水の器 鋼の翼番外1
1.
はっきり言って、異常だ。
まともな感性と度胸を持つ人間がここにいたなら、迷わず彼にこう忠告しただろう。不幸にも、そんな人間はここにいなかったし、例え何と忠告されようと彼は自分のスタイルを変える気なんてこれっぽっちもなかった。
西ドミノ地区、アーケード街。平日ながら、アーケード中に買い物客がごった返しているこの街だが、この日ばかりは何かが根本的に違っていた。
大きな人の流れが、ある個所で二つにずざざざざと分断されていくのが遠目からでも見て取れる。その分かれ目の中心部に、その男は堂々と立っていた。褐色を帯びた彼の顔が、黒いフードの影に見え隠れしている。
今の彼の服装と言ったら黒装束以外の何物でもない。その上、フードに施された白い刺繍が、彼の異様さに妙なアクセントを加えている。遠目から見たら、奇妙な文様が描かれた黒い柱が、人ごみの中に立っているようにしか見えなかった。
男にしても、こんな人ごみは早く抜け出したかった。これが重要な使命でなかったら、そもそもこんなところには来ない。
「ゼーマン」
〈お呼びか、ディマク様〉
黒装束の男……ディマクの呼びかけに応え、彼の配下のカードの精霊が半透明の姿で現れた。名を《猿魔王ゼーマン》という。
ディマクは、苛立ちを隠さない様子でゼーマンに何度目かの問いを投げかける。
「ゼーマン。神々のおわす冥府の扉の鍵は、未だ地に紛れているのか」
〈ディマク様。ここは人の気配が強すぎて、崇高なる神々の息吹さえもかき消されてしまう。今しばらくのご辛抱を〉
「む……」
彼らの会話は回りくどい。要するに、「冥府の扉はどこだ」「まだ見つからないよ、っていうか人ごみがすごすぎるよ!」という感じだ、意味合いとしては。
二人にとっては何ということもない会話だが、傍から見ると不気味以外の何物でもない。しかも、ゼーマンの方は普通の人間には全く視認できないのだ。なので周囲の人々に見えるのは、妙な独り言をつぶやいている怪しい黒ずくめの男だけ。
それも、ディマクとゼーマンにとってはどうでもいいことだった。敵対する神の元で創られた秩序に、彼らは全く興味がない。
この星では、神々の戦いが幾度となく繰り返されてきた。
一方は、赤き竜。もう一方が、冥府の神々。双方とも、五千年周期で蘇って来ては、様々な形で争いを繰り広げる。勝者は星の支配権を五千年分獲得し、敗者は星の大地に縛りつけられる。そして、五千年を経た後に再び蘇り、戦いが繰り返される。
遥かな昔、彼らは己の力のみで戦っていたという。だが、一万年前に一人の人間が神々の戦いに介入してから、戦争のルールは一変した。戦争が始まる直前、神々はまずこの星に住む人間に力を与えて己の駒にする。準備が整ったらこの星を舞台に、お互いの駒を戦わせるのだ。この星の人間は、これらの駒のことをこう呼んでいる。赤き竜の駒は「シグナー」。冥府の神の駒は「ダークシグナー」と。
赤き竜も冥府の神々も、己の駒や信奉者には多大な加護をもたらす。ディマクは、冥府の神を崇拝する一族の出身だった。
ディマクがわざわざこの街に来たのには訳がある。神々が蘇る時に共に現れるという「冥府の扉」を探しに来たのだ。戦いが始まるに当たって、一族の長に神託が下った。「冥府の扉は、日本のドミノシティに開く」と。
『ディマク。必ずや冥府の扉を見つけ出し、我らの神に仕えよ。今回こそは、赤き竜を打ち負かし、神々にこの世界を捧げるのだ』
ディマクが属する神々の陣営は、ここのところ二回連続で赤き竜の陣営に敗北していた。今回の戦いで負けてしまったら、神々は更に五千年大地に縛られてしまう。信奉者の不手際で、神々にそんな不自由をさせる訳にはいかない。今度こそ、何としてでも神々を勝たせたい。それがディマクの一族の望みだった。
一族全ての期待を背負って、ディマクとゼーマンはここにいる。
ゼーマンは、配下である猿の軍勢を率いて、ドミノシティ中を捜索していた。猿の兵士が時折ゼーマンの元に来ては、一言二言報告し、再び街中に戻っていく。
