カナリア
久しぶりの江戸は相も変わらずの騒がしさと忙しなさを有していて駅について電車を降りるたびに安穏な思いが胸を支配する。ここは京とも、自分の生まれ故郷ともまるで違う。埋もれて生きていくには丁度よい人の多さと適度な無関心、そして雑多さを含んでいた。
手配書はそれこそ山のように出回っている筈だが、編み笠すら被らずに駅に立っているというのに誰も見向きもしない。時折、どこぞの侍崩れが女物の着物を身に纏い踊り子のような姿をしている高杉の腰にある漆黒の鞘に入った刀をみてぎょっとしている。
しかし、呑気なものだ。
稀代のテロリストと呼ばれている自分がここに立っていてもこの有様なのだから、この町の自衛手段などたかが知れているのだ。
どれほど護ろうとしても死ぬ時は死ぬし、生きる時は生きる。
そんなものだ。
己でさえ、まだこの地に足をつけているのだから。
「……」
人の流れにざっと目を遣って、高杉は歩き出した。
別段、誰を斬りに来た訳でもなければ騒ぎを起こしたいわけでもない。高杉の今回の江戸来訪の目的はただ一つ、ある男に逢うことだった。
名を村田鉄也、何のことはない。
鍛冶屋だ。
知っているのは男の名と職業、そして鍛冶打ちをしている場所だけだ。
人の流れに紛れて歩く事は高杉にとって苦ではない。人に紛れようと呑まれようと魂さえ汚れていなければ構わないとそう思っていた。だが、高杉の右半分はもう黒く穢れている。そして遺された半身でさえ、泥に塗れようとしていたことに高杉自身はすでに気づいていた。気づいていながら歩むことをやめない。もう止まる事など出来ないと知っていたからだ。終着の場が欲しいと、そう願っていた。
駅からほんの僅かの距離だ。
車は使わず足を使って歩く。
大体、高杉は天人の用いた技術を使って作られた乗り物というものが好きではない。好きではないが利用出来るときは利用する。合理性を重視するように己で己の心を律していた。だからこうして急がない時や気分ではないとき、高杉はよく歩いた。昔から皆に比べて体力がないと揶揄した男たちは、今この空の下のどこかに在るのだろう。ちらりとそんなことを思ったがあえて無視する。考えても自分が虚しくなるだけだと知りすぎるほど知っていたからだ。
高杉が、その鍛冶屋の前に辿りついたのは、もう夕方のことだ。昼過ぎについた高杉が気ままに歩いて向かう途中で、神社の秋祭りをやっているところに出会いついつい足を止めた。更には呉服屋の前でも歩みが遅くなり薄紅色の反物を一反購入して京へと送る。着の身着のまま寄り道を繰り返していたら、すっかり日が西へと傾いてしまっていた。
はじめ、自宅の表玄関に立って割と大きな家を見上げたが、どうやら無人のようだ。気にせず高杉は裏の作業場へと廻るとむっとした熱気と共に鉄を打つ音が高杉の鼓膜を震わせる。
懐かしい匂いがした。
あの頃、武器を一つでも多く手に入れようと躍起になって鍛冶屋を廻っていたことがある。天人を殺せるならなんでも良いわけではなかった。自分たちは侍であり、侍は誇り高くあらねばならないとは誰より愛した師、吉田松陽の言葉だ。高杉には幼い頃から彼の言葉、声、思想が強く根付いているのを自覚しているしそれで構わないと思っていた。父親には随分と煙たがられていたのも知っているが高杉には松陽の言葉を捨てることなど出来なかった。侍にとって刀は魂であり、己自身だ。それを捨てることは自分を捨てることであると同義だ。
だがあの銀髪は捨て去ってしまった。いとも簡単に、たやすく、その手から放り出した。そしてあの男はいまも飄々と生きている。重い荷物はもう持ちたくないと去った筈の男の傍らには利発そうな子どもが二人いた。捨てたくせにまた新しく抱え込んで、彼は捨てられたもののことなど考えもしない。そういう男だ。彼の目の届く範囲にあるものはそれこそ、命を賭けて守るくせにその手を離れた瞬間に彼の目は逸らされる。
奥歯を噛み締める。
「……」
何時の間にか握った掌に強く爪を立てていることに気づいて、自嘲し力を弛めた。
今更考えても仕方のないことなのに。
落ち葉を踏みながら開け放たれた戸口に立って、一心不乱に刀を打ち込み続ける男を暫し黙ってみていた。一定のリズムをもって規則的に力強く打たれる音を聞いていると万斉あたりが喜びそうだ。瞼を閉じればそれだけでなぜか精錬な気持ちになった。だが、それだけではない。男の打つ音にはどこか禍々しい気が混じっている。その重く沈んだ気に高杉はにやりと口元を歪めた。
ふいに鉄也の腕が止まる。
