隠れ鬼
己のやってきたことに、微塵も後悔はない。
そう微塵もだ。
それなのになぜ…。
袂を別つことに何か意味があったのかと問われれば、それは豊臣家を遺すためだと大義名分は通る。けれどそれは、彼のこんな姿を世に見せつけるためではない。
決してない。
間違ってはいない、絶対に。
たとえ喪っても。
六条河原に吹く冷たい風に嬲られながらどこまでも真っ直ぐな双眸していた。真っ白い死に装束を身に纏いただ静謐であった。
清正は立会人であることを家康に望み、最後の最期をこの目に焼き付けるつもりであった。
処刑前に、一度だけ清正は三成との目通りを赦された。
言葉はなく、三成は暫しの沈黙のあと「失せよ」とだけ告げた。これ以上、清正と語ることはなしと思ったのか、己と清正が密接な会話をしているところを家康の家臣に見られたくはなかったのか、今はもうその瞳には憎しみも怒りも、そして悲しみもなく、空虚とは呼び難いがそこにはなにも存在していなかった。
ただ今を生きる、それだけだと言わんばかりに真っ直ぐに背筋を伸ばし折り畳んだ膝に手を乗せてそこに在った。
(お前は…)
ごつごつとした砂利の上に敷かれた、些末なござの上。
吹く風と、聴衆のざわめきと鳥の声。
介錯人が刀に清めを垂らし、一歩真っ直ぐに座る三成に近づいた。
目前には大きな穴が掘ってある。
清正はぐっと拳に力を込めた。
(三成…)
目的は同じだった筈だ。
いつから、違う場所に立つことになった。
(三成)
ぐっと奥歯を噛みしめねば、声にならない呻き声が漏れそうになった。
背中を屈める一瞬まえに三成は確かに清正に僅かに視線を遣ったことに気づいて目を瞠った。大きく、刀が振りかぶる。きらきらと切っ先が煌めき鈍い曇天を突き刺すようだった。
俯く前、声にならない声が確かに清正には聞こえた。
豊臣を、われらの家を、頼む
唇はそれだけを発し、空気を震わせ清正に届けた。彼の遺言でもあるとそう思った。
「………」
なぜだ、とは思わなかった。
そうだろうとも、豊臣のために、別ったのだから。
三成の唇が閉じて、静かに弧を描いたように見えた。
ぐっと背を屈め綺麗な髪が…清正が好きでよく憎まれ口を叩きながらも愛し、触れていた髪が揺れて真っ白な首筋が露わになった。
あの美しい刃の一振りで細い首など簡単に胴から離れてしまうだろう。
呼吸が止まり、もう二度と…その強い目が清正を映すこともないのだろう。
そう確信した瞬間、思わず吐き気がこみ上げるように臓腑がせりあがった。危うく掌で口元を覆いかけて寸でのところで動きを殺せた。
三成、みつなり、みつなり…!
さらばだ、友よ。
我らが同胞よ。
さらばだ、我が家族よ。
「……っ」
思わず布団を跳ね除け、ベッドから落ちそうになりながら起き上った清正はだらだらと頬に流れる温かな滴を手の甲でぬぐった。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
呼吸は荒く、心臓がドクドクと猛烈な勢いで動いているのがわかる。パジャマがわりのスウェットが汗に濡れて肌に張り付いているが気持ちの悪さなど感じないほど、頭の中を三成が占めていた。
ガタガタと震える手で咄嗟に周囲を見回して自分の部屋だということを視認した。すぐに枕元にある携帯電話を握って立ち上がり、着信履歴の一番上を押していた。
確か、最期に電話で話をしたのは夕方、三成が最後だった筈だ。
手の甲で汗を拭いながら、発信音を堪らない気持ちで聞いていた。
「早く、早くでろよ…」
傍ら、スウェットを脱いで手近にあるシャツに着替えるとジーパンが上手く穿けずよろめいたところで発信音が途切れ、三成の不機嫌そうな声が耳に届いてなぜかほっとした。
「三成」
『……馬鹿、何時だと…』
「え? あ…」
枕元の目ざまし時計は午前3時を示している。
「寝てたか」
『当たり前だ』
「……三成」
机の上の財布を掴む。
「会いたい」
『……』
「顔が見たい」
『…何かあったか』
「…わからない」
でも会いたいと強く言葉を切ったと同時に電話も切った。掴んだ財布をジーパンの後ろポケットに突っこんで、ねねを起こさないように玄関へと向かう。薄暗くて僅かに冷えた廊下は、あの河原の風を思い出させて鳥肌がたった。
スニーカーを履いて鍵を開ける。携帯電話を握り締めたまま、冷えた屋外へと飛び出した。さすがにこの時間になると人通りも車通りもほとんどなく、まるで深い藍色の海の中を泳いでいるような気持になる。
清正が暮らす施設から三成のアパートまでは、歩いても15分程度だ。走れば清正の足ならば10分もかからず玄関のインターフォンを押せるはずだ。
