柳生医院のおはなし
とある山の麓の町に、あまり大きくない病院がありました。その町には病院はひとつでしたが、近くの町に大きな大学病院があるので、町の人が困ることはありませんでした。
病院の名前は柳生医院といいました。名前の通り柳生先生という人が院長をしていました。他にも何人かお医者さんはいましたが、建物の大きさに比べて人は少なめでした。そのせいか、ベッドが完全に埋まることはなく、緊急の患者を受け入れることも多くありました。
さて、一人の女の子が病院のなかを歩いていました。まだ小さいのに、まわりにお母さんの姿はみえません。病室棟の廊下を、きょろきょろしながら歩いています。たまに通りがかる入院患者の人たちや看護士さんたちは、彼女が入院している子ではなさそうだとは思うものの、きっと誰かのお見舞いに来ているのだろう、となにも言わずに、ただかわいらしいその様子に知らず知らず微笑みかけながら通り過ぎていくのでした。
廊下のつきあたり、非常用の四角い窓の前に、髪の毛の白い男の人が立っていました。肩より少し長いくらいの後ろ髪をひとつに結わえています。掃除をしていたのか、手には箒を持ち、紺色のつなぎを着ています。いまは休憩中のようで、箒に凭れて立ち、窓の外を眺めていました。女の子は廊下を歩いて来て、男の人のいるつきあたりにまでやってきました。男の人は、人の気配に気がついてくるりと振り向きました。
「こんにちは」
「…こんにちは」
「こんなところでなにしとるん?」
男の人は、女の子を子供扱いすることなく、きちんと挨拶をしてくれました。女の子は、本当のことを言うと、お父さんと学校の先生以外の大人の男の人と話す機会があまりないので少し緊張していたのですが、やはり同様にきちんと挨拶をしました。でも、なにしとるん、という質問に答えるのにはちょっとばかり不具合があったので、うつむいてぎゅっとこぶしを握りしめました。怒られるかとも思いましたが、男の人は、まあええか、と呟いて、そして、それきりでした。
女の子は、この人は普通の大人のようにすぐ怒鳴らないので、少し勇気が出てきました。
「お兄さんはなにしてるの、…ん、ですか」
「無理に敬語使わんでもよかよ。うん、俺はな、病院を掃除するんが今日の仕事なん。で、いまは、休憩中」
「おそうじ?」
「そう。ここに来るんは初めてかの」
女の子はこくんと頷きました。
「最近引っ越してきたの」
「ほうか。入院してる子ぉにしてはみたことないのーと思ったわ」
「…ここ、通っちゃだめな場所だった?」
「んなこたない。誰にも叱られんかったろ?お見舞いに来る人とかもおるけえ、だいじょぶじゃ」
「そっか」
「おまえさん、ひとりで来たん?」
「……おかあさんと、」
「ほたお母さんは?」
女の子はまた下を向いてしまいました。男の人はそれをじっとみていましたが、女の子の背の高さまでしゃがむと、女の子の顔を下から無理矢理覗き込みました。女の子は、ほとんど泣きそうだったのでした。
「どげんした?なんかいやなことあった?」
「…お兄さん、きっと、笑うもん」
「泣くほど嫌なことなんじゃろ。笑わんよ。言ってみ、な」
女の子はとうとうしくしく泣き出してしまいました。男の人は、もうなんにも言わず、ただ女の子のそばにしゃがんで、彼女が話しだすのを待っていました。しゃくりあげるのが落ち着いてきた女の子は、少しずつ話しはじめました。再来週、小学校で遠足があること。大きな怪我をしてしまったときのために、血液型を調べないといけないこと。彼女は血液型がわからなかったので、病院に調べに来たこと。そのために注射をするのが怖くて、待合室から逃げてきてしまったこと。全部話し終わると、女の子は、きっとこのやさしいお兄さんもなんだそんなことか、と言って自分を待合室に連れて行こうとするんだろうな、と暗い気持ちになりながら男の人のほうをみました。けれども男の人は、なるほど全部わかったという顔をして、
「注射かあ。俺も嫌いじゃ」
と言ったので、女の子はびっくりしてしまいました。
「にしてもずいぶん奥まで来たのう。今頃お母さんたち探しとるやろなあ」
「…うん、でも、怖くて、」
「うん。まあそれはええわ」
女の子はまたびっくりしました。男の人はそこを動こうとせず、女の子を待合室に連れて行こうともせず、箒を壁に立てかけました。男の人は呆然としている女の子を振り返ると、マイケル・ジャクソンて知っとる?と言いました。
「…なまえは、知ってる」
「アメリカのな、歌手なんじゃ。歌も踊りもうまくて、ほんとに、すっごいスーパースターなんやけど」
「そうなんだ」
「うん。で、その人の考えたダンスの振りがあって、あんな、ゼロ・グラビティって言うのんが」
「ぜろ…、」
「ゼロ・グラビティ。ぜろは数字のゼロで、グラビティっていうのは、重力のこと。やけ、重力がないって意味な」
「むじゅうりょくってこと?」
「そう!やってみせるけん、みとって」
女の子がみているまえで、男の人はまっすぐに立ち、そのままぐぐぐぐぐ、と斜めに体を倒しはじめました。重力がないという言葉の意味がよくわかりました。普通はすぐ倒れてしまうはずなのに、男の人は足に力を込めて倒れないように踏ん張っています。が、わあっという叫び声のあと壁に向かってぐちゃ、と崩れました。女の子は思わず、ああっと声をあげてしまいました。
「だいじょうぶ?」
「うん、まあこげな感じ」
「すごいね!」
「な?これなー、もっと長くとか、もっと深くとか、したいんやけど、なかなかなー。やってみる?」
「でも、私、体育苦手だし…」
「そう?ほた見ててくれん?さっきより倒れてるかーとか」
「いいよ!」
それから男の人は何度もゼロ・グラビティに挑戦し、女の子はそれを応援し、さっきより深かったかどうか、長く姿勢を保てていたかを一生懸命見ていました。女の子も一度やってみましたが、すぐに足を滑らして転びそうになったのでそれきりにしておきました。しばらくして、男の人はあー疲れた!と叫んで床に寝転がりました。
「上達したかのー」
「うん、してたよ、きっと!」
「ほんと?いやーありがとうなー」
女の子は、自分がなぜここにいるのかも忘れて、このやさしいけれども少し変わっている男の人と楽しくお話していました。ところが、にわかに病院が騒がしくなりました。男の人は体を起こして、廊下の向こうをじっと見つめました。
「…なあ、」
「うん、」
「注射嫌なんよなあ」
「……うん、こわい、」
「うちのお医者さんに会ったことある?」
「ないよ」
「うちの先生な、柳生先生っていうの。俺とおんなじ年なんやけど」
「うん、」
「怖い人じゃないけぇ、正直に注射怖いって、言ってみるとよかよ。人の話はちゃんと聞いてくれるきに」
「…でも、お医者さんでしょ、注射怖いなんて言ったら、」
「怒らんよ」
「…ほんと?」
「うん。絶対。約束しちゃるよ。柳生さんはぜーったい怒らん」