人にやさしく
息を止めてしまえば、季節の移り変わりも一瞬らしい。何日か続いた雨は、大抵の朽ちかけた落ち葉を枝から彩を奪って、アスファルトに湿った葉がべたべたと張り付いていた。その雨の後やってきたのは、典型的な冬型の低気圧と12月で、ここまで感慨のない冬の訪れも珍しかった。
それほど、その前の季節にすべてを詰め込みすぎて走ってきたことが、今の結果として現れている。
今日は朝から少し冷え、山本もセーターでの活動を余儀なくされる。袖から紺色の毛糸が解れ掛けているのを、家に帰って直さなければ。そう思ってもう数日が過ぎている。
黒板消しの粉取りも、教壇の表面の水拭きも終わった。
その日の日直の仕事をあらかた終えてしまって、最後の仕上げとして今月の風紀目標を張り替えるところであった。
学校の指標以外に取り上げられるこの風紀目標はいわば王である雲雀恭弥からのお達しである。毎月発されるその勅令は、恐怖を持って従順に受け入れられて、民である生徒を理不尽に、時に不平不満を押し込めて恭順させてきた。
しかし色紙に印刷されていたのは、いつもの仰々しく迫力がある風紀委員からの命とは、少し違っていた。先月の目標を、画鋲を一つ一つ外しながら見比べる。
「ひとにやさしくしよう」
口に出してみると実にシンプルで、それで難解な言葉だった。
雲雀がそれまで統治のための勅令として下していたのは、もっと具体的なもので、今のものは抽象的で雲を掴むようだ。オレンジのコピー用紙に印刷された、その標語をまた眺めた。
やさしく、なんてどうしたんだろう。
王様の気紛れに笑いを添えようとしたら、それは単なる気の抜けた息となった。笑う力さえ失われていることに愕然としながらも、親指の腹で掲示板に再び画鋲を押し込める。
もっとも、この罰則も強制もない12月の指標は概ね受け入れられ、一般生徒には喜ばれて冬は始まった。
雲雀の行った善政としてまず一番に挙げられるのは、冬場のスカートの下のジャージ着用を禁止したこと。それと悪習であった、使用禁止の体育館脇の水道を整備し解放したこと、それらがいつも生徒の口から突いて出る。それ以外はなにもしないことが、一般の生徒にとっては一番の善政であると思われている。
脅威でもある風紀委員たちの見回りの手がこの目標のせいか薄くなったこと、それに加え、風紀委員長本人が、聴覚を遮断し一人の世界に没頭していることを見て、恐らく大部分の生徒たちが安堵したことだろう。
それまで、空いた時間を使い文章の世界に浸ることはあったが、それでも雲雀は淀んだ空気を排除することには目敏く、機敏であった。
それに対し音に関知しない雲雀は少し動きも鈍く、そして横顔が希薄に見えた。
ヘッドフォンに押し込めたあと、雲雀はなにを考えているのだろう。小さく、時に薄く色づくあのかわいらしい耳の形が隠されること自体山本には勿体無いことで、臍を噛む。
圧縮された音になにを求めて浸っているのだろう。
流し込んだ音に紛らわせて自ら作る静寂は、雲雀にはとてもアンバランスに思えた。それは、芸術に関心が薄い元の性格からの偏見かもしれないが。
やさしくされたいのなら自分から何かを起こせよ。
放たれた毒なのか、それとも忠告なのか、山本の胸に這う言葉は胸の粘膜をちくちくと痛ませている。
あの勅令の意味を確かめたくて、応接室に向っても、昨日と同じ風景がそこにあるだけで、山本はため息をついた。
ヘッドフォンから伸びた白いコードは他人に交わることがなく、音を雲雀に振動として響かせて完結する。時折動く指は、圧縮された電子音の源であるプレイヤーを時折いじくるだけで、それ以上の能動的な動きはない。
時折、横隔膜を揺らすようなベースの低温がこぼれでるだけで、音漏れはわずかであるが、彼がなにに耳を傾けてるかは世界の外にいる山本には関知できない。ひばり、と声をかけても、音楽に塞がれている耳は山本の存在に気付きはしない。眠っているのか、それとも無視を決め込んでいるのか、机に頬杖をついて音を脳へと誘っているようだ。丸い頭にあまり似つかわしくない、大きなヘッドフォンを嵌めていた。
言い争い、感情の齟齬、一方的な憤り、何度もこんな関係の波乱は迎えてきたものの、こういうケースは初めてだ。いつもなら苛立ちに任せて、山本の頬なり鳩尾なりに、鋭い一撃を決め込むだろうが、その暴力が今の雲雀にはない。
制服のスラックスに季節に似合わない手汗を擦りつけた。喉は渇いて、舌に気持ち悪さを残しているのに、じんわりと汗ばかり滲む。目を伏せた雲雀の顔は落ち着き、山本とは対照的であるが、音のうねりに飲み込まれている雲雀は別世界に眠っているだけなので単純な比較対象とはなりえない。
