永遠に失われしもの 第7章
第5楽章まで続く、その長大な曲が
割れんばかりの拍手で終わって、
やっと、二人はお互いの身体をはなし、
紙一枚の差で触れそうな、
お互いの唇を離した。
二人の舌の間に未だ繋がれる一筋の
赤味がかった銀の糸を、
セバスチャンが丁寧に
胸ポケットから出したハンカチでぬぐう。
「曲はよくお聴きになれましたか?」
「ああ、いいBGMだった」
「ええ、情熱的で官能的で」
満足気なシエルの表情に、
漆黒の執事は穏やかな笑みを返す。
「さぁ、貴方を抱いて、
窓からお暇しましょう」
「何故だ?」
愛らしさと高慢さの入り混じる顔で、
首を傾げるシエル。
「このまま、ホワイエから正面玄関を通る
勇気がお有りですか?
恐らく、
同じ桟敷席に座られている
貴族の方の中には--」
と言って、セバスチャンは、その端正な
顔には不似合いの困ったような表情をして
言いよどんだ。
「なんだ?」
「私たちの--
長すぎる抱擁に気がつかれた方も
--大勢いらっしゃるのではないかと」
と大真面目に眉を顰めて、困惑した表情を
浮かべるセバスチャンを見て、
シエルは愉快そうにくっと笑う。
「お前のそんな顔は、
そうそう滅多に見れるもんじゃないな」
「お戯れを仰いますね」
「その顔、記念にとっておきたい位だ」
「何の記念です??」
先ほどまで、
延々と続けられた行為を思い起こして、
自分で言い出しておきながら、
途端にシエルのまだあどけない顔は
上気して、桃色に染まる。
その様子を見て、
今度はセバスチャンが喉の奥で笑う。
「やはり、窓から--」
「いや、いい!
僕は悪魔なんだから・・・
悪魔として普通のことをしたまでだ、
桟敷席で飲食して何が悪い?」
「開き直られましたね--
では、もう帰りましょう」
--そう
悪魔同士貪りあうのは、自然なこと
不毛な享楽--
セバスチャンの心の中に、
小さな針一本ほどの違和感が拡がるが、
悪魔としての彼の本質が、
あえて、それには触れないようにする。
純粋な悪以外の何かが、
彼の内に混ざるのなら、
それは脆さにつながるからだ。
それを育ててはならない--
ホワイエに集まる、豪奢に着飾った貴族が
手に持つ扇越しに
ひそひそと何かを言い合い、
まるで道を開けるかのように、
壁際へと去っていくが、悟られないように
まだその動向を注視している。
「彼らの今宵の酒の肴は、
私たちになりそうですね」
「ああ、目撃者を座の中心にしてな!」
セバスチャンは、繊細な装飾品のような
口角を持ち上げ、暗い微笑を
シエルに投げかけた。
「彼らを殺しときますか?」
「いや、今夜の演奏者に迷惑だ。
彼らは良い演奏をしたのだから」
「そうですね」
「行くぞ、セバスチャン」
「御意」
小さく尊大で気高いオーラを纏った
碧眼の貴公子と、
長身細身で漆黒の髪を持つ優雅で美貌の、
黒い燕尾服に身を包まれた執事が
悠然と歩き、外の闇へと包まれていった。
作品名:永遠に失われしもの 第7章 作家名:くろ