15年先の君へ
「別れて住むようになった君に、いつものように人を差し向けたんだ。嫌がらせのつもりだった。君に些細な傷をつくって終わるはずの銃弾は、君の目を裂いて、脳に貫通した」
そう言って奴は俺の左目に触れた。ぴくりと瞼が反応する。臨也は無理やり、笑顔を取り繕った。泣いているのと同じ顔だった。
「その後は…酷い有様だったよ。セルティには失神するまで殴られるし、新羅にも見放されて、君を知る人間からは、蔑みと憎しみの言葉を吐かれた。九瑠璃と舞流だけは、黙って寄り添ってきたけどさ。俺にはもうすべてが、どうでもよくなってた」
「…だからって、手前が消える理由にはならねぇだろ」
臨也が小さく息を呑む。俺は瞳に触れるあいつの手を握り締めた。力を入れすぎないよう、そっと触れる。
「俺が死ぬっつうのは、まぁ、そりゃ胸くそわりーけどよ。つまりあれだ。俺が気を付ければ済む話だろ?」
「違うよ」
ふるふると、臨也は顔を横に振る。意外な反応に、俺は目を見開いた。
「君は全部忘れてしまうんだ。俺が言ったことすべて。いや、君だけじゃない。この時間で俺に関わったすべての人が、俺に関する記憶を失くす。“未来は過去に干渉してはならない”。これは、あのタイムマシンの鉄則だ」
俺は冷水を浴びせられたかのようにはっとした。どういうことだ。それじゃあ、まるで。
「じゃあ、手前が今までやってきたことは…」
臨也はそこで笑みを浮かべた。はっきりと、諦めを含んだそれだった。
「全部無駄なんだよ。君と俺の関係なんて、初めからどうにもならなかったんだ。卑怯で臆病な俺は、ただ逃げてきただけ。君が居ない世界に、耐え切れなかっただけ。本当は、君を一目見るだけだって決めてたのに、じっとしてられなかった。どうにかして俺たちの関係を壊せないか、いろいろ試したけど、やっぱり駄目だったみたいだね」
そうして臨也は、俺を見た。シズちゃん、と震える声で名前を呼ばれる。目が合った瞬間、笑おうとした臨也の両目から、堰を切ったようにぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「…ごめんね、っ」
臨也の手が俺の肩を掴む。シャツを握り締められ、その場に崩れ落ちた。
殺すつもりはなかったと声を上げて泣く臨也に、俺はギリと、奥歯を噛み締めた。
「…だからって、消えるのかよ」
俺は臨也の腕を掴み上げる。引き上げられた臨也に、吐き捨てた。
「じゃあ俺はどうなるんだよ!手前が好きな俺は…手前に消えて欲しくない俺は、どうすりゃいいんだよっ!」
泣きたいのは俺も同じだった。未来でも、せめて生きていれば、いつか会えたかもしれない。なのに、どうしてこいつはこうなんだ。
どうしてもっと、俺を信じてくれないんだ。
俺が死ぬからなんだ。例えそれがお前の所為だとしても、お前が消えたって嬉しくもなんともない。いや、むしろ逆だ。
どんなにお前が最低だって、好きなことに変わりはないのだ。俺にくれた優しさは本当だろう。未来で俺を殺そうとしたお前も、昨日ここで俺に縋ったお前も、全部一緒だろう。俺は全部含めて、お前が好きだ。なんでそれで、ひとりで逃げようとするのか。俺に何も言わずに。
臨也は泣き腫らした瞳を見開いて、そうして、へにゃりと、気の抜けた笑顔をつくった。
「それ、俺が君に言ってあげたかったなぁ」
何を馬鹿な、と思ったところで、掴んでいたはずのあいつの手が消えた。
俺は息を呑んで、愕然とする。臨也の身体が、消えていた。
「シズちゃん、」
臨也の影が薄くなる。本当に居なくなるのか。俺はまだ、言いたいことがたくさんある。お前と一緒に、生きていたい。
「十年経っても二十年経っても、」
「…臨也、」
急速に消えていく。待ってくれと言葉にしても、臨也はただ微笑んだ。
少し泣きそうな、不器用な笑顔。たぶんそれが、臨也の本当の笑顔なのだろう。
「死んでも、君を愛してる」
「いざ、っ」
ゴーン、と振り子時計の鐘の音が三回鳴った。
俺の右手は空を切っていた。そこに広がるのは、窓越しに見える夏の終わりの風景。
俺は部屋にひとりで突っ立っていた。潮の匂いを含んだ風が、髪を揺らす。
「…みーつけた」
背後から誰かの声が聞こえた。それでも俺は、動かなかった。
「全く、勝手に傷心旅行したうえにひとりで何騒いでんの。しかも電車乗り継いで俺の目を眩ませるなんてさぁ。君にそんな知恵があったなんて驚きだよ」
ちりんと風鈴が揺れる。静かな部屋には、遠くから聞こえる蝉の声と、カチコチと響く時計の音が支配していた。
「ねぇ、ちょっと聞いてるの?シズちゃん」
グイ、と肩を引かれた。思わず振り返ったそこには、臨也の姿があった。
だが俺を瞳に映した奴は、驚いたように目を丸くした。
「…なに、泣いてんの」
「わか、んねぇ…」
俺は次から次へと涙を流す瞳を乱暴に押さえつけた。だがそれでも止まらない。
まるで悲しい夢を見た朝のように、夢の内容は全く覚えていないのに、ただ悲しさだけが残っているのだ。
しゃくりあげる俺に、臨也が呆れたような溜息をついた。目の前に突っ立って、バツの悪そうに視線を逸らす。
「…泣き止みなよ」
臨也はそう零した。戸惑っているのか、いつもの覇気がない、言い聞かせるような声音だ。
俺は涙が止まらなかった。胸が痛い。息が苦しい。どうしてこんなに、悲しいのか。
「泣いている君なんて、調子狂う」
泣き続ける俺に、そっと手が伸ばされる。
前髪をかき上げて濡れた頬を撫でた。上向かされた視線の先で、臨也と目が合った。
途端に、どうしようもなく涙が溢れてきた。何故だろう。
途方に暮れて、どうすればいいのかと臨也が呟いた。
やがて、おずおずと背中に腕が回る。不器用なそれは、温かかった。
昼下がり。小さな部屋の真ん中で、俺は泣いた。
夏の終わりの、ことだった。