月のない夜
俺はアンタを愛していた
月のない夜、告げられた思いに高杉は背を向けたまま目を細めた。煙管を吹かしながら睫毛を伏せると背後の男からは壮絶な覚悟だけが感じられた。それと共に生きたいのだという強い執着だ。眩しいものだと、高杉は思った。
「それなのに去るって?」
意地悪で訊いたつもりはない。ただ純粋な疑問だった。愛しているというのになぜここを去るのか。
「惚れた女が出来たんです」
まるで死地へ赴く直前の、遺言のような悲壮な響きにふいと笑いが込み上げる。
「俺よりもか」
「…アンタよりも、…」
そうか。
言葉と共に重苦しく吐息した。
男はそのむかし、高杉が鬼兵隊を率いていた頃からの男だった。半農の侍が多かったが例に漏れずこの男もそうだ。ただ国を天人から護りたいという強い思いだけで刀を振るった。だが、高杉と出会ってから、少しだけ方向がずれてしまった。本来なら鍬や鎌をもち、生産する喜びを味わう筈だった男は人を殺す道を選んだ。戦争が終わり幕府が天人に下り攘夷志士たちを狩り始め、鬼兵隊もその粛清にあった。しかし男は何とか生き延び高杉と別れたあとも、彼を追って今、ここにいる。それほどに高杉と彼の孤独な生き方に心を奪われていた男だった。決して、剣の腕は強くはなかった。しかし飯を炊くのが巧い男で、高杉のためによく握り飯を握っていた。ただそれだけの男だ。
「許して、貰えるとは思ってません。でも、これだけは言える。俺はアンタのためなら幾らでも死ねた。剣は強くなくてもアンタの盾にはなれる。アンタのために死ねるなら、あんたを護って死ねるなら、俺は本望だ。でも、でも…生きたいと、はじめて願っちまったんです」
「……」
「総督…」
「その女の名は」
「…みつ」
柔らかな響きの名だ。
「餞別はやれねェが達者で暮らしな」
「総督…いいんですかぃ」
勝手に追いかけてきたのは自分だ。そして高杉は全てを失くした男に居場所を与えてくれた。それなのに。
男は高杉に斬られる覚悟でいた。新設した鬼兵隊を脱退したいなど愚の骨頂だと自分で思う。だが、心は決まっていた。
「俺の気が変わらねぇうちに出てけ。今なら月も隠れてる」
闇に紛れて行くなら今しかない。
「総督…ありがとう、ございます。アンタのこと、俺は一生…」
「俺のことなんざ、さっさと忘れちまえ。覚えてたって一文の得にもなりやしねぇ」
忘れられるわけはない。この人のために命を賭しても惜しくはないとそう思える人に、人生で幾人出会えるというのだろう。
「いいや。忘れない。総督、俺はあんたを愛してたんです」
胸を打つような響きだ。けれど高杉には虚しく聞えるばかりで胸は焦げ付かない。
「もう何も言うな。俺に斬られねぇうちにさっさと行っちまえ!」
あの頃から、変わってしまった鬼兵隊という存在の意義。変わってしまった高杉。けれど本当にそうだろうかと男は思う。少なくとも、自分の愛した高杉は根本的な根っこの部分では何ひとつ、変わっていやしないと男は思っていた。
男は唇を噛み締めたまま、深く深く、頭を垂れた。
幾許かして、男の気配が背後から消えた。それと同時に、物陰から万斉が音もなく姿を現し去って行った男の背を見送った。
「裏切り者には死を、でござろう」
「…」
「どこでどう、晋助の、鬼兵隊の情報が漏れるかわからぬ」
「……」
「消せる火種は消しておくに限る」
「……」
「誰かひとりの裏切りを許せば、規律が乱れやがて亀裂が生じるでござる」
至極尤もな意見に、高杉は肩を揺らして笑った。
