かわる
「先生、もう分かってるんでしょう」
自分より一回りも大きな身体を組み敷き、彼の両の手首を布団に押さえ付けながら、至近距離で彼の瞳を捉える。枕元に置いた蝋燭の揺らめきに合わせ、彼の顔が闇の中で見え隠れした。彼は僅かに顔を背けた。その瞬間に衿を割って見えた鎖骨が、息を呑むほど美しかった。彼は顔を背けたまま、持て余したような溜息交じりの声で言う。
「・・・契約違反だぞ」
「契約?そんなのした覚え」
「いいや、していたはずだ。私はお前を生徒として扱うそれ以上でもそれ以下でも無い。そしてお前は私を先生として扱うそれ以上でもそれ以下でも無い。暗黙の了解だったはずだ」
「どうしてですか?俺は先生の事が―」
「駄目になるぞ。全てが」
その言葉を聞いて、彼を押さえ付けていた手を離し、上半身を起こした。身体を離すと、彼は何事も無かったかのように掛け布団に包まり、
「おやすみ」
と短く言った。彼の家に居候させて貰った時からずっと変わらない、彼の隣にきちんと並べられた自分の布団に入り、今言われた言葉の意味を考える。
「・・・おやすみなさい」
-これは契約だ。これまで通り先生と生徒の役割をこなす為の。今日このような出来事があった事は忘れてしまう為の。明日からは何事も無かったかのように彼と接する為の。彼はたった四文字で、以上の意味を含有する契約を自分と結んでしまった。その癖に、彼は本気を出せばすぐにでも抜け出せる、彼と比べて幾分非力な自分の手からけして逃れようとはしなかった。大人はずるい。そんなの、もう随分前から分かっていた些末な事実ではあるけれど。
蝋燭を吹き消し、目を閉じた。隣の布団からは、その晩寝息は聞こえてこなかったような気がする。
****
「俺、この前土井先生に夜這いしたんだ」
淡々ときり丸にそう告げられた時、加藤団蔵は思わず呑んでいたお茶を器官に詰まらせた。げほげほと咳き込む団蔵に、きり丸は何やってんだという視線を投げかける。
「よ、夜這いってお前・・・!」
「まぁ一方的に拒否されて終わったけどな。何も無かった事にされたし」
「あ、そう・・・」
団蔵は心中でほっと安堵の息を吐いた。が、その安堵も束の間、新たに自分の胸の内にと現れた感情に団蔵は表情を曇らせる。
十二の誕生日を迎え、きり丸はとても綺麗になった(と、団蔵は思っている)。それと同時に、昔から彼の心の中にあったのであろう、一つ屋根の下に暮らす親代わりの先生に対する恋慕の情も、具体的な形を成して現れてきた。一年生の頃から彼の事が好きで、彼の傍でずっと彼の事を見てきた団蔵にとって、その変化は顕著なものだった。乱太郎やしんべえでさえ、彼のそのような変化には気が付かなかったに違いない。―尤もそれは、彼らはきり丸の一番の友達として、きり丸に対する見方が団蔵とは明らかに異なっていたからではあるのだけれど―。団蔵はその変化を目の前で見せ付けられながら、歯を食い縛って耐えてきた。早熟のきり丸が、包容力溢れる大人の男である土井先生を好きになるのは、誰がどう見ても自然な流れだったし、団蔵はまさか自分が土井先生に勝てるなど思ってもみなかったからだ。どれ一つ取っても、自分は先生には及ばない。それは、団蔵自身が一番よく分かっていた。
―きり丸が、最初に土井先生への悩みを団蔵にぶつけたのも、きり丸自身が無意識に上記の事情を理解していた事に因るだろう。それ以来ずっと、団蔵はきり丸の恋の相談相手となっている。きり丸は聡い。生きていく術というものを感覚で学び取っている。このきり丸の感覚が、特異な恋愛相談に最適(若しくは安全)と思われる相手を選び取ったのだ。そしてそれは正しかった、と団蔵は思う。個人的な感情としては勿論嫌だが、こういう相談を乱太郎やしんべえにするのは、彼らとの関係を壊す事にも繋がり兼ねないし、きり丸の本来の姿というのを誰よりも一番理解しているのは、彼の事を特別視していた団蔵に違いないのだから。
「―でも、辛いんだよなぁ・・・」
「ん?何か言ったか?」
「いいや。独り言」
団蔵は大人しくお茶を啜る。
外は雨だった。同室の佐武虎若は、生物委員会の用事(御多分に漏れず、伊賀崎孫兵先輩が逃がした毒虫の回収作業)で留守をしており、しばらくは戻ってきそうに無い。湯呑を置くと、団蔵はきり丸に向き直った。
「なぁなぁ、きり丸は土井先生の事どうしてそんなに好きなんだよ?」
怪訝な顔をされたので、団蔵は慌てて付け足す。
「いやだってさぁ、土井先生がきり丸の事を振り向く可能性はけっして高くないわけだろう?叶わない片思いなら、いっその事諦めた方が良いんじゃないかなって」
