15年先の君へ
その11
とんとんとん、と顔に触れる柔らかい感触に自然と瞼が持ち上がる。
見慣れない天井があり、視線を少し横にずらせば、苦笑した臨也の顔があった。
「起こしちゃった?ごめんね、汗かいてたから」
と言って奴はタオルを引っ込めた。俺は己の額に手を当てる。そこは、火傷しそうなほど熱を持っていた。
ずぶ濡れになった俺たちは見事に最終バスを逃していた。まだ空は明るいというのに、俺は空白ばかりの時刻表を見て度肝を抜かれたものだ。
他に手段もなく、結局徒歩でこの旅館に赴くこととなった。
臨也が前もって予約しておいたらしいここは、田舎にあるもののそれなりに老舗の宿らしい。木で出来た温かみのある外観に、中も手入れが行き届いており小奇麗だ。平日だからか他に客の姿はほとんどと言っていいほどなく、夜遅くにやって来た砂塗れの俺たちを見ても、年老いた女将は何の詮索もせずに笑って食事の前に風呂を勧めてきた。
促されるまま温泉に浸かり、地元の食材のみで作ったという夕食をとった。
俺たちが案内されたのは和室の二人部屋で、なかなかに広く、窓からは海が一望できる絶景の場所だった。恐らくそれなりの値段はするだろうが、臨也は値段を気にする俺にけろりと、もう払ってある、なんて言ってのけた。
耳を澄ませば、秋を知らせる虫の声と、海岸沿いを走る電車の汽笛が夜の空気に静かに響いていた。風呂にも入り飯も食べて、ようやく一息ついたところで、俺は見事に熱を出した。
今日一日緊張の連続だったからか、もしくはびしょ濡れのまま歩いたことで身体が冷えたのか何なのか。理由は定かではないが、ぐったりした俺は臨也が敷いた布団に寝かされところで意識が途切れている。
頭の下にある枕は冷たくてひんやりしており、恐らく氷枕か何かなのだろう。病気にかかったことがないこともないのだが、こんなに熱を出すのは小学生以来かもしれない。
「体温計借りてきたんだけど、はかる?」
そう言って臨也が差し出したデジタルのそれを、俺は弱々しく首を振って断った。はっきりと数字に出されて、熱を出しているその事実を受け取りたくなかった。
「風邪かなぁ?シズちゃんがそんなものにかかるとは思えないけど。一応解熱剤も貰ってきたけど、効くかどうかも怪しいよね」
俺は身体を横向きに転がした。視線の先には、臨也が手にする錠剤と、コップに入った一杯の水があった。
息をついて、身体を起こす。ふらつく上半身を、臨也が手を伸ばして支えた。
「水、」
それだけだったが、察したのか臨也がコップを差し出してきた。受け取って、熱い喉へと流し込む。少しばかり楽になった俺は、空になったそれを盆の上へと戻した。
「開いてるところがあるかわからないけど、病院行く?」
「いい、寝てりゃなおる」
そう言って俺は再び布団の海へと沈む。はぁ、と熱い溜息を吐き出した。
こんなことになるなんて、自分が情けない。
「…悪い」
「なにが?」
俺の唐突な謝罪にも、臨也はいつもの調子で答えてくれた。こいつの機嫌を損ねていないことに、少なからず安堵している自分がいた。
「せっかくの旅行なのに」
「あぁそのこと。いいよ別に。俺はシズちゃんが居ればいいんだから」
さっき拭ってくれたはずなのに、また額にじわりと汗が滲んできていた。そこに張り付く前髪を、臨也の指先がやさしく払う。
その指につられるようにして、俺は臨也を仰ぎ見た。その顔に、あのサングラスの影はどこにも見当たらなかった。
俺にあれをかけて唐突にキスしてきたあと、臨也は何事もなかったかのように一言、行こうか、と言っただけだった。そこで謝られたりしていたら、きっと俺はこいつを殴っていたと思う。理由はわからないが、確実にそうしていた。
あれからの臨也は特に何も変わった様子もなく、相変わらずぺらぺらと喋り、笑顔を作った。ただあのサングラスだけは、二度とかけようとしていない。
俺の言葉を聞き入れてくれたからか、もしくは別の理由か。
頭のよくない俺には、こいつの考えていることまでは読めやしない。
いつの間にか髪を梳いていた臨也の指の動きから逃れるように、俺はふっと顔を背けて寝返りを打った。
「…お前が居て欲しいのは、俺じゃないんだろ」
熱で思考が不明瞭な所為か、思っていたことがそのまま口に出た。小さく零れた己の言葉にハッとする代わりに、俺は唇を噛んだ。目の前の襖の模様を、強く睨みつける。
「どうしてそう思うの?」
さっきから変わらない調子で臨也が返してくる。まるで面白がっているようにも聞こえ、俺は衝動のまま反射的に身体を起こしてあいつを見た。
「お前が…!」
急に動いたからか、くらりと目の前が暗くなる。思わず布団に倒れこんだ俺は、瞳を手の甲で覆い、ままならない身体にクソッと悪態を付いた。
臨也は何も言わなかった。しばらく静寂が部屋を包み、俺はぼそぼそと、まるで自分に言い聞かせるかのように口を開いた。
「…俺が、お前に抵抗しなかったのは…お前が、俺を見てねぇって、わかったからだ」
悔しかった。叶わないことがわかってしまった。
好きな奴にキスをされてそれに気付かされるとは、思ってもみなかった。
怒ってるわけでも、ムカつくわけでもない。ただこんな気持ちは初めてで、どうしたらいいかわからないのだ。
「傷ついたんだ?」
そっと臨也が呟いたそれに、俺は奥歯を噛み締めた。自分が惨めでどうしようもない。
これが怒りであったなら、暴れて済んでいたものを。
「…君は、可愛いね」
静かに告げられた言葉と共に、さらりと頭を撫でられた。
その感触に、俺はふっと手をずらして奴を見上げる。サングラス越しじゃない臨也の瞳は、愛しげに細められていた。
まるであやすように何度も撫でられる。その優しさに、思わず泣いてしまいそうになる。
「シズちゃん、大好き」
臨也ははっきりと、俺の目を見て言った。未来の夫婦であるというこいつから初めて聞いた、告白の言葉だった。
「大好き。愛してる」
堰を切ったかのように繰り返される言葉は、毒のように胸に沁み込んでいった。
折原臨也は、嘘は言っていない。それは俺にもわかった。こいつがあまりにも、切なそうに口にするから。
だから俺は、自分の気持ちに蓋をした。
「…そういうのは、“あいつ”に言ってやれ」
言って、自分でも辛くなった。こいつはこんなにも必死なのに、未来の自分は一体何をしているのか。
俺の言葉に、臨也はふと、泣きそうに顔を緩めた。
「出来ないよ。嫌われてるもん」
自虐染みた笑顔で告げたそれに、思い出したことがある。
折原臨也がわざわざ未来からやって来た理由。
そうだ、未来の俺たちは修復不可能な関係にまで追い込まれているらしい。
「…頑張れよ」
思わず口がそう零していた。熱の所為だと、俺は思うことにした。
少なくとも俺は、こいつのことが好きだ。未来の俺が何を考えているのか知らないが、俺は俺だろう。結婚までしたのに、そんな簡単に嫌いになるはずがない。
「ちゃんと話し合えって。本音のまま言えば、未来の俺だってわかんだろ」
「うん…」
臨也は静かに答えた。どうして慰めているのか。俺は自分に心底呆れながら手を伸ばす。