「ク、万斉、ヅラみてぇなこと言ってんじゃねェよ」
「晋助」
咎めるように名を呼ぶ万斎を、高杉は振り返った。
「……万斉」
万斉が人を斬る前に、こういった確認ごとを口にしたことはない。少なくとも、高杉は知らない。じゃりと薄っぺらい高杉の草履が音を立てて砂を踏む。相変わらず煙管を口元に運びながら首を振った。
「必要ねぇ」
「晋助」
高杉らしからぬ甘さだと、万斉は眉を寄せた。彼は彼の元を去る人間を憎悪する。そして憎しみと裏腹に怯えを感じているのだ。だからこそ背を向ける。目を向けることが出来ない。それなのに今日に限って、高杉は男を許したのだ。
「今日は寒ぃな…随分と冷え込みやがる」
春になったというのに。
そうぼんやり呟いて、真っ黒い空を見上げて踵を返した。
「囲炉裏に火ぃ入れろ。酒を飲もうぜ」
擦れ違う肩を、万斉は無遠慮に掴む。驚いた高杉が振り仰いだ。だがやがて薄い肩を引き寄せて万斉は高杉を抱き寄せた。思わず、その強い力に息が止まる。羽織りがくしゃりと皺をつくった。
「…何のつもりだ、おい」
「拙者は晋助の望むものを望むだけ与える」
「…」
「それが拙者のただひとつの望みでござる」
「利害一致ってわけだろう。そんな話はゴマンと聞いたぜ」
ゆっくりと、万斉の骨ばった指が驚くほど繊細な仕草で高杉の顎を撫ぜる。
「今、俺がてめぇを欲してるって?」
「違うのでござるか」
意外そうな顔でいながら自信たっぷりの答えに高杉は苦笑した。そういえば自分は万斉のこういうところに好感をもっていた。
「俺はてめえのそういうところは嫌いじゃねぇ」
ゆっくりと指をもちあげ、万斉の腕に触れた。獣の皮を加工して作った服の上からでも彼の筋肉の動きがよくわかった。人斬りの腕だ。それから疲れたように彼の肩に額を預けて目を閉じた。
「寒い、あっためろ」
「了解した」
それから二月ほどたったころ、万斉は高杉が逃がした男が攘夷志士として幕府に掴まり処刑されたことを京に訪ねたみつの口から知った。みつは攘夷志士とはまるで関わりのない女だったが、どうしても高杉に渡したいものがあると必死で京を探しあぐね、とうとう攘夷志士が多く出入りするという茶屋を見つけて、運命の悪戯か万斉とであったのだ。そこに高杉の姿はなかったが、高杉の側近であると告げるとみつは疲れたように笑って俯いた。
みつの話はこう続く。
みつと共に江戸に渡った元鬼兵隊の彼の顔を覚えている役人がたまたま見かけたのだそうだ。捕えられ、拷問に近い酷い責め苦を味わったそうだが、彼は頑として高杉の所在を話さなかったという。
万斉はそれを何の感慨もなく淡々と聞いていた。おそらく、みつが万斉にではなく、万斉という男の向こうにいるであろう高杉に向かって言葉を紡いでいたからだ。
みつは最後にこう言った。
「あの人はわたしを愛してくれていましたが、いつも心の深い場所に誰か違うひとの存在を感じていました。命を賭すべき誰か。けれど私を選んだ事を後悔している素振りはみせませんでした。私もそんな彼をとても愛しました。僅かの時間でしたが、そんな時間をくれた…高杉さんに、どうしても渡したかったのです」
そう言って彼女は手を差し出した。その掌に乗っていたのは小さな守り袋だった。
「彼の遺品です。自分は米を作ることしか能がなかったが、高杉さんと出会うことで誰かの役に立つことができたと。彼は鬼兵隊を抜けながら、最後まで高杉さんに恥じぬような立派な志士でありました。ですから迷惑かもしれませんが、どうぞ高杉さんに渡して下さい」