カースド・ニ―ドルを構えた猿が分隊をなし、街の歩道を我が物顔で走り回っている。今や、ドミノシティは大人数の猿の兵士で溢れ返っていた。もし、街の人間にこの光景が全部見えていたら、今ごろ大騒ぎになっていただろう。
アーケードをよちよちと歩いていた小さな女の子が、ひっ、と悲鳴を上げて母親の元に逃げ帰る。だが、母親はおろかその場の大人の誰一人として、女の子が何に怯えているか理解できなかった。
ディマクは、ゼーマンと一緒になって冥府の扉を捜索しつつ、扉のことを想像してみた。
神々の世界に通じる、神聖な扉。それは一体どんな形をしたものなのだろうか。ディマクの故郷にある、闇の神殿にあるような頑丈な石の扉のようなものか。それとも、光を通さない漆黒の帳のようなものなのか。「扉」というくらいだ。きっとそれなりの形なのだろう。
そんなことをつらつらと考えていたディマクだったが。
〈ディマク様。ディマク様〉
隣にいたゼーマンが、ちょいちょいとディマクのマントを引っ張って呼びかけていた。
「何だ、ゼーマン」
〈秩序のしもべ共が、何やら騒いでいるぞ〉
「……」
後ろから警官が二人、ディマク達の方へと駆けて来るのが見えた。彼らはディマクに対してこう言っている。怪しい奴、そこに止まれ、と。
「まずいな」
敵対する神の元で創られた秩序に、彼らは全く興味がない。断じてないのだが、ここまで来て流石に警察には捕まりたくはない。もしここで逮捕されて神々の戦いに参戦できずじまいになったら、一族郎党と神々に申し訳が立たないではないか。
ディマクはマントをひらりと翻し、アーケード街の出口に向かって走り出した。ゼーマンがその後に続く。人の流れが、ディマクを避けてささっと二つに分かれる。おかげで、ディマクは人をかき分けて進む手間が省けた。
アーケード街の出口を抜けて路地に入る直前、ディマクは警官たちをちらりと見た。ゼーマン配下の猿が数匹、カースド・ニ―ドルを警官の脚に引っかけて転ばそうとしているのが見えた。
はっきり言って、異常だ。
まともな感性と度胸を持つ人間がここにいたなら、迷わず彼にこう忠告しただろう。不幸にも、そんな人間はここにいなかったし、例え何と忠告されようと彼は自分のスタイルを変える気なんてこれっぽっちもなかった。
西ドミノ地区、アーケード街。平日ながら、アーケード中に買い物客がごった返しているこの街だが、この日ばかりは何かが根本的に違っていた。
大きな人の流れが、ある個所で二つにずざざざざと分断されていくのが遠目からでも見て取れる。その分かれ目の中心部に、その男は堂々と立っていた。褐色を帯びた彼の顔が、黒いフードの影に見え隠れしている。
今の彼の服装と言ったら黒装束以外の何物でもない。その上、フードに施された白い刺繍が、彼の異様さに妙なアクセントを加えている。遠目から見たら、奇妙な文様が描かれた黒い柱が、人ごみの中に立っているようにしか見えなかった。
男にしても、こんな人ごみは早く抜け出したかった。これが重要な使命でなかったら、そもそもこんなところには来ない。
「ゼーマン」
〈お呼びか、ディマク様〉
黒装束の男……ディマクの呼びかけに応え、彼の配下のカードの精霊が半透明の姿で現れた。名を《猿魔王ゼーマン》という。
ディマクは、苛立ちを隠さない様子でゼーマンに何度目かの問いを投げかける。
「ゼーマン。神々のおわす冥府の扉の鍵は、未だ地に紛れているのか」
〈ディマク様。ここは人の気配が強すぎて、崇高なる神々の息吹さえもかき消されてしまう。今しばらくのご辛抱を〉
「む……」
彼らの会話は回りくどい。要するに、「冥府の扉はどこだ」「まだ見つからないよ、っていうか人ごみがすごすぎるよ!」という感じだ、意味合いとしては。
二人にとっては何ということもない会話だが、傍から見ると不気味以外の何物でもない。しかも、ゼーマンの方は普通の人間には全く視認できないのだ。なので周囲の人々に見えるのは、妙な独り言をつぶやいている怪しい黒ずくめの男だけ。
