ユートピアの喪失
三成が、むっとした様子を隠しもせず、痩せた肩を怒らせて城内をのし歩いている。兵士たちが思わず身を竦め、あるいは後ずさっているのも目に入っているのかいないのか。気づいていたところで構うような男ではないが、それは人の上に立つものとしてどうなんだと言いたくなる。戦場で敵をならともかく、平時の味方を萎縮させてしまってどうする。
「そんなに権現が秀吉に褒められたのが気に入らないのか?」
三成の足がぴたりと官兵衛の声で止まる。気持ちいいくらいの反応だった。
つい先ほどまで、先の戦いの論功行賞が行われていた。家康も三成も、そして官兵衛もそのなかにいた。なかでも家康は、その戦績により秀吉から直々に褒められ、手ずから特別恩賞を賜っていた。あの厳しい秀吉に手放しで褒められるということがどれほど得難い栄光であるか、豊臣に属する者で知らない者はいない。ましてや三成は、秀吉に幼くして召し抱えられた身だ。秀吉に認められたいと思う気持ちで、彼の右に出る者はいないだろう。
「まあ、お前さんがやっかむ気持ちもわからなくはないさ。秀吉子飼いのお前さんと、秀吉に最後まであらがいつづけてた大名とじゃあ、秀吉に対する思い入れも何もかもが違うだろうよ」
だが、立場は家康の方が格段に上だ。三成は秀吉のことを思い、秀吉のために生きているが、そうでない家康のほうが経験、兵力、人望すべてにおいて優れている。だから、家康がほんの小指の先を動かしただけで、大きな戦果が得られるのは当然のことなのだ。
「…そんなことは知っている」
知ってはいても、腹の虫は収まらないのだろう。
そこが三成の三成たる所以だが、官兵衛は腹を抱えて笑った。
「バッカだなあ、お前さん。悔しがるのも腹を立てるのも程々にしとかねえと、遠巻きにされてるじゃねえか。兵士たちの顔見てみるこったな」
じろり、と三成がその場にいた兵士たちをねめまわした。三成に睨まれた兵士たちは、たまったものではない。三成に兵士に対する悪意や害意など微塵もないだろうが、その絵面は蛇に睨まれた蛙そのものだった。己が意図しないうちに兵士たちを慄かせてしまったことに気づいたのだろう、三成がおいと声をかけたが、その時にはすでに兵士たちの後姿は小さくなっていた。蜘蛛の子を散らすようにぴゃっと逃げ去られ、その場には呆然とした三成だけが残された。
「ほら見ろ! そんな般若みたいなご面相してちゃあ、人はついてこない。だから、いつまでたってもお前は秀吉や刑部に甘やかされるばかりのお子様なんだよ」
「貴様! 私を愚弄するか…!」
きっと睨み据えられたかと思うと、すぐそこに三成の顔があった。胸ぐらを掴まれ、官兵衛はさすがにのけぞった。三成が、刹那で間合いを詰めたのだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと待った、お前さん、さすがにそれは大人気がないんじゃ…」
「今し方、私を子どもだと嘯いた口がそれを言うか!」
それは確かにそうだが、子どもだと笑われたからといって子どもであることを大義名分にして何をしてもいいわけではない。もっともこの男には、官兵衛を殴るのにそんな理由など必要ないのかもしれないが。
「おいおい、穏やかじゃないな」
これぞ、天の助け!
官兵衛は、明朗な声に助けを求めた。口元にえくぼを湛えながらも、困ったように眉尻を下げている。後ろ頭をかく仕草は、困っているようでいてその実あまり深刻に悩んでいるようには見えない。彼独特の仕草だった。
「家康! 貴様は口を挟むな!」
かみつくように三成が吠える。
官兵衛の胸ぐらを掴んだ手は未だそのままだ。
「そうは言ってもなあ。とりあえずかわいそうだから、そろそろ放してやれ。あっぷあっぷしてるぞ。大男が首を絞めあげられているというのは、あまり見目よいものでもないしな」
「黙れ、家康! つまらぬ猿知恵ばかりを働かせることしかできぬくせに分相応な野心を抱く愚か者などに、貴様が心を砕いてやることはない!」
「まあ、それはそうかもしれんが」
そこは否定しろよ、と官兵衛は前髪の下でうっかり泣きそうになった。二人が実は共謀して、官兵衛にいやがらせをしているのではないのか、と疑ってしまうくらいの息の合いようだった。
「そ、そろそろ小生、限界…」
フンと鼻を鳴らして、三成が官兵衛の胸ぐらを解放した。やさしさのかけらもない手の放しようで、官兵衛は思い切り床板に尻を打ちつけた。
「三成! お前さんなあ!」
年長者に向かってそれはないだろう、と抗議しようとしたが、三成が払った鞘が飛んできて、それを避けようと頭を屈めた瞬間、すかさず首をしたたかに打たれた。官兵衛は、もんどりうって床を這うはめになった。倒れ込んだ背中に、三成の足袋がぎゅう、と押しつけられる。
「お、ま、え、なあ~!!」
「仲がよくて結構なことだな」
目の前に人の影ができたと思ったら、ご丁寧に官兵衛の前に屈みこんだ家康だった。しかも、にっこり笑って、だ。これのどこが仲良く見えるというのか。
「いいなあ。ワシも三成と仲良くしたいんだが、なかなかうまくいかなくてな…」
「だったら小生と代われ! 今すぐに!」
「いや、ワシは冷たい床板と仲良くしたいわけじゃないから」
「ぬおおおおお! 小生だってなあ! 好き好んでこうなっているんじゃない!」
せめてもの八つ当たりとばかり、拳で床をたたくと、今度は足袋に包まれた足で後頭部を踏みつけられた。ぐぅ、というみっともない声がのどからあがってくる。
「秀吉様の城に傷をつける気か!」
「確かに、官兵衛の力だと穴くらいあきかねんな」
納得するな、助けろ! と言いたいが、顔を床にめり込まされているせいで声もあげられない。
なぜじゃああああああああ!
