ありがとう
その日は朝から研究所が騒がしかった。
いつもはゆったりと流れてゆく午前中の検査が慌しく行われ、部屋に訪れた若い研究員が予定されていた午後のテストが明後日に延期になったと告げたとき、レイは何の気無しに問いかけた。
「珍しいな。何かあったのか」
「ああ、何だかシリング博士が物凄い研究対象者を連れてきたみたいで。所内はそれでてんやわんやですよ」
「研究対象者…」
何故か、その言葉に神経が反応した。珍しいことではない。この研究所にはそういった被験者がよく訪れる。優秀なDNAを持った者、特異なDNAを持った者、ありとあらゆる遺伝子に関する研究が行われているからだ。
顎先に手を当て俯いたレイに、若い研究員は屈託の無い笑顔で話しかけた。
「ええ、でも今回はいつもと少し雰囲気が違うんですよね。僕みたいな新米は見学すらさせて貰えないみたいだし」
「………」
「そういうわけなんでレイさんには申し訳ないんですけど…午後はお休みになっていてください」
本当に済まなそうに眉を寄せる研究員に口もとを緩めて返し、レイは突然できた休日をどう過ごそうかと思案した。
シリングが直々に連れて来たという被験者のことは勿論気になった。数日前、彼が自分に言った言葉も然り、だ。が、当然だが被験者同士の接触は固く禁じられている。
(考えたところで仕方ない)
レイはもやもやと霞む頭を軽く左右に振ることで追い払うと、ベッドにごろりと体を横たえた。
ざわざわと波打つ細胞が、ちくちくとレイの心を刺激する。誰かに呼ばれているような、誰かを呼んでいるような不思議な感覚。意味深なシリングの言葉。ぐるぐると脳内を駆け巡る混沌とした感情。
…俺は、いったい何者なのだろう。
夕食を終え部屋へと戻る途中、廊下でシリングとばったり出くわした。…いや、もしかしたら偶然ではなかったのかも知れない。何故ならそこは研究所内の宿舎領域で、シリングのような博士号を持つ者が普段居るような場所ではなかったからだ。
シリングは開け放たれた窓枠にもたれかかるようにして夜空を見上げていた。レイは黙ってその隣に立つと真似るように窓枠に肘を付き、同じように藍色にたゆたう空を見上げた。
「…今夜は月が赤いな」
徐にシリングが口を開いた。言われて見ると、確かに煌々と光る満月は赤く色付いている。
「そうですね、地球で地震でも起こるのでしょうか」
「ふむ。レイはどうして月が赤く見えるのか…知っているかね」
そんなことを聞くためにわざわざ自分を待っていたのかと、少々疑問に思いつつもレイは口を開く。
「確か、地中の電磁波によって空気中の水蒸気が刺激され、それによって刺激された波長が赤を残すため…だったように記憶していますが」
レイの答えにシリングはハハッと声を上げて笑った。
「さすがはレイだな。補足させて貰えるのなら、それは満月のときに一番強く表れる、ということくらいだ」
「面積と光量の関係…ですか?」
「ご名答」
少年のように無邪気に笑うシリングに、レイも自然と笑みが漏れた。
「…博士」
「何だね」
「先日の…お話ですが」
また拒まれてしまうかも知れないと、窺うように切り出したレイにシリングはフッと目尻を下げた。
「今日は月が赤い。しかも満月ときた」
「?」
先日の意味深なプレゼント発言と月の話が全く結びつかず、レイは怪訝そうにシリングを見上げる。
「一晩中お月様でも見上げていたら、何か起こるかも知れんな」
確かに、月は赤かった。
明らかに誘導するようなシリングの言葉にあえて逆らうこともせず、レイは中庭に向かっていた。腕時計を見遣る。23:00。一晩中、というからには深夜まで居ろということなのだろうと勝手に解釈をして芝生に足を踏み入れた瞬間、人影が目に付いた。
中庭の真ん中に仰向けで寝転がり、大の字になっている。
(…誰、だ?)
さくさくと靴音をさせて近づく。レイの気配に気付いていないわけはないはずなのに、その人物は微動だにしない。
さくさく、さくさく。
厳重なセキュリティのもと管理されている研究所だ、この場所に居るからには危険人物ということもないだろう。しかもシリングがここに俺を呼んだのだから。そうは思うものの、レイの鼓動はどくどくと音を立てる。不安定な感情がぐるぐると胸を渦巻く。体がふわふわと宙を浮いているような感覚すらする。
(…何だ、これは)
無意識のうちに震えている手のひらにレイが気付いたとき、数歩先の黒い影がむくりと起き上がった。
少年…と呼ぶには大人びた、しかし青年と呼ぶには少々あどけなさの残る顔立ち。黒い髪の男は目を見開き、真っ直ぐにこちらを見て、こう言った。
「…レイ」
「!」
真っ赤な、燃えるような瞳。月よりも赤く、強い光。何かの暗示をかけられたように足が勝手に動き、一歩、また一歩と男に近づく。
本来であれば驚くべきは名を呼ばれたことなのだろう。過去の自分を知る部外者がここに居ること自体が厳重処罰の対象だ。
頭ではそう理解しているのに、レイは目を逸らすことも、ましてや踵を返すことも出来なかった。
「…君は」
やっとの思いで声にした言葉は、掠れていた。乾いた喉でごくりと唾液を飲み込む。
レイの言葉に黒髪の男は一瞬酷く悲しそうな顔をして、それでもそんな自分を恥じるように唇を噛み締めると、にこりと笑った。…多分、必死に。
「俺…俺は、名乗っちゃいけないんだ。…それが、約束だから」
「そう、か…」
その言葉に漸く、少しばかり冷静になる。俯いた男のつむじをぼうっと眺めていると、何故か酷く懐かしいという不思議な感情が芽生えてきて、レイはこめかみを押さえた。
俺は、この男を知っている。
俯き、黙り込んだ男の隣に腰を下ろすと、触れたわけでもないのに男の体がびくりと揺れた。
「すまない、近過ぎたか」
移動しようと僅かに腰を浮かしかけると、途端、男はレイのシャツの裾を握り、ぶんぶんと首を左右に振った。
「…」
その子供のような振る舞いにレイは暫し呆気に取られ、まじまじと男を見遣る。ぎゅっと握り締めたシャツの皺に目を落とすと不思議と笑いが漏れた。
微笑ましい、とでもいうのだろうか。その男の態度は、ヒナが必死に親鳥にしがみつくさまをレイに思い起こさせた。
「…答えられることだけで良い、少し…俺と話をしてくれないか」
レイの言葉にがばりと顔を上げた男は真っ赤な瞳を一杯に見開いてレイを見つめると、へへっと照れたように笑い、大きく頷いた。
「君は、今日シリング博士に連れられて来た被験者なのか?」
「…シリング?」
誰それ、というように小首を傾げたあと、男は「ああ、あのオジサンか」と呟き、まるで当たり前だと言わんばかりのさりげなさでけろりと言った。
「うん。取引、した」
「…取引」
物騒な言葉に思わず眉間に皺を寄せたレイに、男は慌てたように付け加える。
「あ!そんな怪しいことじゃなくて!えっと、なんてゆーか…その…」
もごもごと口篭る男はきっと【約束】とやらを考えているのだろう。レイはふうと息を吐くと、男の負担にならぬよう努めて明るく言った。
「悪かったな。答えられないのなら無理をして言う必要は無い」