顔をあげてこちらをみた鉄也は汗に塗れていた。長い髪は頬や額にはりつき、その癖唇は乾いてしまっている。水分不足だ。薄汚れた頬を見つめながら高杉はふと誰かを思い出している自分に気づく。そういえば、彼もこうして汗と油に塗れていたなと懐かしさが込み上げるが顔には出さずに身体を傾けて戸口に凭れかかった。
「俺のことは気にせず続けてくれ」
「貴殿は…」
見知らぬ男が立っていることに鉄也は些か驚いたのか警戒するように眉を寄せた。しかし曖昧に笑った高杉の腰に差してある漆黒の鞘をみて鉄也は僅かに目を見張る。
「俺ァ、人が何かに打ち込んでいる姿を見るのが好きな性質でね、少し見せて貰うぜ?」
これは真実だ。
むかし、三郎という男がからくりを弄り回している姿を飽きもせず夜通し眺めていたこともある。ぽつぽつと彼の思い出話を聞きながら共にすごした時はどれほどかけがえのないものだったのか、計り知れずにいる。それを思い出して高杉は胸の内で自嘲した。
可笑しいことにここに来てからやたらと過去ばかり脳裏を過ぎる。感傷に浸っているつもりはないがどうしたのだろう。
「侍か」
えらく直球な問いに苦笑する。
「侍だ」
けれど即答した。己がいまだ侍であることに誇りを持っている。下らぬプライドだと思うが今の高杉を支えているものはただの一つ。自分が侍だということだけだ。
「そうか、なら見ていかれるがよい」
鉄也の声は低く、大きく、なおかつよく響く。彼の声こそ打てば響く鉄のようだと思った。その声が高杉の胸を酷く擽っている。
筋肉質な腕が振り上がり勢いよく下される。小さな火花が散った。
刀匠というものは、こうも無垢で純粋な目をしているものだろうか。再び戸口に寄りかかり、僅かに斜めに鉄也を見るが彼の真っ直ぐな目は歪んでは見えなかった。
総督、と誰かに呼ばれた気がして胸を掻き毟りたくなるような衝動を堪える。必死に眉を寄せて奥歯を噛んだ。けれど、だからこそ自分の足でここに来たかったのかもしれない。確かめるために、来たかったのだ。
それから一時間ほどのち、高杉は鉄也の家の縁側に彼と並んで座っていた。出して貰った茶には口をつけず、黙って空を眺めている。秋空の、よく晴れた空だ。けれど、幾度か咳いたので喉を潤すために質素だが形の良い茶碗を持って一口、番茶を口に含んだ。
「高杉晋助…?」
名乗った高杉に、鉄也は目を見張る。
どこかで聞いたことのある名だ。思い出そうとして彼の包帯に覆われた左目で気づく。
「では、もしや貴殿は攘夷志士の高杉晋助殿か」
手配書はそれこそ山のように出回っている筈だが、編み笠すら被らずに駅に立っているというのに誰も見向きもしない。時折、どこぞの侍崩れが女物の着物を身に纏い踊り子のような姿をしている高杉の腰にある漆黒の鞘に入った刀をみてぎょっとしている。
しかし、呑気なものだ。
稀代のテロリストと呼ばれている自分がここに立っていてもこの有様なのだから、この町の自衛手段などたかが知れているのだ。
どれほど護ろうとしても死ぬ時は死ぬし、生きる時は生きる。
そんなものだ。
己でさえ、まだこの地に足をつけているのだから。
「……」
人の流れにざっと目を遣って、高杉は歩き出した。
別段、誰を斬りに来た訳でもなければ騒ぎを起こしたいわけでもない。高杉の今回の江戸来訪の目的はただ一つ、ある男に逢うことだった。
名を村田鉄也、何のことはない。
鍛冶屋だ。
知っているのは男の名と職業、そして鍛冶打ちをしている場所だけだ。
人の流れに紛れて歩く事は高杉にとって苦ではない。人に紛れようと呑まれようと魂さえ汚れていなければ構わないとそう思っていた。だが、高杉の右半分はもう黒く穢れている。そして遺された半身でさえ、泥に塗れようとしていたことに高杉自身はすでに気づいていた。気づいていながら歩むことをやめない。もう止まる事など出来ないと知っていたからだ。終着の場が欲しいと、そう願っていた。
駅からほんの僅かの距離だ。
車は使わず足を使って歩く。
大体、高杉は天人の用いた技術を使って作られた乗り物というものが好きではない。好きではないが利用出来るときは利用する。合理性を重視するように己で己の心を律していた。だからこうして急がない時や気分ではないとき、高杉はよく歩いた。昔から皆に比べて体力がないと揶揄した男たちは、今この空の下のどこかに在るのだろう。ちらりとそんなことを思ったがあえて無視する。考えても自分が虚しくなるだけだと知りすぎるほど知っていたからだ。
高杉が、その鍛冶屋の前に辿りついたのは、もう夕方のことだ。昼過ぎについた高杉が気ままに歩いて向かう途中で、神社の秋祭りをやっているところに出会いついつい足を止めた。更には呉服屋の前でも歩みが遅くなり薄紅色の反物を一反購入して京へと送る。着の身着のまま寄り道を繰り返していたら、すっかり日が西へと傾いてしまっていた。