という、いつもの叫びも、今日は心のなかだけだ。
「三成」
官兵衛の目の前で影を作っていた家康が立ち上がり、官兵衛の頭を踏みつけにしている三成に呼びかけた。頭を踏まれているせいで、官兵衛は身動きがとれない。だから、家康が三成に一歩近寄ったのは雰囲気でわかったが、それ以上のことはわからない。耳元で何事か囁いたようでもあり、そのまま立ち去ったようでもあった。
「お?」
家康が立ち去ったと同時に、三成も官兵衛の上から退いた。踏みつける三成の足からようやく解放されて、官兵衛はようやく四つん這いから人間らしい二足歩行へと体勢を立て直すことができた。
「やい、三成! よくも人を踏んだり蹴ったりしてくれたな! 小生がいつまでも黙っていると思ったら大まちがい…だ、ぞ?」
知らず、語尾が曖昧にあがってしまった。生意気な三成に目にもの見せてやろうと意気込んだのに、肝心の三成はと言えば、やや俯き加減に目を伏せている。
「…権現に何か言われたのか?」
三成の横顔は、少し覇気がないように見えた。陰険で、意地が悪くて、凶暴な男ではあるが、同時に感受性が高く、ひどく繊細でもある。
「お、おい。どうしたんだ、大丈夫か?」
さんざんな目に遭わされた直後であるにもかかわらず心配できてしまうあたりが、官兵衛のよいところであり、また悪いところでもあるのだが、静かでおとなしい三成に、どうにも落ち着かない気がしてしまったのだからしようがない。
「そんなに権現が秀吉に褒められたのが気に入らないのか?」
三成の足がぴたりと官兵衛の声で止まる。気持ちいいくらいの反応だった。
つい先ほどまで、先の戦いの論功行賞が行われていた。家康も三成も、そして官兵衛もそのなかにいた。なかでも家康は、その戦績により秀吉から直々に褒められ、手ずから特別恩賞を賜っていた。あの厳しい秀吉に手放しで褒められるということがどれほど得難い栄光であるか、豊臣に属する者で知らない者はいない。ましてや三成は、秀吉に幼くして召し抱えられた身だ。秀吉に認められたいと思う気持ちで、彼の右に出る者はいないだろう。
「まあ、お前さんがやっかむ気持ちもわからなくはないさ。秀吉子飼いのお前さんと、秀吉に最後まであらがいつづけてた大名とじゃあ、秀吉に対する思い入れも何もかもが違うだろうよ」
だが、立場は家康の方が格段に上だ。三成は秀吉のことを思い、秀吉のために生きているが、そうでない家康のほうが経験、兵力、人望すべてにおいて優れている。だから、家康がほんの小指の先を動かしただけで、大きな戦果が得られるのは当然のことなのだ。
「…そんなことは知っている」
知ってはいても、腹の虫は収まらないのだろう。
そこが三成の三成たる所以だが、官兵衛は腹を抱えて笑った。
「バッカだなあ、お前さん。悔しがるのも腹を立てるのも程々にしとかねえと、遠巻きにされてるじゃねえか。兵士たちの顔見てみるこったな」
じろり、と三成がその場にいた兵士たちをねめまわした。三成に睨まれた兵士たちは、たまったものではない。三成に兵士に対する悪意や害意など微塵もないだろうが、その絵面は蛇に睨まれた蛙そのものだった。己が意図しないうちに兵士たちを慄かせてしまったことに気づいたのだろう、三成がおいと声をかけたが、その時にはすでに兵士たちの後姿は小さくなっていた。蜘蛛の子を散らすようにぴゃっと逃げ去られ、その場には呆然とした三成だけが残された。
「ほら見ろ! そんな般若みたいなご面相してちゃあ、人はついてこない。だから、いつまでたってもお前は秀吉や刑部に甘やかされるばかりのお子様なんだよ」
「貴様! 私を愚弄するか…!」
きっと睨み据えられたかと思うと、すぐそこに三成の顔があった。胸ぐらを掴まれ、官兵衛はさすがにのけぞった。三成が、刹那で間合いを詰めたのだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと待った、お前さん、さすがにそれは大人気がないんじゃ…」
「今し方、私を子どもだと嘯いた口がそれを言うか!」
それは確かにそうだが、子どもだと笑われたからといって子どもであることを大義名分にして何をしてもいいわけではない。もっともこの男には、官兵衛を殴るのにそんな理由など必要ないのかもしれないが。
「おいおい、穏やかじゃないな」
これぞ、天の助け!