雲雀の回りには、周囲の困惑が見えるかのように机の上には付箋で緊急!と記された書類が散らばっているが、雲雀の瞼は静かに閉じられていて、とうとう山本が応接室にいる間は開くことがなかった。
その眼球を覆う薄い皮膚に触れてみたい、そう願っても、右手は戒めを持ったように、重い。
つい二日前に発された、雲雀からの別離をリプレイしてみる。今も視覚にも聴覚にも痛くて、それまでうっすらと感じていた内臓の重さが増幅された。
『もういいよ、君とは話したくない。傷の舐めあいなら他を当たって』
雲雀から投げやりのように繰り出される台詞を追っていっても、事態の重さに気づくのは1テンポ遅かった。恥じらいか機嫌の悪さの一つだと思っていたが、きつく寄った眉と絞り出してようやく声になった掠れた息が、状況の重さを伝えていた。
『そんなやさしさ、気持ち悪い。僕はいらない』
短い言葉だったが、雲雀の心の揺らめきは声音に表れていた。山本の胸板に腕を突っ張らせて、抱擁と体温のやりとりを拒んだ。
唇をつぐみ沈黙する横顔に、何かの憂いを感じて抱きしめただけで、それだけの動機だった。
しかし当の庇護の対象である雲雀はそんな言葉を吐いて、山本のそれからの行動の目をすべて踏み潰した。いつもなら、その抱擁のあとは自然な流れで口付けに流れ、互いに上手く唇を組み合わせていくところなのに、山本の行き場のない両手と唇が、雲雀からの突然の別離に微かにふるえてどうにもならない。
それまでも、『戻ってきてから』の雲雀の挙動はいちいち力が薄く、放たれるいつもの警告も威嚇も言葉尻に勢いを感じない。
どうしてそんなささくれだったやりとりのくぼみに足を取られてしまったのか判らないが、雲雀の声が山本の耳たぶから鼓膜まで切りつけて、心までの道筋を存分に傷つける。
雲雀が慣れないMP3プレイヤーを多用し始めたのは、山本とのこのやりとりとシンクロしている。原因は火を見るより明らかであるのに、対策は何一つなく、今のヒバリを呆けて眺めるだけだ。
彼がそうやって山本を振り払い閉じこもってしまったのは、わずか数日前のことで、12月にこれから走っていくという、秋の終わりだった。
戻ってきた日常と言うのはあまりにも平穏で、ただ無為に過ごしていくだけで時間はたってしまう。あの時にできた傷も、もう乾いてかさぶたも取れかけている。
それほど、その前の季節にすべてを詰め込みすぎて走ってきたことが、今の結果として現れている。
今日は朝から少し冷え、山本もセーターでの活動を余儀なくされる。袖から紺色の毛糸が解れ掛けているのを、家に帰って直さなければ。そう思ってもう数日が過ぎている。
黒板消しの粉取りも、教壇の表面の水拭きも終わった。
その日の日直の仕事をあらかた終えてしまって、最後の仕上げとして今月の風紀目標を張り替えるところであった。
学校の指標以外に取り上げられるこの風紀目標はいわば王である雲雀恭弥からのお達しである。毎月発されるその勅令は、恐怖を持って従順に受け入れられて、民である生徒を理不尽に、時に不平不満を押し込めて恭順させてきた。
しかし色紙に印刷されていたのは、いつもの仰々しく迫力がある風紀委員からの命とは、少し違っていた。先月の目標を、画鋲を一つ一つ外しながら見比べる。
「ひとにやさしくしよう」
口に出してみると実にシンプルで、それで難解な言葉だった。
雲雀がそれまで統治のための勅令として下していたのは、もっと具体的なもので、今のものは抽象的で雲を掴むようだ。オレンジのコピー用紙に印刷された、その標語をまた眺めた。
やさしく、なんてどうしたんだろう。
王様の気紛れに笑いを添えようとしたら、それは単なる気の抜けた息となった。笑う力さえ失われていることに愕然としながらも、親指の腹で掲示板に再び画鋲を押し込める。
もっとも、この罰則も強制もない12月の指標は概ね受け入れられ、一般生徒には喜ばれて冬は始まった。
雲雀の行った善政としてまず一番に挙げられるのは、冬場のスカートの下のジャージ着用を禁止したこと。それと悪習であった、使用禁止の体育館脇の水道を整備し解放したこと、それらがいつも生徒の口から突いて出る。それ以外はなにもしないことが、一般の生徒にとっては一番の善政であると思われている。
脅威でもある風紀委員たちの見回りの手がこの目標のせいか薄くなったこと、それに加え、風紀委員長本人が、聴覚を遮断し一人の世界に没頭していることを見て、恐らく大部分の生徒たちが安堵したことだろう。