清正の全身を突き抜けるように甚振るのは喪失の恐怖で、喪って堪るかという我執のようなものでもあった。歩道橋の下を走り抜け、歩きなれた道が今途方もなく遠く感じる。
会いたい、
会わせてくれ頼むから。
もう喪わないために、離れないために、壊れないためにという強迫観念にも似た思いに駆られて死にそうになる。
三成が暮らす3回建てのアパートが見えたときは不覚にも泣きそうになった。
3階にある彼の部屋まで階段を使い、一秒でも早くと祈り続ける。ドアが見えてインターフォンではなく直接扉を叩いた。すると三成は起きていたのか直ぐに扉が開いた。
「馬鹿者、近所めいわ…」
開いた刹那だ。ドアノブを握る三成の手を掴み思い切り引き寄せる。
「………」
荒い呼吸を落ち着かせることもせず、汗を拭いもせずぎゅうう、と力いっぱい抱きしめてその首筋に顔を埋めた。
くん、と匂いを嗅ぐので獣かお前は! と小さく小突く。
「三成」
「…清正」
大きな掌が背中を撫で、三成が羽織ったカーディガンが肩からはらりと落ちる。そのまま手は項を辿り後ろ髪を掻き上げた。そこに傷がないことなど知り尽くしているほど知っていたのに確かめずにはおれなかった。
「何も言うなよ」
清正の背後で扉が閉まる。
暫く力任せに抱きしめてくる清正の好きにさせていたが、軋む背の痛みをやり過ごしながら諦めたように三成もまた清正の背を抱き返した。
「風邪をひく」
「……」
「子どもか、お前は」
くしゃりと短いくせ毛をかき回すように撫でると、「ガキ扱いするな」と返してくる。
「取り敢えず、風呂に入ってこい。汗を流して着替えろ。このままだと本当に風邪をひくぞ、馬鹿」
「バカは余計だ馬鹿」
漸く、体を離し見下ろした三成はいつもの彼で、少し呆れたように眉を顰めている。
「話なら後で聞いてやる。着替えも出しといてやるからさっさとしろ」
小さく胸を押して、清正から身を離し踵を返した細い背を清正は黙って見下ろしたまま我慢できずに再び腕を伸ばした。
「…っ」
「いるよな」
「清正!」
「いるよな、お前…ちゃんとここに」
後ろから半ば羽交い絞めのように抱きついてくる大きな体を持て余し、三成は小さく息をついた。
そう微塵もだ。
それなのになぜ…。
袂を別つことに何か意味があったのかと問われれば、それは豊臣家を遺すためだと大義名分は通る。けれどそれは、彼のこんな姿を世に見せつけるためではない。
決してない。
間違ってはいない、絶対に。
たとえ喪っても。
六条河原に吹く冷たい風に嬲られながらどこまでも真っ直ぐな双眸していた。真っ白い死に装束を身に纏いただ静謐であった。
清正は立会人であることを家康に望み、最後の最期をこの目に焼き付けるつもりであった。
処刑前に、一度だけ清正は三成との目通りを赦された。
言葉はなく、三成は暫しの沈黙のあと「失せよ」とだけ告げた。これ以上、清正と語ることはなしと思ったのか、己と清正が密接な会話をしているところを家康の家臣に見られたくはなかったのか、今はもうその瞳には憎しみも怒りも、そして悲しみもなく、空虚とは呼び難いがそこにはなにも存在していなかった。
ただ今を生きる、それだけだと言わんばかりに真っ直ぐに背筋を伸ばし折り畳んだ膝に手を乗せてそこに在った。
(お前は…)
ごつごつとした砂利の上に敷かれた、些末なござの上。
吹く風と、聴衆のざわめきと鳥の声。
介錯人が刀に清めを垂らし、一歩真っ直ぐに座る三成に近づいた。
目前には大きな穴が掘ってある。
清正はぐっと拳に力を込めた。
(三成…)
目的は同じだった筈だ。
いつから、違う場所に立つことになった。
(三成)
ぐっと奥歯を噛みしめねば、声にならない呻き声が漏れそうになった。
背中を屈める一瞬まえに三成は確かに清正に僅かに視線を遣ったことに気づいて目を瞠った。大きく、刀が振りかぶる。きらきらと切っ先が煌めき鈍い曇天を突き刺すようだった。
俯く前、声にならない声が確かに清正には聞こえた。
豊臣を、われらの家を、頼む
唇はそれだけを発し、空気を震わせ清正に届けた。彼の遺言でもあるとそう思った。
「………」
なぜだ、とは思わなかった。
そうだろうとも、豊臣のために、別ったのだから。
三成の唇が閉じて、静かに弧を描いたように見えた。
ぐっと背を屈め綺麗な髪が…清正が好きでよく憎まれ口を叩きながらも愛し、触れていた髪が揺れて真っ白な首筋が露わになった。
あの美しい刃の一振りで細い首など簡単に胴から離れてしまうだろう。
呼吸が止まり、もう二度と…その強い目が清正を映すこともないのだろう。
そう確信した瞬間、思わず吐き気がこみ上げるように臓腑がせりあがった。危うく掌で口元を覆いかけて寸でのところで動きを殺せた。
三成、みつなり、みつなり…!