官兵衛は、明朗な声に助けを求めた。口元にえくぼを湛えながらも、困ったように眉尻を下げている。後ろ頭をかく仕草は、困っているようでいてその実あまり深刻に悩んでいるようには見えない。彼独特の仕草だった。
「家康! 貴様は口を挟むな!」
かみつくように三成が吠える。
官兵衛の胸ぐらを掴んだ手は未だそのままだ。
「そうは言ってもなあ。とりあえずかわいそうだから、そろそろ放してやれ。あっぷあっぷしてるぞ。大男が首を絞めあげられているというのは、あまり見目よいものでもないしな」
「黙れ、家康! つまらぬ猿知恵ばかりを働かせることしかできぬくせに分相応な野心を抱く愚か者などに、貴様が心を砕いてやることはない!」
「まあ、それはそうかもしれんが」
そこは否定しろよ、と官兵衛は前髪の下でうっかり泣きそうになった。二人が実は共謀して、官兵衛にいやがらせをしているのではないのか、と疑ってしまうくらいの息の合いようだった。
「そ、そろそろ小生、限界…」
フンと鼻を鳴らして、三成が官兵衛の胸ぐらを解放した。やさしさのかけらもない手の放しようで、官兵衛は思い切り床板に尻を打ちつけた。
「三成! お前さんなあ!」
年長者に向かってそれはないだろう、と抗議しようとしたが、三成が払った鞘が飛んできて、それを避けようと頭を屈めた瞬間、すかさず首をしたたかに打たれた。官兵衛は、もんどりうって床を這うはめになった。倒れ込んだ背中に、三成の足袋がぎゅう、と押しつけられる。
「お、ま、え、なあ~!!」
「仲がよくて結構なことだな」
目の前に人の影ができたと思ったら、ご丁寧に官兵衛の前に屈みこんだ家康だった。しかも、にっこり笑って、だ。これのどこが仲良く見えるというのか。
「いいなあ。ワシも三成と仲良くしたいんだが、なかなかうまくいかなくてな…」
「だったら小生と代われ! 今すぐに!」
「いや、ワシは冷たい床板と仲良くしたいわけじゃないから」
「ぬおおおおお! 小生だってなあ! 好き好んでこうなっているんじゃない!」
せめてもの八つ当たりとばかり、拳で床をたたくと、今度は足袋に包まれた足で後頭部を踏みつけられた。ぐぅ、というみっともない声がのどからあがってくる。
「秀吉様の城に傷をつける気か!」
「確かに、官兵衛の力だと穴くらいあきかねんな」
納得するな、助けろ! と言いたいが、顔を床にめり込まされているせいで声もあげられない。
なぜじゃああああああああ!
という、いつもの叫びも、今日は心のなかだけだ。
「三成」
官兵衛の目の前で影を作っていた家康が立ち上がり、官兵衛の頭を踏みつけにしている三成に呼びかけた。頭を踏まれているせいで、官兵衛は身動きがとれない。だから、家康が三成に一歩近寄ったのは雰囲気でわかったが、それ以上のことはわからない。耳元で何事か囁いたようでもあり、そのまま立ち去ったようでもあった。
「お?」
家康が立ち去ったと同時に、三成も官兵衛の上から退いた。踏みつける三成の足からようやく解放されて、官兵衛はようやく四つん這いから人間らしい二足歩行へと体勢を立て直すことができた。
「やい、三成! よくも人を踏んだり蹴ったりしてくれたな! 小生がいつまでも黙っていると思ったら大まちがい…だ、ぞ?」
知らず、語尾が曖昧にあがってしまった。生意気な三成に目にもの見せてやろうと意気込んだのに、肝心の三成はと言えば、やや俯き加減に目を伏せている。
「…権現に何か言われたのか?」
三成の横顔は、少し覇気がないように見えた。陰険で、意地が悪くて、凶暴な男ではあるが、同時に感受性が高く、ひどく繊細でもある。
「お、おい。どうしたんだ、大丈夫か?」
さんざんな目に遭わされた直後であるにもかかわらず心配できてしまうあたりが、官兵衛のよいところであり、また悪いところでもあるのだが、静かでおとなしい三成に、どうにも落ち着かない気がしてしまったのだからしようがない。