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永遠に失われしもの 第7章

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サン・サーンスの協奏曲が終り、
 シエルは思わず身を乗り出して、
 聴き入っていたことに気がつき、
 一息吐いて背もたれに寄りかかった。


 そして、自身忘れていた
 保管庫から続く喉の渇きと、
 常に襲う飢えとが、
 幕間の休憩時間にあたる
 今はなお一層酷く感じられる。


 「屋敷まで持ちそうにありません--か」


 シエルに近づき、
 屈んで問うセバスチャン。

 やせ我慢で大丈夫だと言いたいシエルだが
 声もきっとかすれているに違いないと
 思って答えない。


 「貴方は、
  貴方の意思と目的を完遂するまで
  衰弱するわけにはいかないのですよ」


 セバスチャンは、手袋をするっと抜いて、
 その白い人指し指をかじり、
 前屈みに腰を折り曲げ、
 シエルの顔に近づくと

 小さくつけられた傷から出る血で、
 シエルの乾いた唇を濡らす。
 
 そして
 ほんの僅かに開かれたシエルの口の、
 その小さな歯に添い、なぞるように
 微かに指を動かした。

 まるで反射運動であるかのように、
 シエルは、思い切りその指を噛んだ。
 すぐに口の中一杯に拡がる甘美な味。


 「もうすぐ、ラロが始まりますので、
  私に耳打ちをしているかのように、
  私の首筋に」


 とセバスチャンがシエルに
 顔を近づけて、囁いた途端に、


 シエルの眼は悪魔の紅蓮の瞳に変貌し、
 無表情のままセバスチャンの髪を両手で
 鷲づかみにして引き寄せ、
 驚きで、形の良い繭を顰め
 紅茶色の目を大きく見開いた彼の、
 その冷たい唇に口づけるほど近く
 自分の唇を寄せた。
 
 心のどこかで感じたはずの
 自分自身の行動に対する
 うろたえと、羞恥は
 大いなる欲望の前に、すぐに姿を消す。


 その小さな舌は、セバスチャンの舌を
 吸い、追い求め、絡みつき、引き寄せる。

 それがシエルの口まで届いた瞬間に、
 その先端を噛み、
 うっすらと流れ出る彼の血を
 執拗に、きつく吸いあげようとしている。


 そしてシエルの手は、
 何かを追い求めるように、
 さらに彼の後頭部の髪を引き寄せて掴み、
 彼の髪をかき乱した。

 情欲の本能に従って
 とろけるような快楽を必死に求めて、
 獲物を追うかのようなシエルの
 上半身とは裏腹に
 腰からは力が抜け、
 いまにも崩れ落ちそうだ


 セバスチャンは、
 その瞳を紅く燃やしながらも
 そんなシエルの耳の上あたりの
 髪を優しく撫でながら、
 その小さな身体を支えるように
 包み込むばかりに抱いている。


 ・・欲しいッ・・・お前が欲しい!・・
 このまま・・・お前の魂を
 吸い取ることが・・できるならば・・


 シエルのその想いは
 その時、セバスチャンが抱いているものと
 全く同一のものなのだ。

 予想外の接吻まがいのこの行為は、
 漆黒の悪魔にとってさえ、
 一時の享楽を追いかけさせる。


 彼とて、永遠に得られぬ魂を求めて、
 もがき苦しみながらも、
 求めずにはいられない。

 たとえ、後には
 絶望しか残されていなかったとしても。


 シエルの身体を支える手に力がこもり、
 その小さく華奢で脆そうな身体を
 ぐぃっと自分の身体に引き寄せ
 密着させた。

  
 背後で、ラロのスペイン交響曲の
 第一楽章の情熱的なテーマが始まる。

 圧倒的なオーケストラの音量と、
 迫力のあるソリストの名演は、
 二人の吐息など、かき消してしまった。