舐められ、ふ、とやはり整ったままの笑顔が、離れていった。
「一応、ここ、僕のうちの近くなんだけどなぁ。」
人は通らなかったけど、誰かに見られていたら恥ずかしいな。
「これくらい、許してよ。人が頑張るにはね、多少の飴ってやつが必要なんだよ、俺、鞭だけで喜ぶマゾじゃないから。じゃ、帝人さん、俺帰るね。」
最後まで笑顔で、でも瞳に赤く陰湿に燻ぶるあの色が、やはり僕は好きだな、と思う。あれは、強い感情と、可能性の色。それを見遣り、振り返った彼の後ろ姿は、理不尽に屈する弱者でない。与えられたチャンスを正しく理解する策略者だ。
あの可能性が開花した時、彼の中に僕がまだ居たら、僕は今度こそ彼という人間に本当の意味で興味を持つだろう。
「ま、僕にそこまでの魅力があるのか、甚だ疑問なんだけどね。」
僕の事、覚えていてくれるかなぁ。
作品名:賽はたった今投げられた 作家名:青海斎