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【スパコミ新刊】さよなら憧憬・またきて慕情【日英】

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「さよなら憧憬・またきて慕情」



 「世界がきれいです。どうしたことでしょう」
 突拍子もなく話し始めた同盟相手に、アーサーはまだ眠気にとろけていた眼を開く。まだ早朝だというのに、本田の目ははっきりとした光を爛々と映している。それは恐ろしいくらいの黒の光だった。
 アーサーは庭仕事用の手袋のまま、鋏を掴んだ逆の手で自らの頬を擦る。
 夕べは盛大な宴がアーサーの家で開かれていて、眠りも浅いまま酒もまだ内臓に残った状態でのこの庭仕事だったのだ。頭は重く、腹の中でいつまでも酒が粘膜をいじめている、うっそうとした気分に寝ぼけを足したようなだるさに、アーサーは右手以外を蝕まれている。
 彼のほうも似たような状態だろうと、ふわふわと的を得ない発言にそうすばやく見切りをつけようとした。
 「まだ寝ぼけているんだ」
 「いえ、昨日から当たり前のことがすべてきれいに見えるのです」
 
 あなたのその緑の瞳も。
 そう本田は付け加え、アーサーの決め付けを交わしてまた惚けた言葉をアーサーの肩の先まで伸ばしてきた。
 語る本田の眼差しは、元来の真面目さに加わって、浮かされたような心地も帯びている。アーサーが会話を繋ぎつつも、その真意を問う目の動きを作る。もちろん、庭仕事の手は止めずに、視線だけを男に張り付かせて胸裏を少しでも読みとろうとする。
 が、男は本当に惚けていてアーサーのその鋭くした推察は徒労だと思い知る。縫いつけた視線を一度外してまたばらの木に目を戻し、作業に打ち込もうとした。
 アーサーの右手には園芸用の鋏が握られていて、時折彼の様子を伺いながら刃を合わせバラの枝を切り落としていく。
 草花すべてが芽吹く春の前に、バラはこうしてある程度形を作ってやらないとならない。植物を支配することからその生き方に任せる用法に変わっていくことがあっても、この花の手入れは毎年決まった時期に決まった作業を行わなければならない。そうしないといけないのは手の掛かるこの花のある程度のルールで、アーサーにとっての百年単位の真理である。
  
 「あなたの魔法ですか?」
 本田がはっきりと朝の庭に声をかんと響かせたものだから、アーサーの方が噴き出してしまう。先ほど作業に打ち込もうとしたばかりなのに、男の挙動にアーサーの考えのほとんどが引っ張られ絡め取られてしまう。

 不覚にもアーサーが笑ってしまったのは、まるで信じてもいないそれを、本田が感嘆の言葉にして見せたからだ。本当に魔力を信じそれを使役するアーサーの方がおかしくなってしまったのである。
 「まぁ、そういうものもないことはないが」
 しかし鋏の右手が鈍っても止めないまま、アーサーは浮かれた本田の話につき合うことにした。
 花と彩りの少ない地味な作業の続く季節でも、アーサーの庭仕事が見たいといったのも彼だし、全て今は彼の言うとおり、望むままの状態にさせておく。そういうものが今の段階のベストであるから、理由はそれ一つだった。
 早春の朝は、園芸用の手袋をはめていなければ指先まで震えに支配されてしまう。寒さが響くばら園の中、二人は他愛のない雑談に浸ることにした。
 男の浮ついた心地は寒さにさらされてもそのままのようで、本田は羊毛で織られた肩掛けにくるまりながら、アーサーの話に耳を傾ける。

 「眠っている間にいたずら好きの妖精が、瞼に魔法をかけて二組の恋人達の相手をすり替える…」
 「それは、なんという」
 「うちの有名な喜劇だよ。聞いたことあるか?」
 一度頷き、本田は低く唸ってみせた。
 取るに足らない会話の一つでも、それに慣れていない二人は互いにリズムのずれを作り出し、それが軋みとなる。
 眼前の男は浮かれて気づいていないかもしれないが、そのきしみの積み重ねがやがて大きなそごになる可能性だってあるのだ。
 アーサーとてできたばかりの友人を、利害の一致する相手を下らないことで失いたくはない。だからこうして雑談で今は表面上の和やかさを醸し出してみる。
 そう考えてみると、本物の感情が芽吹く前に形を強制する、今の関係はアーサーが心を傾けるバラの世話に似ていた。そんな皮肉も口にせず、いまは本田の好きなように喋らせて、好きなように思わせておく。

 「いえ、」
 答えた本田の眼差しは、どこか先ほどの煌めきを削いでいる。アーサーはそれを訝しく思いながらも唇が動くよう任せておいた。
 「なんともはや、それは、グロテスクですね」
 本田の感想は考えつきもしなかったもので、アーサーは一瞬虚を突かれる。
 この話にペシミスティックな笑いや高らかな笑いがつきまとっても、顔を僅かにしかめる反応を得たことは、あの作家が発表して久しくない。
 グロテスク、そう言われたことは初めてであった。
 ブルネットより濃い黒色の髪と同じく、男の目は真っ黒で、視線を合わせるとまた過剰な煌めきが戻っていった。アーサーは先程の反応とこの輝きに少し面食らい、言葉の先を問うこともうやむやにされてしまう。

 「朝飯にしようか。俺はまだ見るところがあるから、先に戻っていてくれ」
 誘いは受諾され、さらに肩掛けで首元の防御を固めた
 本田は穏やかに頷いて、スイセンが植えられたボーダーの真ん中を歩き、ゆっくりと館の方向へ戻っていく。
 アーサーはそれを見送りながら、最後に小さくため息を付いた。呆れでも安堵でもないその息の色を庭に吐き出すと、それと同じくして人々の色めいたざわめき声がアーサーの耳に入りこんでいく。
 もちろん、このアーサーの庭が広大とはいえそれほど多くの人間が低く刈り込んだ木々の隙間に隠れられるはずもなく、その正体は決まりきっている。アーサーのため息と共に一斉に飛び出した小さな光の数々は、この庭に住む花の妖精たちだった。
 「アーサー、アーサー!」
 バラやイチイの葉っぱに隠れるようにしていた妖精達が、一斉に顔を出してはアーサーの名を呼周囲を飛び回る。
 気配さえ感じ取っていたものの、彼らが本田との雑談に口を出すことはなく、じっと様子を伺っていたようだ。彼女たちは早春の庭に黄色・オレンジ・紫・白とカラフルなスカートを翻して、花が綻んだ彩りをアーサーの周囲に見せる。

 「あの子に本当の魔法をかけてあげようか?」
 「お話通りにしてあげる!」
 「とびっきりの魔法を」
 そう話したのは、恋の魔法を持つパンジーの妖精たちだ。愛らしい色の花弁のドレスがいっそう彼女たちの華やかさを湧きたてる。
奇しくも彼女は物語の中で振りかけられた雫の花で、自らが二人の会話にあがったことに気をよくしているようで、羽根を瞬かせてくるりとアーサーの周りを春の燕のように旋回する。
 物語で惚れ薬の雫として使われたように、彼女たちもほのかな恋の呪文を持っているのだ。
 「おい、やめてくれよ」
 焦って声を上げると、側を漂い様子をうかがっていたほかの妖精たちが笑い声と冷やかしをアーサーにぶつけてくる。少女の高らかな笑い声と、ひそひそ話、ひやかすような細い声がすべてアーサー一人に向けられていて、すこし居心地が悪い。
 「あのひとのこと大事なのね」
 「やっとできた友達だもの」
 「優しそうな子でよかった」