それも、ディマクとゼーマンにとってはどうでもいいことだった。敵対する神の元で創られた秩序に、彼らは全く興味がない。
この星では、神々の戦いが幾度となく繰り返されてきた。
一方は、赤き竜。もう一方が、冥府の神々。双方とも、五千年周期で蘇って来ては、様々な形で争いを繰り広げる。勝者は星の支配権を五千年分獲得し、敗者は星の大地に縛りつけられる。そして、五千年を経た後に再び蘇り、戦いが繰り返される。
遥かな昔、彼らは己の力のみで戦っていたという。だが、一万年前に一人の人間が神々の戦いに介入してから、戦争のルールは一変した。戦争が始まる直前、神々はまずこの星に住む人間に力を与えて己の駒にする。準備が整ったらこの星を舞台に、お互いの駒を戦わせるのだ。この星の人間は、これらの駒のことをこう呼んでいる。赤き竜の駒は「シグナー」。冥府の神の駒は「ダークシグナー」と。
赤き竜も冥府の神々も、己の駒や信奉者には多大な加護をもたらす。ディマクは、冥府の神を崇拝する一族の出身だった。
ディマクがわざわざこの街に来たのには訳がある。神々が蘇る時に共に現れるという「冥府の扉」を探しに来たのだ。戦いが始まるに当たって、一族の長に神託が下った。「冥府の扉は、日本のドミノシティに開く」と。
『ディマク。必ずや冥府の扉を見つけ出し、我らの神に仕えよ。今回こそは、赤き竜を打ち負かし、神々にこの世界を捧げるのだ』
ディマクが属する神々の陣営は、ここのところ二回連続で赤き竜の陣営に敗北していた。今回の戦いで負けてしまったら、神々は更に五千年大地に縛られてしまう。信奉者の不手際で、神々にそんな不自由をさせる訳にはいかない。今度こそ、何としてでも神々を勝たせたい。それがディマクの一族の望みだった。
一族全ての期待を背負って、ディマクとゼーマンはここにいる。
ゼーマンは、配下である猿の軍勢を率いて、ドミノシティ中を捜索していた。猿の兵士が時折ゼーマンの元に来ては、一言二言報告し、再び街中に戻っていく。
カースド・ニ―ドルを構えた猿が分隊をなし、街の歩道を我が物顔で走り回っている。今や、ドミノシティは大人数の猿の兵士で溢れ返っていた。もし、街の人間にこの光景が全部見えていたら、今ごろ大騒ぎになっていただろう。
アーケードをよちよちと歩いていた小さな女の子が、ひっ、と悲鳴を上げて母親の元に逃げ帰る。だが、母親はおろかその場の大人の誰一人として、女の子が何に怯えているか理解できなかった。
ディマクは、ゼーマンと一緒になって冥府の扉を捜索しつつ、扉のことを想像してみた。
神々の世界に通じる、神聖な扉。それは一体どんな形をしたものなのだろうか。ディマクの故郷にある、闇の神殿にあるような頑丈な石の扉のようなものか。それとも、光を通さない漆黒の帳のようなものなのか。「扉」というくらいだ。きっとそれなりの形なのだろう。
そんなことをつらつらと考えていたディマクだったが。
〈ディマク様。ディマク様〉
隣にいたゼーマンが、ちょいちょいとディマクのマントを引っ張って呼びかけていた。
「何だ、ゼーマン」
〈秩序のしもべ共が、何やら騒いでいるぞ〉
「……」
後ろから警官が二人、ディマク達の方へと駆けて来るのが見えた。彼らはディマクに対してこう言っている。怪しい奴、そこに止まれ、と。
「まずいな」
敵対する神の元で創られた秩序に、彼らは全く興味がない。断じてないのだが、ここまで来て流石に警察には捕まりたくはない。もしここで逮捕されて神々の戦いに参戦できずじまいになったら、一族郎党と神々に申し訳が立たないではないか。
ディマクはマントをひらりと翻し、アーケード街の出口に向かって走り出した。ゼーマンがその後に続く。人の流れが、ディマクを避けてささっと二つに分かれる。おかげで、ディマクは人をかき分けて進む手間が省けた。
アーケード街の出口を抜けて路地に入る直前、ディマクは警官たちをちらりと見た。ゼーマン配下の猿が数匹、カースド・ニ―ドルを警官の脚に引っかけて転ばそうとしているのが見えた。
作品名:水の器 鋼の翼番外1 作家名:うるら