15年先の君へ
その14
次の日、臨也は俺より早く目覚めていて、おはようと微笑む姿はいつものこいつと何ら変わりはなかった。
それが俺には、少し寂しい。伸ばす手が空を切るようだ。こいつはこうやって、何もかもをひた隠す。決して本音を零すことはない。俺とは違う意味で、孤独に生きているのかもしれない。
奇妙なこの旅は、今日が最終日だ。何かするのかと思っていたら、なんと一歩も旅館から出なかった。
座敷でごろごろしたり、取り留めのない会話をしたり、まるで水の中に居るような、驚くほどゆっくりとした時間を過ごした。
昼食の膳も空にすると、臨也は窓から外の景色を眺め、俺はその隣で昼過ぎの欠伸を噛み殺していた。
枠に吊るされた季節外れの風鈴がちりんと鳴る。昨日寝れなかった所為かうとうとしかけていた俺は、電車の汽笛を聞いた気がした。
「シズちゃん」
ふと、呼びかけられ意識が鮮明になった。ぼんやりと顔を上げれば、臨也が外を向いたまま口を開いた。
「携帯持ってる?」
「…あぁ、」
急に何だと思いながら鞄に近付き、ジッパーを下ろして中からオレンジのそれを取り出した。
旅行するに当たり、ここについてからは電源は切っておいた。もしかしたら家族から様子を訊ねる連絡でも入っているかも知れなかったが、俺はそれを持って再び窓際へ行く。
「貸して?」
そう言うので手渡してやる。が、振り向いた臨也の顔にあのサングラスがかかっているのを見た瞬間、俺の手は固まった。
動かない指からもぎ取るようにして臨也が携帯を奪う。
俺は、うまく反応が返せないでいた。
いつの間に。どうして急に、またそれを。言いようのない不安に胸が押し潰されそうになる。
「はい、どうぞ」
対して臨也はサングラスの奥で微笑みながら俺の携帯を返してきた。
受け取って、そのまま立ち尽くした。
「…なにしたんだ?」
呆然とそう告げると、臨也は口元を小さく歪める。弓なりになったそれに、既視感を覚えた。
「俺の番号と、俺に関する通信記録一切を消したんだよ」
何を言われたのかわからなかった。ただ呼吸だけが口から零れる。
かろうじで吐き出せたのは、は?と言うか弱い一言だった。
「んで、そんな…」
「シズちゃん、知ってた?」
俺の問いかけを遮るようにして臨也がそう口を開く。
笑いながら指で俺をさしてきた。
「君と俺が出会って、今日でちょうど半年。そうして俺が乗った、俗にタイムマシンと呼ばれるものが未来に帰るよう設定されたのも、ちょうど半年」
臨也の言葉はまるで風のようで、俺を通り抜けていく。ちりんと鳴った風鈴の音だけが、俺の耳に届いた。
「わかる?つまり、俺に与えられた時間は最初から半年だけだったんだよ」
何か言わねば。そう思い口を開くのに、全く声が出なかった。
何を言えばいい。何と言えばいい。俺は混乱する胸中を鎮められないまま、ただ突っ立っていた。
ただわなわなと震えた右手が、携帯を握り締める。手のひらで、パキリと嫌な音を立てた。
「んなこと、急に、」
「信じられない?じゃあもうひとつ教えてあげようか」
声を失う俺に、臨也はどこまでも笑い続ける。それは穏やかなようで、どこか冷めているようにも見えた。
「“未来に帰るには、所定の時刻までにタイムマシンに乗り込んでおかなければならない”」
臨也の口から告げられたそれは、まるで最終宣告のように部屋に響いた。嫌な予感がした。臨也があまりにも、落ち着いているから。
「所定の時刻って、何時なんだよ」
「今日の午後三時、ちょうど」
静かに答えた臨也に、俺は壁掛けの振り子時計を振り返った。
時計の針は、あと十分足らずで三時を迎えようとしている。足元から、力が抜けていくようだった。顔から血の気が引いた。
「手前っ!タイムマシンは!」
「東京だよ」
嘘だと思った。表情を変えもせずに言い放った男が告げた言葉は、いつも通りの悪い冗談だと思いたかった。
「さらに言うなら、池袋。ここからじゃ、どうしたって間に合わないよね」
それは俺も身をもって経験したことだった。東京中をぐるぐる回ってここに来たが、それを差し引いてもあと十分程度で池袋まで戻るのはどう考えても無理な話だった。
(なんで、どうして)
ギリ、と奥歯を噛み締める。そこから、震える声を吐き出した。
「じゃあ手前はどうなるんだ…?今ここに居る手前は、三時になったらどうなんだよ!」
思わず声を荒げる。手のひらの中で携帯がバラバラにぶっ壊れたが、それにすら気が付かなかった。
臨也はふっと瞳を伏せる。
「どうなるんだろうね。言っておくけど、あのタイムマシン自体まだ試作段階で、過去に飛ぶかどうかも怪しかったんだ。運良く辿り着けたけど。…まぁ、そうだね。タイムパラドックスについて、今話してもしょうがないな。結論から言うと、未来において、未来へ戻る時刻にタイムマシン外に存在する物質は、消滅する確率が最も高いとされている」
俺は何を言っているのか半分も理解出来なかった。ただこいつがどうなるのかについてだけは、はっきりと聞き取れた。
「消滅って…どうなるんだ」
「さぁ、文字通り、消えてなくなるんだろうね」
部屋に静かに風が吹く。全く現実味が感じられなかった。今ここに確かに存在する折原臨也が、消えてしまうなんて。
俺は片手で顔を覆った。そんな馬鹿な話があるわけない。心臓が、嫌な音を立てている。
「わけ、わかんねぇ…!どういうことだよ、なんで手前が、消えるんだよ!臨也っ!」
俺はあいつの胸倉を掴み上げた。簡単に持ち上がった折原臨也は、ぐっと俺の手を握ってきた。
「聞いて、シズちゃん」
「うるせぇ!もう手前の言うことなんて聞きたくねぇ!」
「違う、聞いて、シズちゃん。…シズちゃん!!」
はちきれんばかりの声で名を呼ばれ、思わず俺は力を緩める。
両足を地につけた折原臨也は、そっと胸倉から俺の手を離して、そのまま握り締めてくる。
サングラスの奥の瞳は、泣きそうに、歪んでいた。
「平和島静雄は、三十歳を迎える前に死ぬんだ」
今度こそ、俺は全身の力が抜けた。
窓から吹き込む風が、臨也と俺を揺らしていく。
ちりんと鳴った風鈴の音は、どこまでも澄んでいた。
ふ、と臨也が笑う。掴まれた右の手のひらは、小さな臨也の震えを伝えてきていた。
「おかしいでしょ。あの平和島静雄が、何度殺しても死ななかった化け物が、死ぬんだよ。あっけなく」
絶句した俺は、何も考えられなかった。
ただ臨也が、祈るようにして俺の手を額へと近づけた。
「言ったよね?俺がここに来たのは、俺たちを近づけさせない為だって。あれは、君の為なんだよ。君を殺したのは、俺も同然だから」
そうして臨也が俺の頬へ手を伸ばした。震える指先で、掠めるように触れた。
「笑ってくれていい。怒っても、殺してもいい。俺は、君が別れ話を切り出したことに腹を立てたんだ。あぁ、結婚してたってのは本当。俺が無理やり、君への嫌がらせとして仕立てたんだ。結果として、俺は君のことが本気で好きだったんだけどさ。だからこそ、離婚するって言った君が、許せなかった」
懺悔のように、酷く弱々しく言葉を吐く臨也は、とても小さく感じた。