「・・・お前、本気でそんな事言ってんの?」
きり丸の声色が変わる。
「きり丸の為を思ってだよ。これは俺のまったくの勘でしか無いんだけど・・・土井先生は多分、これから先もきり丸を振り向く事は無いように思えるんだ」
土井先生が例え、きり丸の事を好いていてもね―と、この台詞は団蔵は口に出さないでおく。きり丸を見つめるのと同じ分だけ土井先生の事も観察してきたのだ。団蔵の予想は恐らく当っているだろう。そしてこんな事は言うまでもなく、本人が認めていないだけできり丸だって十二分に分かっているのだ。・・・だから、余計に苛々するのだ。
「・・・もしさ、もし、土井先生がきり丸の要求に応えたらどうしたの?」
「どうしたってどういう意味だよ」
「きり丸は先生と床を一緒にする度胸はあったのかって事」
急に底意地の悪い質問をし始めた団蔵に、きり丸はその意図を測りかねつつ、眉を顰める。
「その為の夜這いだろ」
「どうかな。心の何処かで先生が自分に手を出すはずがないって思ってたんじゃない?」
「団蔵・・・お前、急にどうしたんだよ?」
団蔵はきり丸の肩を押した。いとも簡単に後ろへと倒れたきり丸に覆いかぶさり、彼を見下ろす。彼の目に、一瞬怯えが走るのが見て取れた。
「なに、を・・・」
「こういう事、土井先生と出来たの?やろうと思ったの?」
「どけよ、団蔵・・・」
「―俺、きりちゃんの事ずっと好きだったんだよ」
言ってしまってから、団蔵はきり丸が色を失うその一部始終を確認した。そうして、やっぱりと思う反面、唐突に、彼を抱きたいという抗い切れない欲求に駆られた。怒りや虚しさが性欲へと直結し、団蔵の下半身は熱くなる。きり丸に嫌われる―?そんなの、遅かれ早かれそうなる事じゃないか。
「前言撤回する。俺はきり丸の為を思って言ったんじゃない。自分の為を思って言ったんだ、これまでもこれからも。だから」
団蔵は無造作にきり丸の首元の布を剥ぎ取った。露になった彼の白い首に、堪らなくなって口を付ける。
「ちょ、団蔵何やってんだよ―!」
「ごめん。少しの間、俺の事を土井先生だと思って耐えててよ。今まで散々我慢したんだ。俺の嫉妬を静める手伝いくらい、してくれても良いだろう?」
自分より一回りも大きな身体を組み敷き、彼の両の手首を布団に押さえ付けながら、至近距離で彼の瞳を捉える。枕元に置いた蝋燭の揺らめきに合わせ、彼の顔が闇の中で見え隠れした。彼は僅かに顔を背けた。その瞬間に衿を割って見えた鎖骨が、息を呑むほど美しかった。彼は顔を背けたまま、持て余したような溜息交じりの声で言う。
「・・・契約違反だぞ」
「契約?そんなのした覚え」
「いいや、していたはずだ。私はお前を生徒として扱うそれ以上でもそれ以下でも無い。そしてお前は私を先生として扱うそれ以上でもそれ以下でも無い。暗黙の了解だったはずだ」
「どうしてですか?俺は先生の事が―」
「駄目になるぞ。全てが」
その言葉を聞いて、彼を押さえ付けていた手を離し、上半身を起こした。身体を離すと、彼は何事も無かったかのように掛け布団に包まり、
「おやすみ」
と短く言った。彼の家に居候させて貰った時からずっと変わらない、彼の隣にきちんと並べられた自分の布団に入り、今言われた言葉の意味を考える。
「・・・おやすみなさい」
-これは契約だ。これまで通り先生と生徒の役割をこなす為の。今日このような出来事があった事は忘れてしまう為の。明日からは何事も無かったかのように彼と接する為の。彼はたった四文字で、以上の意味を含有する契約を自分と結んでしまった。その癖に、彼は本気を出せばすぐにでも抜け出せる、彼と比べて幾分非力な自分の手からけして逃れようとはしなかった。大人はずるい。そんなの、もう随分前から分かっていた些末な事実ではあるけれど。
蝋燭を吹き消し、目を閉じた。隣の布団からは、その晩寝息は聞こえてこなかったような気がする。
****
「俺、この前土井先生に夜這いしたんだ」
淡々ときり丸にそう告げられた時、加藤団蔵は思わず呑んでいたお茶を器官に詰まらせた。げほげほと咳き込む団蔵に、きり丸は何やってんだという視線を投げかける。
「よ、夜這いってお前・・・!」
「まぁ一方的に拒否されて終わったけどな。何も無かった事にされたし」
「あ、そう・・・」
団蔵は心中でほっと安堵の息を吐いた。が、その安堵も束の間、新たに自分の胸の内にと現れた感情に団蔵は表情を曇らせる。