さらばだ、友よ。
我らが同胞よ。
さらばだ、我が家族よ。
「……っ」
思わず布団を跳ね除け、ベッドから落ちそうになりながら起き上った清正はだらだらと頬に流れる温かな滴を手の甲でぬぐった。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
呼吸は荒く、心臓がドクドクと猛烈な勢いで動いているのがわかる。パジャマがわりのスウェットが汗に濡れて肌に張り付いているが気持ちの悪さなど感じないほど、頭の中を三成が占めていた。
ガタガタと震える手で咄嗟に周囲を見回して自分の部屋だということを視認した。すぐに枕元にある携帯電話を握って立ち上がり、着信履歴の一番上を押していた。
確か、最期に電話で話をしたのは夕方、三成が最後だった筈だ。
手の甲で汗を拭いながら、発信音を堪らない気持ちで聞いていた。
「早く、早くでろよ…」
傍ら、スウェットを脱いで手近にあるシャツに着替えるとジーパンが上手く穿けずよろめいたところで発信音が途切れ、三成の不機嫌そうな声が耳に届いてなぜかほっとした。
「三成」
『……馬鹿、何時だと…』
「え? あ…」
枕元の目ざまし時計は午前3時を示している。
「寝てたか」
『当たり前だ』
「……三成」
机の上の財布を掴む。
「会いたい」
『……』
「顔が見たい」
『…何かあったか』
「…わからない」
でも会いたいと強く言葉を切ったと同時に電話も切った。掴んだ財布をジーパンの後ろポケットに突っこんで、ねねを起こさないように玄関へと向かう。薄暗くて僅かに冷えた廊下は、あの河原の風を思い出させて鳥肌がたった。
スニーカーを履いて鍵を開ける。携帯電話を握り締めたまま、冷えた屋外へと飛び出した。さすがにこの時間になると人通りも車通りもほとんどなく、まるで深い藍色の海の中を泳いでいるような気持になる。
清正が暮らす施設から三成のアパートまでは、歩いても15分程度だ。走れば清正の足ならば10分もかからず玄関のインターフォンを押せるはずだ。
清正の全身を突き抜けるように甚振るのは喪失の恐怖で、喪って堪るかという我執のようなものでもあった。歩道橋の下を走り抜け、歩きなれた道が今途方もなく遠く感じる。
会いたい、
会わせてくれ頼むから。
もう喪わないために、離れないために、壊れないためにという強迫観念にも似た思いに駆られて死にそうになる。
三成が暮らす3回建てのアパートが見えたときは不覚にも泣きそうになった。
3階にある彼の部屋まで階段を使い、一秒でも早くと祈り続ける。ドアが見えてインターフォンではなく直接扉を叩いた。すると三成は起きていたのか直ぐに扉が開いた。
「馬鹿者、近所めいわ…」
開いた刹那だ。ドアノブを握る三成の手を掴み思い切り引き寄せる。
「………」
荒い呼吸を落ち着かせることもせず、汗を拭いもせずぎゅうう、と力いっぱい抱きしめてその首筋に顔を埋めた。
くん、と匂いを嗅ぐので獣かお前は! と小さく小突く。
「三成」
「…清正」
大きな掌が背中を撫で、三成が羽織ったカーディガンが肩からはらりと落ちる。そのまま手は項を辿り後ろ髪を掻き上げた。そこに傷がないことなど知り尽くしているほど知っていたのに確かめずにはおれなかった。
「何も言うなよ」
清正の背後で扉が閉まる。
暫く力任せに抱きしめてくる清正の好きにさせていたが、軋む背の痛みをやり過ごしながら諦めたように三成もまた清正の背を抱き返した。
「風邪をひく」
「……」
「子どもか、お前は」
くしゃりと短いくせ毛をかき回すように撫でると、「ガキ扱いするな」と返してくる。
「取り敢えず、風呂に入ってこい。汗を流して着替えろ。このままだと本当に風邪をひくぞ、馬鹿」
「バカは余計だ馬鹿」
漸く、体を離し見下ろした三成はいつもの彼で、少し呆れたように眉を顰めている。
「話なら後で聞いてやる。着替えも出しといてやるからさっさとしろ」
小さく胸を押して、清正から身を離し踵を返した細い背を清正は黙って見下ろしたまま我慢できずに再び腕を伸ばした。
「…っ」
「いるよな」
「清正!」
「いるよな、お前…ちゃんとここに」
後ろから半ば羽交い絞めのように抱きついてくる大きな体を持て余し、三成は小さく息をついた。