神の天秤2
いつの間に終わったのか、僕がぼんやりと目を覚ました時、すでに燭台の灯りはつきていた。
しかし辺りを見回すと露台から射し込む光でものの形は見て取れる。湿った風がわずかに入ってきていた。
「起きた? はい、どうぞ」
横合いから出てきた手が、水を差しだしてくる。
不意をつかれて肩を揺らしたが、まだ居てくれたことに安堵する気持ちの方が強い。
礼を言って水を受け取ると一気に飲み干した。
「……そういうの、本当に変わんないね」
ぽつりと言われた意味がわからず、首を傾げる。
頬に添えられた手が耳の後ろまでをたどると、首筋から肩へ降りて、親指で鎖骨をなぞった。
「どこか痛いところある?」
問われたが、どこもかしこも痛い。一応頷いておく。
「だろうね。しばらく痛いかもしれないけど、まあなれるからさ」
ぱっと手を離すと、肩をすくめた彼は露台へ向かう。
帰る気だ。慌てて後を追おうとしても、体がぎくしゃくとしか動かない。寝台から降りようとしてべちゃりとみっともなく転げ落ちた。
それでも必死に足を前に進める。
裸足で露台に走り出たが、すでにトッズの姿は闇に消えていた。
胸の奥から震えが伝わり、のどを通って出てくる。全身がぶるぶると震えてその場に崩れ落ちた。
「うっ、ううぅ……」
僕は間違えているのだろうか。
アネキウスも答えてはくれない。揺れる視界に、月と湖が滲んでいた。
ざらりとした石に体を預けて、僕はしばらくそこで泣いていた。湖を渡ってくる風はひんやりとしていて、火照った頭と体を冷やしてくれるだろう。
どれくらいそうしていただろうか。体の芯まで冷えきった頃、のろのろと身を起こす。頬についた汚れを手のひらで拭って、空を見上げた。月がだいぶ光を増している。
重い体を引きずり、這うようにして部屋の中に戻った。寝台から上掛けだけを力任せに引きはがし巻き付ける。
柔らかくて軽い感触に、なぜかまた涙がにじむ。
寝台に横たわる気になれず、僕はその日床に丸まって眠った。
翌朝、サニャの悲鳴で起こされた僕は、彼女の青ざめた顔に微笑む気力もなく、ひび割れた声で落ち着くようにとだけ言った。
「でも、こんな、こんな! あっ、レハト様お熱がありますよ!」
激しくうろたえたサニャだったが、それでも素早く寝台の敷布を取り替えると、僕をそこへ押し込んだ。
巻き付けていた上掛けがめくれて、体が見えたのだろう、一瞬息を飲んだがすぐに事態を飲み込んだらしく、次に姿を現したときには湯をはった桶と清潔な布を持っていた。
「お体綺麗にしますね」
そういって隅々まで体を拭いてくれる。
サニャはてきぱきと新しい下着と寝巻きを僕に着せると、水を差しだしてくる。ゆっくりとそれを口に含んだ。
「お医者様を呼んでますからね。ああ、レハト様……」
「ありがとう、サニャ。大丈夫だから……」
「大丈夫なわけありません!」
涙目で眉をつり上げている彼女に、やっと微笑み返すことができた。
水に浸した布が額に当てられる。しばらくして医者がやってきて、僕の脈を計っていった。サニャには風邪だろうと幾つかの注意をしてすぐに帰っていく。
「何か欲しいものがありますか?」
気遣わし気なサニャに、一度は首を横に振ったが、思い直して果物を頼んだ。
サニャはすぐに行ってきます、と厨房へ向うために部屋を出て行く。その軽い足音を聞きながらため息をついた。自分の息が熱っぽい。
「具合どう? ああ可哀想に。辛いんだろう?」
どこかで見ていたのだろうか、いつの間にかトッズが寝台の端に腰掛けていた。言葉と裏腹に、その顔は実に楽しそうだ。
声が出ない。僕はじっと男を見つめる。
「あーのども痛い? まあ昨日はいっぱい叫んだからね」
近寄って顔をのぞき込みにやにやと笑う男に、手を伸ばした。
服の裾をつかむと、もっとこっちへ来いと引っ張る。
熱で弱っている自分に、無理をさせた本人からの詫びがあってもいいと思う。
図々しく目を閉じて待つ。
チッと憎々しげな舌打ちが響いて、やがて唇を何かがかすめた。
「ほらもういいでしょ、離してよ」
尖った声に傷つけられながら、渋々手を離す。
熱のせいで、目が潤む。目尻からこぼれた滴をごまかすために、僕は体の向きを変えた。
「じゃあおやすみ。またくるね」
自分を守るように、再び丸くなって目を閉じて、僕はその言葉に小さく頷いた。