十二の誕生日を迎え、きり丸はとても綺麗になった(と、団蔵は思っている)。それと同時に、昔から彼の心の中にあったのであろう、一つ屋根の下に暮らす親代わりの先生に対する恋慕の情も、具体的な形を成して現れてきた。一年生の頃から彼の事が好きで、彼の傍でずっと彼の事を見てきた団蔵にとって、その変化は顕著なものだった。乱太郎やしんべえでさえ、彼のそのような変化には気が付かなかったに違いない。―尤もそれは、彼らはきり丸の一番の友達として、きり丸に対する見方が団蔵とは明らかに異なっていたからではあるのだけれど―。団蔵はその変化を目の前で見せ付けられながら、歯を食い縛って耐えてきた。早熟のきり丸が、包容力溢れる大人の男である土井先生を好きになるのは、誰がどう見ても自然な流れだったし、団蔵はまさか自分が土井先生に勝てるなど思ってもみなかったからだ。どれ一つ取っても、自分は先生には及ばない。それは、団蔵自身が一番よく分かっていた。
―きり丸が、最初に土井先生への悩みを団蔵にぶつけたのも、きり丸自身が無意識に上記の事情を理解していた事に因るだろう。それ以来ずっと、団蔵はきり丸の恋の相談相手となっている。きり丸は聡い。生きていく術というものを感覚で学び取っている。このきり丸の感覚が、特異な恋愛相談に最適(若しくは安全)と思われる相手を選び取ったのだ。そしてそれは正しかった、と団蔵は思う。個人的な感情としては勿論嫌だが、こういう相談を乱太郎やしんべえにするのは、彼らとの関係を壊す事にも繋がり兼ねないし、きり丸の本来の姿というのを誰よりも一番理解しているのは、彼の事を特別視していた団蔵に違いないのだから。
「―でも、辛いんだよなぁ・・・」
「ん?何か言ったか?」
「いいや。独り言」
団蔵は大人しくお茶を啜る。
外は雨だった。同室の佐武虎若は、生物委員会の用事(御多分に漏れず、伊賀崎孫兵先輩が逃がした毒虫の回収作業)で留守をしており、しばらくは戻ってきそうに無い。湯呑を置くと、団蔵はきり丸に向き直った。
「なぁなぁ、きり丸は土井先生の事どうしてそんなに好きなんだよ?」
怪訝な顔をされたので、団蔵は慌てて付け足す。
「いやだってさぁ、土井先生がきり丸の事を振り向く可能性はけっして高くないわけだろう?叶わない片思いなら、いっその事諦めた方が良いんじゃないかなって」
「・・・お前、本気でそんな事言ってんの?」
きり丸の声色が変わる。
「きり丸の為を思ってだよ。これは俺のまったくの勘でしか無いんだけど・・・土井先生は多分、これから先もきり丸を振り向く事は無いように思えるんだ」
土井先生が例え、きり丸の事を好いていてもね―と、この台詞は団蔵は口に出さないでおく。きり丸を見つめるのと同じ分だけ土井先生の事も観察してきたのだ。団蔵の予想は恐らく当っているだろう。そしてこんな事は言うまでもなく、本人が認めていないだけできり丸だって十二分に分かっているのだ。・・・だから、余計に苛々するのだ。
「・・・もしさ、もし、土井先生がきり丸の要求に応えたらどうしたの?」
「どうしたってどういう意味だよ」
「きり丸は先生と床を一緒にする度胸はあったのかって事」
急に底意地の悪い質問をし始めた団蔵に、きり丸はその意図を測りかねつつ、眉を顰める。
「その為の夜這いだろ」
「どうかな。心の何処かで先生が自分に手を出すはずがないって思ってたんじゃない?」
「団蔵・・・お前、急にどうしたんだよ?」
団蔵はきり丸の肩を押した。いとも簡単に後ろへと倒れたきり丸に覆いかぶさり、彼を見下ろす。彼の目に、一瞬怯えが走るのが見て取れた。
「なに、を・・・」
「こういう事、土井先生と出来たの?やろうと思ったの?」
「どけよ、団蔵・・・」
「―俺、きりちゃんの事ずっと好きだったんだよ」
言ってしまってから、団蔵はきり丸が色を失うその一部始終を確認した。そうして、やっぱりと思う反面、唐突に、彼を抱きたいという抗い切れない欲求に駆られた。怒りや虚しさが性欲へと直結し、団蔵の下半身は熱くなる。きり丸に嫌われる―?そんなの、遅かれ早かれそうなる事じゃないか。
「前言撤回する。俺はきり丸の為を思って言ったんじゃない。自分の為を思って言ったんだ、これまでもこれからも。だから」
団蔵は無造作にきり丸の首元の布を剥ぎ取った。露になった彼の白い首に、堪らなくなって口を付ける。
「ちょ、団蔵何やってんだよ―!」
「ごめん。少しの間、俺の事を土井先生だと思って耐えててよ。今まで散々我慢したんだ。俺の嫉妬を静める手伝いくらい、してくれても良いだろう?」