ありがとう
「え」
男は些か驚いたように繁々とレイを見つめたあと、ぷぷっと笑った。
「…何だ」
「いや、レイらしくないなーって」
どういう意味だ、そう言おうと口を開きかけたレイより先に、ぽつりと男が呟いた。
「俺、レイに会うために取引、したんだ」
「…俺に会うため」
多分そうなのだろうという気はしてはいたものの、改めて言われるとやはり不思議な気がしてむず痒い。
「うん。俺ね、すーげえ遺伝子持ってるんだって。何十億分の一、とかいう超貴重な遺伝子」
「それは…凄いな」
これには素直に驚いた。パッと見たところ、申し訳ないがとてもそんな大層な人物には見えない。幼さの残る声や口調がそうさせているのか、男は自分よりも年下に見える。
「ね、スゲーよな」
まるで他人事のように言って、男は笑った。その屈託のない笑顔につられるようにレイの頬も自然に緩む。
「そんなに希少価値のある遺伝子なら学者たちは放って置かなかっただろう」
「うん、凄いよー毎日。検査だの研究だのって手紙から電話からさー」
思い出しているのか、本当にうんざり、というように男は溜息をついた。
「でも俺、研究に協力するためにひとつだけ、条件つけてたんだ」
「…条件」
「そう。でもずっと、叶わなかった。どいつもこいつも同じことばっか言ってさ」
「…」
「彼は死んだよって、そればっかり」
両手をうーんと伸ばし、首を後ろに倒して夜空を見上げながら男はあーんと口を開けた。まるで意味の無いようなその行為を横目で眺めているうちにレイは気付いてしまった。男が小さく震えていることに。
「…俺、か」
自分で言った言葉に、心がちくりと病んだ。男は大きく息を吐き、一度目を閉じて深呼吸をしたあと、噛み締めるようにゆっくりと、言葉ひとつすら愛しそうに独りごちた。
「…でも、やっぱり、生きてた。………レイ」
赤い瞳は熟れた果実のように色付き、揺れていた。真摯で力強く、澄んだ瞳。何にも動じることなく、迷いのない瞳。
何と美しいことか。
目を奪われた。
目の前の男から絶え間なく溢れ出してくる温かくて優しい感情。俺の心を穏やかに、それなのに激しく揺さぶる感情。その感情の波は空気を震わせ、ちりちりと肌を、細胞を伝わってゆく。過去の俺がこの男と過ごしたであろう時間を思い、心臓がぎしぎしと音を立てた。この男と俺はとても親しかったのだ。
家族。家族と呼べる存在の無い俺にとって、家族のような存在だったのかも知れないと、何故か唐突にそう思った。何年も、俺を探していたという。自分自身と引き換えにしてまで、俺に会いにきた男。
胸が詰まった。痛かった。どうして俺は覚えていないのだろう。何故忘れてしまえるのだろう。俺は。俺は、どうして。
生きているのだろう。
ぱた、と、しずくが零れ落ちた。透明のそれは頬を伝い、顎の先でふるりと震えてレイの衣服を濡らした。目の前の男が大きな瞳を更に大きく見開き驚きを露わにしていたが、それ以上にレイ自身が驚いていた。
不安、安堵、怒り、安らぎ。言い表すことが出来ない程の、知り得なかった様々な感情が心を、体を支配してゆく。訳がわからなくて恐ろしいと思うのに、過去の自分がおいでおいでと手招きしている気がして堪らなかった。
(俺は、泣いているのか…)
呆然とその事実を認めたとき、無意識に言葉が出た。
「会いに来てくれて、…ありがとう」
男はグッと喉を鳴らし僅かに顎を引いて唇を噛み締めると、まるで泣くことを我慢するように体を強張らせ、笑った。
「…何言ってんだよ、レイ!ありがとうって、そんなの当たり前じゃんか、俺、約束しただろ?」
男はジーンズのポケットをごそごそと探り、四角く畳んであるハンカチを差し出した。
「今日はレイの誕生日なんだからさ、めでたい日に泣くなんて、ナシ!」
カチリ、と頭の隅で音がした。違和感。ざらりと思考回路が重くなる。
「…俺の、誕生日」
差し出されたハンカチを条件反射のように受け取る。頭がわんわんとエコーする。…何だ?これは?空間がぐにゃりと歪む。ぐらぐらと揺れる視界に、手にしたハンカチが映る。
くしゃくしゃのハンカチ。
いつもきちんとアイロンをかけたものを持てと言っているのに、今日は使わなかったからいいんだと言ってポケットに入れっぱなしにするからこんなにくしゃくしゃになるんだ。
「そう。レイ、誕生日おめでと!俺、それだけ言いたくて」
お前はいつもそうだ、
「………シン」
「!」
「俺の…誕生日、と言ったな」
「れ、レイ!レイ、レ…」
「今日は…お前の誕生日だろう、シン」
もやもやとした視界はそのままだった。しかし、この男の名はシンで、俺に誕生日をくれたのはこの男であり、俺に俺を与えてくれたのはこの男だった。何故と問われてもわからない。理由などなかった。【思い出した】のだ。
タガが外れたように、ダムが決壊したように、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を瞳いっぱいに溜めたシンが体ごと飛びついてきても驚かなかった。勢いが良すぎてそのまま後ろに倒れてしまい、胸にシンの重みを感じても不快だと思わなかった。まるでそうすることが当たり前のように、そうするために出来ているようにすっぽりとレイの腕の中に納まる体を懐かしいと思った。
「…すまない。名前しか、…思い出せない」
「いいよそんなの!お、俺のこと、俺のこと呼んでくれただけで、…っ、いいから………」
顔を埋めたシンがしゃくりあげるように呼吸を繰り返す度に、涙と鼻水で濡れた首元がくすぐったくてレイは少しだけ笑う。
シンのぴょんぴょんと跳ねた黒い髪の隙間から天を仰ぎ、レイはそっと目を閉じた。ヒッヒッと引き攣るような喉音とグズグズと鼻をすする音に耳を澄ませながら、レイはシリングを思った。
人類の限りない可能性について私を悩ませてくれる君たちに、敬意を表そう
博士、あなたはこうなることを望んでいてくれたのでしょうか。もし、そうだと仰ってくださるのなら、俺は。
「………レイ」
「何だ」
「…俺との約束、覚えてなくても守ってくれるよな?」
ズズ…と、鼻をすすりながら首を動かして心配そうに顔を覗き込んでくるシンに、レイはフッと微笑んだ。
「…ああ、勿論」
「…良かった、俺、本当は…その為に来たんだ」
体を起こし、眩しそうに目を細めたシンが伸ばした右手を、レイは迷うことなく取った。繋いだ手と手に視線を向け、目と目を合わせて笑った。
「行こ、レイ」
淡く、鈍く、優しい月に照らされたふたつの影が揺れていた。立ち止まり、研究所を振り返ったレイにシンが「どうしたんだよ?」と問いかける。
「…いや、忘れていたなと思っていた」
「何を?忘れ物?」
首を傾げるシンの仕草はやはり少年のようで、到底同じ年齢だとは思えない。幼さを色濃く残す頬と眉。
繋いだ手に、今の自分が込められる精一杯の思いを乗せた。
「シン。誕生日、おめでとう」
息を呑み、目を丸くするシンを見つめながら、こいつはさっきから驚いてばかりだと思い、直ぐにそれはそうかとレイは苦笑した。俺だって十分驚いているのだ。