こんな態度の男が、それでも好きな自分が腹立たしい。
しかし辺りを見回すと露台から射し込む光でものの形は見て取れる。湿った風がわずかに入ってきていた。
「起きた? はい、どうぞ」
横合いから出てきた手が、水を差しだしてくる。
不意をつかれて肩を揺らしたが、まだ居てくれたことに安堵する気持ちの方が強い。
礼を言って水を受け取ると一気に飲み干した。
「……そういうの、本当に変わんないね」
ぽつりと言われた意味がわからず、首を傾げる。
頬に添えられた手が耳の後ろまでをたどると、首筋から肩へ降りて、親指で鎖骨をなぞった。
「どこか痛いところある?」
問われたが、どこもかしこも痛い。一応頷いておく。
「だろうね。しばらく痛いかもしれないけど、まあなれるからさ」
ぱっと手を離すと、肩をすくめた彼は露台へ向かう。
帰る気だ。慌てて後を追おうとしても、体がぎくしゃくとしか動かない。寝台から降りようとしてべちゃりとみっともなく転げ落ちた。
それでも必死に足を前に進める。
裸足で露台に走り出たが、すでにトッズの姿は闇に消えていた。
胸の奥から震えが伝わり、のどを通って出てくる。全身がぶるぶると震えてその場に崩れ落ちた。
「うっ、ううぅ……」
僕は間違えているのだろうか。
アネキウスも答えてはくれない。揺れる視界に、月と湖が滲んでいた。
ざらりとした石に体を預けて、僕はしばらくそこで泣いていた。湖を渡ってくる風はひんやりとしていて、火照った頭と体を冷やしてくれるだろう。
どれくらいそうしていただろうか。体の芯まで冷えきった頃、のろのろと身を起こす。頬についた汚れを手のひらで拭って、空を見上げた。月がだいぶ光を増している。
重い体を引きずり、這うようにして部屋の中に戻った。寝台から上掛けだけを力任せに引きはがし巻き付ける。
柔らかくて軽い感触に、なぜかまた涙がにじむ。
寝台に横たわる気になれず、僕はその日床に丸まって眠った。
翌朝、サニャの悲鳴で起こされた僕は、彼女の青ざめた顔に微笑む気力もなく、ひび割れた声で落ち着くようにとだけ言った。
「でも、こんな、こんな! あっ、レハト様お熱がありますよ!」
激しくうろたえたサニャだったが、それでも素早く寝台の敷布を取り替えると、僕をそこへ押し込んだ。
巻き付けていた上掛けがめくれて、体が見えたのだろう、一瞬息を飲んだがすぐに事態を飲み込んだらしく、次に姿を現したときには湯をはった桶と清潔な布を持っていた。
「お体綺麗にしますね」
そういって隅々まで体を拭いてくれる。
サニャはてきぱきと新しい下着と寝巻きを僕に着せると、水を差しだしてくる。ゆっくりとそれを口に含んだ。
「お医者様を呼んでますからね。ああ、レハト様……」
「ありがとう、サニャ。大丈夫だから……」
「大丈夫なわけありません!」
涙目で眉をつり上げている彼女に、やっと微笑み返すことができた。
水に浸した布が額に当てられる。しばらくして医者がやってきて、僕の脈を計っていった。サニャには風邪だろうと幾つかの注意をしてすぐに帰っていく。
「何か欲しいものがありますか?」
気遣わし気なサニャに、一度は首を横に振ったが、思い直して果物を頼んだ。
サニャはすぐに行ってきます、と厨房へ向うために部屋を出て行く。その軽い足音を聞きながらため息をついた。自分の息が熱っぽい。
「具合どう? ああ可哀想に。辛いんだろう?」
どこかで見ていたのだろうか、いつの間にかトッズが寝台の端に腰掛けていた。言葉と裏腹に、その顔は実に楽しそうだ。
声が出ない。僕はじっと男を見つめる。
「あーのども痛い? まあ昨日はいっぱい叫んだからね」
近寄って顔をのぞき込みにやにやと笑う男に、手を伸ばした。
服の裾をつかむと、もっとこっちへ来いと引っ張る。
熱で弱っている自分に、無理をさせた本人からの詫びがあってもいいと思う。
図々しく目を閉じて待つ。
チッと憎々しげな舌打ちが響いて、やがて唇を何かがかすめた。
「ほらもういいでしょ、離してよ」
尖った声に傷つけられながら、渋々手を離す。
熱のせいで、目が潤む。目尻からこぼれた滴をごまかすために、僕は体の向きを変えた。
「じゃあおやすみ。またくるね」
自分を守るように、再び丸くなって目を閉じて、僕はその言葉に小さく頷いた。
こんな態度の男が、それでも好きな自分が腹立たしい。