月のない夜、告げられた思いに高杉は背を向けたまま目を細めた。煙管を吹かしながら睫毛を伏せると背後の男からは壮絶な覚悟だけが感じられた。それと共に生きたいのだという強い執着だ。眩しいものだと、高杉は思った。
「それなのに去るって?」
意地悪で訊いたつもりはない。ただ純粋な疑問だった。愛しているというのになぜここを去るのか。
「惚れた女が出来たんです」
まるで死地へ赴く直前の、遺言のような悲壮な響きにふいと笑いが込み上げる。
「俺よりもか」
「…アンタよりも、…」
そうか。
言葉と共に重苦しく吐息した。
男はそのむかし、高杉が鬼兵隊を率いていた頃からの男だった。半農の侍が多かったが例に漏れずこの男もそうだ。ただ国を天人から護りたいという強い思いだけで刀を振るった。だが、高杉と出会ってから、少しだけ方向がずれてしまった。本来なら鍬や鎌をもち、生産する喜びを味わう筈だった男は人を殺す道を選んだ。戦争が終わり幕府が天人に下り攘夷志士たちを狩り始め、鬼兵隊もその粛清にあった。しかし男は何とか生き延び高杉と別れたあとも、彼を追って今、ここにいる。それほどに高杉と彼の孤独な生き方に心を奪われていた男だった。決して、剣の腕は強くはなかった。しかし飯を炊くのが巧い男で、高杉のためによく握り飯を握っていた。ただそれだけの男だ。
「許して、貰えるとは思ってません。でも、これだけは言える。俺はアンタのためなら幾らでも死ねた。剣は強くなくてもアンタの盾にはなれる。アンタのために死ねるなら、あんたを護って死ねるなら、俺は本望だ。でも、でも…生きたいと、はじめて願っちまったんです」
「……」
「総督…」
「その女の名は」
「…みつ」
柔らかな響きの名だ。
「餞別はやれねェが達者で暮らしな」
「総督…いいんですかぃ」
勝手に追いかけてきたのは自分だ。そして高杉は全てを失くした男に居場所を与えてくれた。それなのに。
男は高杉に斬られる覚悟でいた。新設した鬼兵隊を脱退したいなど愚の骨頂だと自分で思う。だが、心は決まっていた。
「俺の気が変わらねぇうちに出てけ。今なら月も隠れてる」
闇に紛れて行くなら今しかない。
「総督…ありがとう、ございます。アンタのこと、俺は一生…」
「俺のことなんざ、さっさと忘れちまえ。覚えてたって一文の得にもなりやしねぇ」
忘れられるわけはない。この人のために命を賭しても惜しくはないとそう思える人に、人生で幾人出会えるというのだろう。
「いいや。忘れない。総督、俺はあんたを愛してたんです」
胸を打つような響きだ。けれど高杉には虚しく聞えるばかりで胸は焦げ付かない。
「もう何も言うな。俺に斬られねぇうちにさっさと行っちまえ!」
あの頃から、変わってしまった鬼兵隊という存在の意義。変わってしまった高杉。けれど本当にそうだろうかと男は思う。少なくとも、自分の愛した高杉は根本的な根っこの部分では何ひとつ、変わっていやしないと男は思っていた。
男は唇を噛み締めたまま、深く深く、頭を垂れた。
幾許かして、男の気配が背後から消えた。それと同時に、物陰から万斉が音もなく姿を現し去って行った男の背を見送った。
「裏切り者には死を、でござろう」
「…」
「どこでどう、晋助の、鬼兵隊の情報が漏れるかわからぬ」
「……」
「消せる火種は消しておくに限る」
「……」
「誰かひとりの裏切りを許せば、規律が乱れやがて亀裂が生じるでござる」
至極尤もな意見に、高杉は肩を揺らして笑った。