はじめ、自宅の表玄関に立って割と大きな家を見上げたが、どうやら無人のようだ。気にせず高杉は裏の作業場へと廻るとむっとした熱気と共に鉄を打つ音が高杉の鼓膜を震わせる。
懐かしい匂いがした。
あの頃、武器を一つでも多く手に入れようと躍起になって鍛冶屋を廻っていたことがある。天人を殺せるならなんでも良いわけではなかった。自分たちは侍であり、侍は誇り高くあらねばならないとは誰より愛した師、吉田松陽の言葉だ。高杉には幼い頃から彼の言葉、声、思想が強く根付いているのを自覚しているしそれで構わないと思っていた。父親には随分と煙たがられていたのも知っているが高杉には松陽の言葉を捨てることなど出来なかった。侍にとって刀は魂であり、己自身だ。それを捨てることは自分を捨てることであると同義だ。
だがあの銀髪は捨て去ってしまった。いとも簡単に、たやすく、その手から放り出した。そしてあの男はいまも飄々と生きている。重い荷物はもう持ちたくないと去った筈の男の傍らには利発そうな子どもが二人いた。捨てたくせにまた新しく抱え込んで、彼は捨てられたもののことなど考えもしない。そういう男だ。彼の目の届く範囲にあるものはそれこそ、命を賭けて守るくせにその手を離れた瞬間に彼の目は逸らされる。
奥歯を噛み締める。
「……」
何時の間にか握った掌に強く爪を立てていることに気づいて、自嘲し力を弛めた。
今更考えても仕方のないことなのに。
落ち葉を踏みながら開け放たれた戸口に立って、一心不乱に刀を打ち込み続ける男を暫し黙ってみていた。一定のリズムをもって規則的に力強く打たれる音を聞いていると万斉あたりが喜びそうだ。瞼を閉じればそれだけでなぜか精錬な気持ちになった。だが、それだけではない。男の打つ音にはどこか禍々しい気が混じっている。その重く沈んだ気に高杉はにやりと口元を歪めた。
ふいに鉄也の腕が止まる。
顔をあげてこちらをみた鉄也は汗に塗れていた。長い髪は頬や額にはりつき、その癖唇は乾いてしまっている。水分不足だ。薄汚れた頬を見つめながら高杉はふと誰かを思い出している自分に気づく。そういえば、彼もこうして汗と油に塗れていたなと懐かしさが込み上げるが顔には出さずに身体を傾けて戸口に凭れかかった。
「俺のことは気にせず続けてくれ」
「貴殿は…」
見知らぬ男が立っていることに鉄也は些か驚いたのか警戒するように眉を寄せた。しかし曖昧に笑った高杉の腰に差してある漆黒の鞘をみて鉄也は僅かに目を見張る。
「俺ァ、人が何かに打ち込んでいる姿を見るのが好きな性質でね、少し見せて貰うぜ?」
これは真実だ。
むかし、三郎という男がからくりを弄り回している姿を飽きもせず夜通し眺めていたこともある。ぽつぽつと彼の思い出話を聞きながら共にすごした時はどれほどかけがえのないものだったのか、計り知れずにいる。それを思い出して高杉は胸の内で自嘲した。
可笑しいことにここに来てからやたらと過去ばかり脳裏を過ぎる。感傷に浸っているつもりはないがどうしたのだろう。
「侍か」
えらく直球な問いに苦笑する。
「侍だ」
けれど即答した。己がいまだ侍であることに誇りを持っている。下らぬプライドだと思うが今の高杉を支えているものはただの一つ。自分が侍だということだけだ。
「そうか、なら見ていかれるがよい」
鉄也の声は低く、大きく、なおかつよく響く。彼の声こそ打てば響く鉄のようだと思った。その声が高杉の胸を酷く擽っている。
筋肉質な腕が振り上がり勢いよく下される。小さな火花が散った。
刀匠というものは、こうも無垢で純粋な目をしているものだろうか。再び戸口に寄りかかり、僅かに斜めに鉄也を見るが彼の真っ直ぐな目は歪んでは見えなかった。
総督、と誰かに呼ばれた気がして胸を掻き毟りたくなるような衝動を堪える。必死に眉を寄せて奥歯を噛んだ。けれど、だからこそ自分の足でここに来たかったのかもしれない。確かめるために、来たかったのだ。
それから一時間ほどのち、高杉は鉄也の家の縁側に彼と並んで座っていた。出して貰った茶には口をつけず、黙って空を眺めている。秋空の、よく晴れた空だ。けれど、幾度か咳いたので喉を潤すために質素だが形の良い茶碗を持って一口、番茶を口に含んだ。
「高杉晋助…?」
名乗った高杉に、鉄也は目を見張る。
どこかで聞いたことのある名だ。思い出そうとして彼の包帯に覆われた左目で気づく。
「では、もしや貴殿は攘夷志士の高杉晋助殿か」