『その日』の彼女 前編
そしていよいよ決戦前夜。
いつもの倍以上の時間をかけて入浴を済ませ、長い髪をさらにふわふわになるよう巻いたハンガリーは、かつて戦に出撃する前に必ずやっていたように、目を閉じて祈りの言葉を口にする。神よ、マジャルを祝福し賜え。
続けて、練りに練った口実をもういちど復唱。『休日だからクーヘン焼いてみたら、ちょっと量が多かったの、よかったらドイツとふたりで食べて♪』
完璧だ。そしてもちろんクーヘンの下ごしらえも完璧。プロイセンの好物、サワーチェリーてんこ盛りのココアクーヘン。生地はすでに寝かせて、明日焼き立てをすぐ持っていけるようにしてある。
雰囲気作りのため、枕元に無駄にアロマなんか焚いてみながら、ベッドに入りイメージトレーニングする。
鏡の前で何度も確認した明日の格好は、研究を重ねた結果の本命彼女コーディネイト【ふわふわ花柄ミニ丈春っぽワンピース★凝ったレース使いと清楚な配色で上品キュート!】
完璧だ。
出陣前夜特有の昂ぶる気持ちを抑えて目を閉じる。
完璧だ。
完璧、だった。はずなのに。
「なんで…」
翌朝、ぐちゃぐちゃに破壊された台所で、ハンガリーは呆然と立ち尽くしていた。
オーストリア指導の下、何度も練習し、本来ふわふわに焼きあがるはずのクーヘンは、何故かイギリススコーンのような炭の塊と化し、キッチンだけはきっちり爆発していた。
―-いや。大丈夫だ。問題ない。これは戦争だ不慮の事態はつきものだ――
なんとか頭を切り替え、瞬時に優秀なコマンダーの目を取り戻すハンガリー。もう一度クーヘンを焼くだけの材料と時間はない。諦めて、簡単なものに変更しよう。
不恰好ながらもなんとか大量のクッキーを焼き上げ、ラッピングを終える。時計を見れば15時。飛行機の時間はとうに過ぎていた。
慌てて空港に電話をかける。幸いチケットは取り直せた。まだ巻き返しは充分に可能である。ばたばたとメイクをし服を着たら、ビリッと不吉な音がした。
「――!!!」
ふわふわワンピの裾が綺麗に破けていた。
半泣きになりながら、空港に向かうタクシーの中で手で縫った。縫い終わって顔を上げたら自分の住む街からちょっとも進んでいなかった。渋滞にはまったのである。
予約し直した飛行機にはまたもや遅刻。空港のキャンセル待ちで二時間費やし、ベルリン空港に降りたった瞬間、華奢なブーツのヒールがボッキリ折れた。なんだか一緒に心も折れた。時計を見れば夜の10時。
もう、涙も出なかった。
【後編へ続く】
作品名:『その日』の彼女 前編 作家名:しおぷ