「ク、万斉、ヅラみてぇなこと言ってんじゃねェよ」
「晋助」
咎めるように名を呼ぶ万斎を、高杉は振り返った。
「……万斉」
万斉が人を斬る前に、こういった確認ごとを口にしたことはない。少なくとも、高杉は知らない。じゃりと薄っぺらい高杉の草履が音を立てて砂を踏む。相変わらず煙管を口元に運びながら首を振った。
「必要ねぇ」
「晋助」
高杉らしからぬ甘さだと、万斉は眉を寄せた。彼は彼の元を去る人間を憎悪する。そして憎しみと裏腹に怯えを感じているのだ。だからこそ背を向ける。目を向けることが出来ない。それなのに今日に限って、高杉は男を許したのだ。
「今日は寒ぃな…随分と冷え込みやがる」
春になったというのに。
そうぼんやり呟いて、真っ黒い空を見上げて踵を返した。
「囲炉裏に火ぃ入れろ。酒を飲もうぜ」
擦れ違う肩を、万斉は無遠慮に掴む。驚いた高杉が振り仰いだ。だがやがて薄い肩を引き寄せて万斉は高杉を抱き寄せた。思わず、その強い力に息が止まる。羽織りがくしゃりと皺をつくった。
「…何のつもりだ、おい」
「拙者は晋助の望むものを望むだけ与える」
「…」
「それが拙者のただひとつの望みでござる」
「利害一致ってわけだろう。そんな話はゴマンと聞いたぜ」
ゆっくりと、万斉の骨ばった指が驚くほど繊細な仕草で高杉の顎を撫ぜる。
「今、俺がてめぇを欲してるって?」
「違うのでござるか」
意外そうな顔でいながら自信たっぷりの答えに高杉は苦笑した。そういえば自分は万斉のこういうところに好感をもっていた。
「俺はてめえのそういうところは嫌いじゃねぇ」
ゆっくりと指をもちあげ、万斉の腕に触れた。獣の皮を加工して作った服の上からでも彼の筋肉の動きがよくわかった。人斬りの腕だ。それから疲れたように彼の肩に額を預けて目を閉じた。
「寒い、あっためろ」
「了解した」
それから二月ほどたったころ、万斉は高杉が逃がした男が攘夷志士として幕府に掴まり処刑されたことを京に訪ねたみつの口から知った。みつは攘夷志士とはまるで関わりのない女だったが、どうしても高杉に渡したいものがあると必死で京を探しあぐね、とうとう攘夷志士が多く出入りするという茶屋を見つけて、運命の悪戯か万斉とであったのだ。そこに高杉の姿はなかったが、高杉の側近であると告げるとみつは疲れたように笑って俯いた。
みつの話はこう続く。
みつと共に江戸に渡った元鬼兵隊の彼の顔を覚えている役人がたまたま見かけたのだそうだ。捕えられ、拷問に近い酷い責め苦を味わったそうだが、彼は頑として高杉の所在を話さなかったという。
万斉はそれを何の感慨もなく淡々と聞いていた。おそらく、みつが万斉にではなく、万斉という男の向こうにいるであろう高杉に向かって言葉を紡いでいたからだ。
みつは最後にこう言った。
「あの人はわたしを愛してくれていましたが、いつも心の深い場所に誰か違うひとの存在を感じていました。命を賭すべき誰か。けれど私を選んだ事を後悔している素振りはみせませんでした。私もそんな彼をとても愛しました。僅かの時間でしたが、そんな時間をくれた…高杉さんに、どうしても渡したかったのです」
そう言って彼女は手を差し出した。その掌に乗っていたのは小さな守り袋だった。
「彼の遺品です。自分は米を作ることしか能がなかったが、高杉さんと出会うことで誰かの役に立つことができたと。彼は鬼兵隊を抜けながら、最後まで高杉さんに恥じぬような立派な志士でありました。ですから迷惑かもしれませんが、どうぞ高杉さんに渡して下さい」