空と太陽を君に
「もう、闇に対して恐怖を感じることはありませんか?」
「はい」
「宇宙に出ている時…そう例えば地球を見た途端に重力を感じてしまう事は…」
「ありません」
「ではあの時の、夢をみますか?」
医者は熱心にカルテにペンを走らせながら、次々に質問をぶつけてくる。毎回毎回、同じ質問ばかり繰り返されていい加減に辟易としてくるが答えねばならない理由がある。
シンは真っ白く四角い部屋の一室での埒も明かない押し問答に、少しばかり疲れていた。そんなこと聞いたって無駄なのに。何の意味も見出せない。
大体『あの時』って何なんだ。医者の癖に曖昧な物言いしか出来ない目の前の男は、シンがプラントに渡った時に随分とお世話になった医者でもあった。だからこそ、こうした茶番にも付き合っているのだ。
クリーム色をしたカバーがかかっている一人掛けのソファに、シンは深く座ると背もたれに背中を預けて眉を寄せる。額についている脳波測定器が邪魔で仕方なかった。ついでに言えば肘掛に置いた指に挟まっている嘘発見器も、だ。
馬鹿馬鹿しいと思うが、実は嘘発見器は実に巧妙に被験者にプレッシャーを与えるのだ。
シンは閉じていた瞼を僅かに開くと睫毛が何度か震えた。目の前には光が一杯に差し込む窓がカーテンも引かずに存在しているので眩しくて仕方ない。閉めて欲しいと訴えたが、医者は笑って取り合おうとはしなかった。
真っ白い世界だった。
綺麗だと思うより、美しいと感じるより、シンは少し怖かった。闇は体に溶ける気がする。しかし光というものは在るもの全てを反射して誰かを傷つけてしまうのではないかと思うのだ。
だからこうして、じっとしている。
しかし不意に素足の指にきゅっと力が入って、僅かに測定器のグラフが揺れた。医者はそれを不思議そうな顔で受け止めるとシンを振り返った。
「どうしましたか、シン」
「何でもありません」
即答したシンに曖昧に頷きながら、医者はなおも口を開いた。
「シン・アスカ。あの時の、夢を見ますか?」
「いいえ」
脳波の乱れも測定器も異常なしだ。医者は軽く息を吐くとペンをデスクの上にころりと転がした。
「よし、いいよ」
言いながら、立ち上がって額についている機械と指を挟んでいる嘘発見器を取り外した。長いコードがだらりと垂れ下がる。
「ご苦労さまだったね、シン。三ヶ月もよく辛抱した」
「異常なしですか?」
今までくっついていた場所が気になるのか、しきりに指で額を擦ってシンはうんざりしたように訊いた。
「ああ、今のところは」
「今のところはって…俺、もう大丈夫だよ」
計器を傍らに山積みに重ねると、データを取り出して医者はその場でシンのカルテを纏め始めてしまう。シンはその横顔をぼんやり見ながら光が当たり過ぎて発光している窓に目を遣ると眩しくて直ぐに瞳を眇めた。
「先生の部屋、何もないな」
「きみが居た頃と何も変わらないだろう?」
「もう、二年以上前だし…覚えてない」
素っ気無く答えると小さな苦笑が返って来た。いい加減、子ども扱いはやめて欲しい。
「二年以上か…早い筈だね。僕も年を取ってきみの身長も伸びる筈だ」
カタカタカタカタとキーボードを叩く音は止むことなく、響き続ける。その音をどこか懐かしく思いながら膝を抱えると顎を乗せた。
「嫌味かよ。軍に入ってから一センチも身長伸びてない」
ぶっと頬を膨らませると、医者は顔をモニターに向けたまま口を綻ばせた。
「不摂生な生活をしていたんだろう」
「ちゃんと食って、ちゃんと寝てた」
それ以上に、闘って殺し続けていたけれど。そんな事、医者は言わなくても知っている気がして黙っていた。しかし彼はそれを見越したように微かに笑うとくるりと指でペンを回す。いつもの癖だ。
「どうだか」
「それより先生」
「ん?」
「………」
「シン?」
話しかけてきたのに、唐突に黙り込んでしまったシンを、指を動かすのを止めて不審気に振り返ると、彼は膝を抱えたままじっとこちらを見つめていた。
「なんだい」
「オレ、もうMS乗れますよね」
ぽつんと、独り言のように呟いた言葉は医者が予期していないものだった。それと同時にどこか薄ら寒さを感じたのだ。瞳を伏せたまま動かないシンの表情も気になった。ぎしりと回転椅子を軋ませ、もう一度シンの方に体ごと向くと彼は逃げるように軽く笑った。
「新しい議長…先生の診断書がないとMS乗せないって言うから…オレ参るよ。デスクワークってほんっと苦手だし。赤着て…フェイスもそのままで…ずっと指令本部でデスクワークって拷問だよ。視線が痛いし。お前何をやっているんだって」
周囲の人間の視線なら気にしない。しかしシンの場合は、今は無い大切な命がそう問いかけ続ける。
「シン…」
「ほら、オレMS乗る以外に何も出来ないし…今のオレが役に立つかどうかなんて…分かんないけど」
適性検査と云うのは厄介で、それをクリアしないとMSにすら乗れないらしい。そういえばプラントに初めて来た時もアカデミーに入学する前もそれは五月蝿く言われたっけと思い出す。
あれも今、思えばデスティニープランの一環なんじゃないかと思う。実はそこここに、そういうものはたくさん転がっているのだ。人は無意識に受け入れてしまっている。それなのにいざ、はっきりと目の前に突きつけられると人々はきっぱりと否定した。
「シン?」
また深く思考に沈みかけていたシンは慌てて首を振った。
「なんでもないです」
「………」
口元だけを緩ませて笑う。いつだってその赤い目は全てを物語っているように深く深くぽっかりと空洞が空いているかのようだ。
この子はいつから、こんな顔をして笑うようになったのだろう。そう思うと、医者は自分の不甲斐なさに心底落ち込んでしまう。初めてシンと出会った時、彼はとても一人では生きられないと思った。勿論、軍に入ると聞いた時も反対したほどだ。
「私はね、きみはMSには乗らない方がいいんじゃないかと思うよ」
ぼんやりと椅子に座っているシンの肩が揺れて、不審を顕にした視線を返してくる。
「何だよ、それ」
「今度こそ、きみは死ぬぞ」
強い意志を持って言い切ると、シンは以外にも怒りを面に出すことはなかった。それどころか微笑みさえしたのだ。諦めている目でもない。悟っている目でもない。空虚で、それでいて当たり前のようなそんな不思議な色をもっていた。
「それは…精神科医としての意見?それとも先生個人の意見?」
「あくまで…私個人の所見だよ」
まるで猫のように一点を見つめてシンは瞬きをした。不意に笑ってソファにかけていた足を床へと下ろすと素足をぺたぺた言わせながら壁際にあったクローゼットの扉を開いて赤い色の軍服を取り出した。耳にどこか心地良い衣擦れの音が響く。
「それなら、大丈夫だ」
「何が大丈夫?」
問うと妙に確信に満ちた瞳で振り返る。こういう時の彼は要注意だ。
「オレ、まだやることあるし。だから死ねない」
先にズボンに足を通して慣れた手つきで「赤」を羽織ながら何でもないことのように言うのだ。
「やることって言うのは軍の中で、ということかな」
「ううん、多分…凄く個人的なこと」
「それは戦争に対してということかい?」