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ひまわり

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2.アーサーとの電話


 アルフレッドが菊の家に転がり込んできたのは、世間的には学生の夏休みと呼ばれるものが半分以上終わった、八月のある日のことだった。
 本田宅は築何十年という、いまどき珍しい純日本家屋の作りである。そのいい加減ガタがきている引き戸を、彼は文字通り叩き壊す勢いで侵入してきたのだ。
 唖然とする菊の目の前で、
「はっはー! やあ、久しぶりだね菊!」
 と無駄に爽やかに歯を光らせてみせた青年を、普通に訪ねて来たとは言いたくない。
 当時読んでいた剣客漫画になぞらえるなら、すわ道場破りかという勢いだった。世が世なら、菊は道場主として、竹刀を片手に彼と対峙するところだ。
 かつては私も剣道を嗜んだものです。腰痛に響くから、今はご勘弁願いたいけど。
 その道場破り、もといアルフレッドと、彼の四つ違いの兄アーサーは、昔はたいへん仲睦まじい兄弟だったそうだ(注:アーサー談)。
 きらきら光る空そのものの瞳、白いネグリジェが良く似合う天使のような少年は、少々傲慢で料理下手だが愛情深い兄に、とてもよく懐いていた。
 アーサーはこの弟を心底可愛がり、俺の手で立派な英国紳士に育ててみせると、熱意あふれる教育を施したらしい。
 しかしどこでどうねじ曲がったか、そもそもそれが悪かったのか、愛らしいアルフレッドは今や、
「俺がいつまでも君の言うことを聞くと思わないでくれよ! 俺はもう十分、大人なんだ!」
  と叫ぶや否や、バックパッカーのコスプレを手早く整え、その足で極東の友人の家へ押しかけてくるような男に成長した。彼の辞書に、事前に了承を取るなどという文字はない。
 ガリガリ君と、塩を振ったスイカ、そして週刊ジャンプの安穏な休日を台無しにされた菊は、海の向こうの友人を胸中で存分に呪わせて頂いた。 アーサーさん、恨みますよ。
 アルフレッドはもちろん菊の迷惑顔などお構いなしに、
「泊めてくれよ菊! 俺、家出して来たんだ!」
 と、突進の勢いで抱きついてきた。
 咄嗟に振り払えなかったのは、限りなく悟りに近い諦念のせいである。知り合ってからこっち、彼にこうして強引なお願いごと(婉曲表現)をされた回数は、もう数えるのも面倒くさい。
 夜空の星でもカウントした方が、まだしも早いかもしれなかった。ついでに、新しい星座でも見つかるかもしれないし。
 菊は長く深い息をつき、そして観念した。童顔東洋人として、実年齢に見合った扱いをされることの少ない菊であるが、実際は結構な年齢だった。
 アルフレッドなんて子どもいいところ、兄であるアーサーでさえ、年若い友人のカテゴリに入るのだ。どうも、子どもに全力で泣きつかれると、邪険にするのが難しい。

 とはいえ家出少年を匿うつもりもなかった菊は、アルフレッドに三種の神器を与えた。
 1、即席で揚げたフライドポテト、
 2、ハーゲンダッツのチョコミントアイス、
 3、新発売のアニメDVDボックス。
 アルフレッドの大好物ばかりである。あとはハンバーガーとコーラがあれば完璧だった。
 本田家の畳敷きの居間に食べ物を広げ、さっそく見逃していたアニメの上映に入ったアルフレッドを確認すると、菊はそーっと部屋を出た。
 とりあえず彼がおとなしくしているうちだ。菊は、さっさとアーサーに連絡を入れた。
「……そんなわけで、今うちにいらしてます。まあ、アルフレッドさんも興奮してらっしゃいますし、よろしければ、しばらくうちにいてくださってもいいかなと思うんですが……」
 菊は遠まわしな言い方をした。アルフレッドは、一度言い出したらまず簡単には引かない性格である。今説得したところで、到底聞く耳は持たないだろう。
『そうか』
 電話口のアーサーは、地に沈みこみそうなため息を落として沈黙した。目を覆って表情を隠す、彼の沈痛な仕草が思い出されて、菊はなんだか胸が痛くなった。別に己のせいでは全然ないが。
『……おまえのところなら安心だよな。色々迷惑をかけると思うが、よろしく頼む』
 すぐに迎えに行くから玄関に正座させておけ、くらいのことは言うかと思っていたアーサーの言いように、菊は正直ぽかんとした。
 その場で受話器を取り落とさなかったのは、かわいい愛犬ぽちくんが、足元で気遣わしげにクンクン言ってくれていたおかげだ。ぽちくんの頭上にこんな重たいものを落っことすわけにはいかない。
「アーサーさん……いいんですか?」
 思わず、聞く必要もない問いが零れてしまった。
『……あいつが、そこまで俺から離れたいというなら。そういう距離が必要な時期なんだろう』
 菊の良く知るアーサーが口にする言葉とは思えない。
 この人、このまま酒とドラッグのめくるめく海に飛び込むつもりなんじゃないだろうな――
 不謹慎な上ろくでもない想像が、菊の頭を某微笑み動画の長文コメントのような高速でよぎった。
 しかしアーサーは気持ちを切り替えたのか、その後は幾らかしっかりした調子で菊の近況を訊ね、そのままたわいもない世間話などをして、ふたりの会話は終わってしまった。
 なんてこった。
 菊は通話を終えた受話器を凝視した。あのアーサーが。
 そう言う時期なんだ、だと? 
 距離が必要、だと? 
 なにその物分りのいいアーサー?
 天然記念物みたいに珍しい――いやそんなもんじゃない、見たことも聞いたこともない現象だ。
 アニメの戦闘シーンに夢中になっているらしいアルフレッドの歓声が、障子越しに聞こえてくる。それはよく知っている少年の声のはずなのに、なんだかひどく遠い声に聞こえた。
作品名:ひまわり 作家名:リカ