それまで、空いた時間を使い文章の世界に浸ることはあったが、それでも雲雀は淀んだ空気を排除することには目敏く、機敏であった。
それに対し音に関知しない雲雀は少し動きも鈍く、そして横顔が希薄に見えた。
ヘッドフォンに押し込めたあと、雲雀はなにを考えているのだろう。小さく、時に薄く色づくあのかわいらしい耳の形が隠されること自体山本には勿体無いことで、臍を噛む。
圧縮された音になにを求めて浸っているのだろう。
流し込んだ音に紛らわせて自ら作る静寂は、雲雀にはとてもアンバランスに思えた。それは、芸術に関心が薄い元の性格からの偏見かもしれないが。
やさしくされたいのなら自分から何かを起こせよ。
放たれた毒なのか、それとも忠告なのか、山本の胸に這う言葉は胸の粘膜をちくちくと痛ませている。
あの勅令の意味を確かめたくて、応接室に向っても、昨日と同じ風景がそこにあるだけで、山本はため息をついた。
ヘッドフォンから伸びた白いコードは他人に交わることがなく、音を雲雀に振動として響かせて完結する。時折動く指は、圧縮された電子音の源であるプレイヤーを時折いじくるだけで、それ以上の能動的な動きはない。
時折、横隔膜を揺らすようなベースの低温がこぼれでるだけで、音漏れはわずかであるが、彼がなにに耳を傾けてるかは世界の外にいる山本には関知できない。ひばり、と声をかけても、音楽に塞がれている耳は山本の存在に気付きはしない。眠っているのか、それとも無視を決め込んでいるのか、机に頬杖をついて音を脳へと誘っているようだ。丸い頭にあまり似つかわしくない、大きなヘッドフォンを嵌めていた。
言い争い、感情の齟齬、一方的な憤り、何度もこんな関係の波乱は迎えてきたものの、こういうケースは初めてだ。いつもなら苛立ちに任せて、山本の頬なり鳩尾なりに、鋭い一撃を決め込むだろうが、その暴力が今の雲雀にはない。
制服のスラックスに季節に似合わない手汗を擦りつけた。喉は渇いて、舌に気持ち悪さを残しているのに、じんわりと汗ばかり滲む。目を伏せた雲雀の顔は落ち着き、山本とは対照的であるが、音のうねりに飲み込まれている雲雀は別世界に眠っているだけなので単純な比較対象とはなりえない。
雲雀の回りには、周囲の困惑が見えるかのように机の上には付箋で緊急!と記された書類が散らばっているが、雲雀の瞼は静かに閉じられていて、とうとう山本が応接室にいる間は開くことがなかった。
その眼球を覆う薄い皮膚に触れてみたい、そう願っても、右手は戒めを持ったように、重い。
つい二日前に発された、雲雀からの別離をリプレイしてみる。今も視覚にも聴覚にも痛くて、それまでうっすらと感じていた内臓の重さが増幅された。
『もういいよ、君とは話したくない。傷の舐めあいなら他を当たって』
雲雀から投げやりのように繰り出される台詞を追っていっても、事態の重さに気づくのは1テンポ遅かった。恥じらいか機嫌の悪さの一つだと思っていたが、きつく寄った眉と絞り出してようやく声になった掠れた息が、状況の重さを伝えていた。
『そんなやさしさ、気持ち悪い。僕はいらない』
短い言葉だったが、雲雀の心の揺らめきは声音に表れていた。山本の胸板に腕を突っ張らせて、抱擁と体温のやりとりを拒んだ。
唇をつぐみ沈黙する横顔に、何かの憂いを感じて抱きしめただけで、それだけの動機だった。
しかし当の庇護の対象である雲雀はそんな言葉を吐いて、山本のそれからの行動の目をすべて踏み潰した。いつもなら、その抱擁のあとは自然な流れで口付けに流れ、互いに上手く唇を組み合わせていくところなのに、山本の行き場のない両手と唇が、雲雀からの突然の別離に微かにふるえてどうにもならない。
それまでも、『戻ってきてから』の雲雀の挙動はいちいち力が薄く、放たれるいつもの警告も威嚇も言葉尻に勢いを感じない。
どうしてそんなささくれだったやりとりのくぼみに足を取られてしまったのか判らないが、雲雀の声が山本の耳たぶから鼓膜まで切りつけて、心までの道筋を存分に傷つける。
雲雀が慣れないMP3プレイヤーを多用し始めたのは、山本とのこのやりとりとシンクロしている。原因は火を見るより明らかであるのに、対策は何一つなく、今のヒバリを呆けて眺めるだけだ。
彼がそうやって山本を振り払い閉じこもってしまったのは、わずか数日前のことで、12月にこれから走っていくという、秋の終わりだった。
戻ってきた日常と言うのはあまりにも平穏で、ただ無為に過ごしていくだけで時間はたってしまう。あの時にできた傷も、もう乾いてかさぶたも取れかけている。